昔は、宿をおこす時は、道もつくるのも当然でした。万人風呂への道もしかり。
明賀屋本館までの道は、元々は、明賀屋が切り開いた道。
「明賀屋から氏家の豪農に嫁いだ「お兼(かね)」さんが、遺言により塩の湯に行く道を私財で改修しました。」 (明賀屋さんのblogより)
湯殿への参道のように、賽銭が落ちている道ではなく、おかねさんが改修した道。
そのお兼さんの碑が、おかねみち橋を渡って、左手の前山八方ヶ原線歩道の案内板の奥にあります。
大正4年に建てられた碑は、風化が進みつつありますが、カネ子さんのお姿が描かれています。
「塩原名勝旧跡の伝説(大正10年)」(塩渓探勝会編)の記載を引用します。
「お兼婦人は、明賀屋の老おん(原典は女編に○)にして、夙に公共の事業に心を
傾けられ、自分一己の考もて、鋭意道路の改修に、身命を賭したる一個の女丈夫である。(略)
お兼道を来往する毎に、紅葉岡なる老おんの頌徳碑に向かって、敬意を表して通過するものである。」
昔の温泉案内書には、必ずと言って良いほど、おかね道が紹介されています。
今は、おかねさんの道も、おかねさんの碑も、全く顧みられてはいないと思います。
塩の湯に行く際、おかね道を通る時は、私も敬意を表します。
与謝野晶子と鉄幹が入浴して何句も詠んだ塩の湯、晶子も階段降りたんですね。
でも、300段も川底へ向かって降りるのは、大網温泉です。
塩の湯は、階段数えたら、木道175段、石段16段で計191段でした。昔は300段もあったのかな?
晶子も階段の数を数えながら降りたのでしょう。
与謝野晶子
「秋の日のかのまた川の桜沢けはしき峡に水のおどろく」
「塩の湯の三百段のきざはしを下る目に見るたかはらの山」
「あかつきのかのまた川の湯の樋より紅葉の中にのぼるしら雲」
「相並び岩の上をば渡り行く中の湯の湯気塩の湯の湯気」
「岩窟の湯に居て見れば皆青しかのまた川の紅葉藻の屑」
「岩の上に素肌の少女来て立ちぬ湯気が描きたるまぼろしの絵か」
「わが宿の黒ききざはし岩の湯のしろききざはし渓に並びぬ」
与謝野寛
「相抱き切崖に死ぬよろびを塩の湯に来てまたおもふ人」
「懸樋より立つ湯けぶりを二尺ほど隔てて谷に垂れしもみぢ葉」
「風ふけば湯ぶねの人を隔てけり大岩に立つ白き湯けぶり」
おかねさんに感謝して入浴しました。
カネ子さんのお姿が描かれている「滝沢カネ子頌徳碑」を裏からみると、立派などっしりした岩です。
頌徳碑の裏から、遊歩道に入り、仙人岩吊橋に向かいます。
鹿股川を横切るのは、鹿股2号源泉の引湯管かな。
鹿股川辺に着くと、石畳の歩道です。土台の土だけ流された石畳は通行止め、横を歩きます。
仙人岩吊橋に到着すると鹿股川は鉱物で青く輝いています。
与謝野晶子「岩窟の湯に居て見れば皆青しかのまた川の紅葉藻の屑」見事に表現していますね。
仙人岩はがけ崩れで埋もれてしまっています。
自然石とは思えない碑らしきものがありました。
案内板より
「仙人岩吊橋のいわれ
むかしむかし、まだ塩原に人がすむまえのおはなしです。
あるところに「如葛(じょかつ)」という名前の仙人がいました。
ある日、如葛仙人が空を飛んでいると、山深い谷間に赤サビ色に染まる小さな沢を見つけました。
不思議に思った如葛仙人が沢の辺に降り立つと、そこには温かい温泉がフツフツト湧いておりました。
この谷が気に入った如葛仙人は、この赤い沢の近くに、よいねぐらはないかと探しました。
そして見つけたのが赤い沢から少し離れたこの鹿股川でした。
如葛仙人は鹿股川のほとりの岩場をねぐらときめて、いつまでも暮らしたということです。
その岩が後に「仙人岩」と呼ばれるようになりました。
しかし残念なことに、現在ではがけ崩れにより仙人岩はうもれてしまいました。 栃木県 」
※赤い沢とは、元湯の赤川のことでしょう。