「激動とともに生きる五十里」(栃木県日光土木事務所)がよくまとまっているので手短に紹介します。
1.五十里湖の出現
天和3年(1683年)9月1日、M6.8の大地震が日光・藤原・南会津地方を襲います。
日光御神領、西川村の葛老山が崩壊し、男鹿川をせき止め五十里湖が出現しました。
崩壊した土砂の量は、約60万立方メートルと推測されます。
会津西街道の交通は遮断され、高原新田宿への山越えとなります。
2.五十里湖の水抜き工事
五十里湖の出現から24年を経て、会津藩が水抜き工事に乗り出します(請負額は4,375両)。
巨大な一枚岩盤に突き当たり、当時の工法では、岩盤の上でいもがらを燃やし、
水をかけ岩盤を脆くして掘り進むため、はかどらず、工事中止となりました。
その責任を負い、会津藩士早川上粂之助と高木六左衛門が割腹自殺を遂げます。
布坂山の頂上にこの藩士の墓と伝えられる小さな祠があります。
この伝説から布坂山は腹切山とも呼ばれています。
3.海抜けと大水害
享保8年(1723年)8月10日、五十里湖出現からちょうど40年後、五十里湖が決壊します。
下流の川治村、藤原村は全村壊滅的打撃を受け、その被害は宇都宮まで及びます。
4.再び五十里湖の出現
五十里ダムが昭和31年に完成し五十里湖が再び出現します。
【過去】
布坂山(通称「腹切り山」)に高木六左衛門の墓がありました。
高木六左衛門の墓はしっかりと手入れされていました。
【現在】
ちびっこ広場と駐車場が掘割の跡で、高木六左衛門の墓は、ちびっこ広場に移設されています。
布坂山に上り、湖畔亭ほそいの横に出てくる道は、通行止となりました。
(説明板)
「伝 高木六左衛門の墓
この布坂山は別に、腹切り山ともよばれています。
天和三(一六八三)年、日光大地震によって葛老山の一部が崩壊し、男鹿川をせき止めて、周囲三十余キロメートルの湖ができました。これにより、会津西街道の交通は遮断され、会津地方からの年貢米の輸送等の大きな障害となりました。そこで会津藩は、藩士の高木六左衛門に堀割の工事を命じ、湖水の切り落としを図りました。しかし、工事は厚い岩盤にはばまれて難航し、完成しなかったのです。そのため、高木六左衛門は、責任を取って、この場所で割腹、自害したと伝えられています。
四十年後の享保八(一七二三)年八月
この湖は決壊し、その水勢は下流に甚大な被害を及ぼしました。これが歴史に有名な五十里洪水です。
日光市
五十里自治区」
布坂山への入口→ダム工事各社の事務所撤去後の現在は封鎖されました。
布坂山からの出口→こちらも封鎖です。五十里湖総合開発株式会社とあります。
かつて、東武観光センター五十里湖店(藤原町五十里596-14)がありました。
橋の名前が起承転結でうまい具合に話ができあがります。
@六左夢見橋
五十里湖の出現で水を抜くのが皆の願い(夢見)でした。
A六左海切橋
高木六左衛門は水抜き工事(海切)に挑みます。
B六左夢跡橋
海切は失敗、高木六左衛門は割腹自殺、その直後に海抜けが起こります(夢跡)
C六左見送橋
洪水対策の五十里ダムの完成を高木六左衛門は見送り成仏できます(見送)
海尻トンネルを抜けると海尻。
海尻橋をわたり、布坂山(腹切山)を左手にみつつ行くと、五十里湖畔に湖畔亭ほそい。
直近訪問:2029年5月