Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 寂光の谷

  若子神社
  寂光の滝
  覚源上人の墓と常念仏堂跡
  若子神社池石(生石)

 近辺

  釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓
  延命地蔵(犬牽地蔵)
  蓮華石
 



若子神社(じゃっこじんじゃ)

 解説板
 「若子神社
  弘仁十一年(八二0)日光を訪れた弘法大師空海は、
  滝尾神社を開き、次いでこの奥の寂光の滝で修行した。
  夢の中で女神のお告げを受け、ここに祠を建てたと伝えられる。
  室町時代には、寂光寺の七堂伽藍が立ち並び、
  釘念仏道場として繁栄した。
  釘念仏のお札は、現在も輪王寺で受けることができる。

  明治以降「若子神社」と改められた。祭神は下照姫命。
  祭日は、十月三十日。」

 「日光山小誌」(明治33.9)によると、

 「池の辺に芭蕉翁の碑あり
  安らたふと青葉若葉の日の光 ばせお」

  以前は、芭蕉句碑があったようです。

     

     



寂光の滝

 解説板
 「高さ50m、幅6m、7段になって落ちている。
  昔から名瀑として知られ、「布引の滝」「七滝」などの別称をもつ。
  「寂光瀑布」として、「日光八景」の一つに数えられている。」

     
 

 「布引の滝」「七滝」などの別称をもつと説明板にありますが、
 「日光名勝案内記」(島村忠次郎編 鈴木角太郎発行 明32.5)布引瀧(寂光の瀧)の説明では、
 「世人七瀧と云は誤りなり」としています。
  新撰日光山誌の七滝の解説では、滝尾の白糸の滝の上流、
  稲荷川の水源にして滝泉7か所より落ち集まるをもって名づけられた滝としています。

 「日光御山之絵図」(江戸時代)に、七瀧が描かれています。
 「日光山志」(江戸時代)に、7つの滝が集まっている七瀧が描かれています。

      
 

  <日光八景>

   1711年(正徳元)輪王寺宮公弁法親王は、日光山の名勝八景を撰んで、
   陪従の僧徒・坊官等と詩作をこころみました。
    小倉春暁 鉢石炊煙 含満驟雨 寂光瀑布
    大谷秋月 鳴虫紅楓 山菅夕照 黒髪晴雪

   日光山志 日光八景記載

     
 

   日光山志 日光八景挿絵

    小倉春暁 鉢石炊煙 含満驟雨 寂光瀑布

    大谷秋月 鳴虫紅楓 山菅夕照 黒髪晴雪



覚源上人の墓と常念仏堂跡

 木橋を渡ったところに、覚源上人の墓と常念仏堂跡があります。
 覚源上人の地獄めぐりと釘念仏札について、日光山志に「釘念佛縁起」が載っています。
 釘念仏御札は日光山輪王寺常行堂が引継ぎ、三仏堂でお札を授けてくれるようです。

    



若子神社池石(生石)

 解説板
 「池石(生石)
  石の上面に周囲二メートル、深さ三十センチほどの凹みがあり、
  水をたたえているので「池石」と呼ばれた。
  ここに溜まった水は、あたかもこの石が生きているように、
  一年中枯れたことがないことから「生石」とも呼ばれた。
  池石の水をかきまわすと、雨が降るという言い伝えがある。
  また、この石は、若子神社の遙拝所(前立)であり、
  石の水が尽きないように無限の財益を授けると言われている。」

  「一日の行楽 寂光の谷」(田山花袋 博文館 大正7)によると
  田山花袋も「私なども戯れにそれを掻き廻して帰りに夕立に逢ったことなどがある。」
  田山花袋が池石の水をかきまわしていたとは、なんともおちゃめ。
  来る度にかき回していたとも受け取れる表現です。

    

   



釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓 日光市本町1

 栃木県文化財、県HP説明より

  「 女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する釈迦堂の西側に所在する墓地であり、
   南北に長い長方形状を呈し、東側の釈迦堂本堂に向く。
   墓碑は総計24基で、3代将軍家光の殉死者5名、初代家康及び2代秀忠譜代家臣の墓碑19基である。
   その没年銘により、慶長15年(1610)から寛文8年(1668)に及び、およそ江戸初期のものとみられる。
   大老や老中といった幕閣の最高の権門・武門のものを含む24基の墓碑が、
   整然と存する本墓地の景観はまさに偉観であり、その価値は極めて高いといえる。」

     

    



延命地蔵(犬牽地蔵)
 
 日光市HP説明より

 「 延命地蔵堂(附)本尊木造地蔵座像、木像仏七体及び境内地の石造地蔵座像二体
   日光開山勝道上人一行が二荒山登頂の途中、田母沢の急流を前に難儀していると地蔵菩薩が現れ、
  お陰にて一行は無事対岸に渡り山頂を極めることができた。地蔵尊に深く感謝した上人は、
  湯元温泉を発見すると湯の湖畔兎島に地蔵尊を刻み安置した。
  その後弟子達は、田母沢の両岸に石の地蔵尊を造像、追って本堂・寮坊を建立し、
  日夜勤行を行なったという。これがこの地の謂われである。
   その後室町の頃、上人御作になる湯元地蔵尊の霊験を信じることなく、
  尊像に犬をつないで湖に投げ込むという暴挙にでた板橋領主が、地蔵尊の霊験で懲らしめられ
  改心したしたという伝承をもって、湯元の地蔵尊は犬牽地蔵とよばれるようになった。
  元禄年間、参拝の便を図り、尊像を湯元兎島から中禅寺湖畔へ移動、延命地蔵として益々信仰される。
  その後田母沢の地蔵堂が焼失したこともあり、一切衆生の結縁を考慮し、
  この地蔵尊をもって険峻より当地に再度移動し祀ったという。
  これらの伝承をもって延命地蔵尊は篤い信仰を受け、現在に至る。」

 「延命地蔵太士」(文化8年)の碑、造地蔵座像二体、その横にも石地蔵数体があります。
 元は湯元の兎島にあったとのこと。

     

    



蓮華石 日光市花石町

 説明板
 「  蓮華石
  昔、この地域に雄石、雌石など七個の大石があった。
 「蓮華石」もその一つである。これらの石は、子供の良い遊び場となったので、「お坊石」とも呼ばれ、
 子供の守護神とされた。この石は、蓮華石村(今の花石町)の町名の由来ともなった。
 かつては、ここにお堂があり、「蓮華石地蔵」が祀られていた。」

    


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