会津西街道は高原新田から藤原宿へ通じていました。高原道(太閤下ろし)です。
秀吉は天正18年(1590)年、奥州仕置きの帰路、会津西街道の道中、坂が急で下馬して、
あるいは駕篭から降りて、歩かねばならなかったため、
高原道は太閤下ろしと呼ばれ、そこにある滝が「太閤下ろしの滝」です。
太閤下ろしの滝は、もみじラインのカーブ番号1のところの駐車場から滝まで100m。
簡単に行けます。
秀吉と浅野長政は、この時、塩原元湯で入湯したと伝えられています。
天正十八年(1590年)秀吉の小田原城攻めの際に、
宇都宮城主・宇都宮国綱は小田原に駆けつけています。
一方、日光山衆徒は北条氏に加担し出兵し、秀吉の怒りをかい、
湯西川村(日光山領)は焼き討ちとなり一村ことごとく焼亡しています。
浅野長政は塩原元湯を好み、真壁城主(茨城県桜川市真壁町桜井)で隠居し、
元湯で湯治中に1611年亡くなります。
長政が亡くなった場所ですが、真壁本陣で亡くなった記載、塩原元湯で亡くなった記載があります。
昔の塩原元湯では、一般入浴不可の、殿様専用の浴舎があり、これを本陣と言います。
解釈する人が、本陣で亡くなった→真壁の本陣で亡くなったと思いこみがあるのではと思います。
塩原元湯の殿様専用の浴舎である本陣で亡くなったと考えるのが自然だろうと考えます。
<真壁城主累代之墓碑群偏照院 40基> 茨城県桜川市真壁町桜井
真壁氏の氏寺と伝えられる偏照院境内に40基の五輪塔があります。
浅野長政ですが、温泉の他、囲碁を好みました。
元禄2年(1593年)、囲碁事件を起こしています。
浅野長政と黒田官兵衛は朝鮮出兵の時に囲碁対局しており、
その最中に訪ねてきた石田三成ら奉行を待たせ、激怒させます。
三成はこれを秀吉に告げ口しますが、秀吉は咎めませんでした。
長政は、徳川家康とは囲碁友達でした。
日本囲碁協会の囲碁史会会員、光井一矢氏が、家康と長政の対局に関するエピソードを
「武辺雑話」から二つ掲載しているので、紹介します。
<1つ目>
『あるとき、長政と対局していた権現様(家康)は形勢芳しからず、かなり機嫌を損じている様子。
そこで、長政の末子である釆女長則が本因坊(算砂)に迎えを出して観戦させた。
権現様は本因坊を見つけると、手招きしてこういった。
「わしらの碁はどうじゃ。この石をハネたらどうじゃ。それよりほかに手はなかろう」と。
本因坊は答えた。「おハネなさるよりありません」
そこで、権現様はハネを打って、その碁を勝ち機嫌がなおった。
一方、長政は大いに怒り、本因坊を次の間へよびだし脇差に手をかけ
「へんなところへその方がしゃしゃり出で、わしは碁を負けた。
重ねて助言しようものなら斬って捨てるぞ」と詰め寄った、というもの。』(全文引用)
<2つ目>
『屋敷の庭前に毛氈を敷き、両者はその上で碁を囲んだ。
立会いの算砂は「日が当たり、まぶしいですから」と断って日除け傘をさした。
その傘には、あらかじめ小さな穴が空けられており、家康が石を打つべきところへ穴からの日差しで示す。
家康は算砂の意図をさとり、そのとおりに打って勝つことができた。
長政は不興千万に思い悔しがったが、家康は算砂に「お前は頭が良い」といってほめたという。』
(全文引用)