Discover 江戸史蹟散歩
 

 赤山街道 川口市赤山

  ○ 赤山陣屋敷址
  ○ 源長寺伊奈家歴代御墓所



赤山城址/赤山陣屋敷址 川口市赤山

 赤山城は、寛永6(1629)年に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城しました。
 赤山城から3方向に赤山街道が整備され、越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、
 小菅方面に向かう千住道があります。
 

<赤山城址入口>

 「赤山城址入口」の石碑があり、入ってすぐ右手に日枝神社。
 左手に「赤山城跡見学者専用駐車場」があります。

    
 

<赤山陣屋敷址>

 (説明板)
 「赤山陣屋敷址 平成31年3月31日川口市教育委員会」
 一番新しい説明板です。

   
 

<赤山日枝神社(山王神社>  川口市大字赤山218

   
 

<「赤山日枝神社 御由緒」と説明板>

    
 

<八幡宮石祠>

 説明板によると、この八幡宮石祠(伊奈忠順の碑文)は、宝永4年(1707)11月に、
 関東代官伊奈半左衛門忠順が父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、八幡社の宮域を整備し、
 山王社の傍らに建碑したものです。

   
 

<石碑>

 元禄13(1700)年の庚申塔、光明真言塔、普門品供養塔、聖徳太子供養塔があります。

   
 

<三猿の手水鉢>

 延宝8(1680)年の手水鉢には、三猿が刻まれています。

  
 

<拝殿/本殿>

 拝殿があり、裏手の一段高いところに本殿があります。

    
 

<天神社/八幡社>

 本殿脇に天神社と八幡社があります。

  



○赤山城址 川口市大字赤山766-2他

  
 

<赤山城跡>

(説明板)
「 赤山城跡    所在地 川口市大字赤山
 伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に掘と土塁を一部残すのみである。
 城郭の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
  昭和五十八年三月    埼玉県 」

   
 

<伊奈氏と赤山陣屋>

    
 

<東堀と南堀、自然低地方面への道>

    
 

<説明板>

 要所要所に説明板が多く設置されていて、色々と知ることができ親切です。

    

     
 

<NPO法人赤山陣屋の会>

  



〇周光山勝林院 源長寺 川口市大字赤山1285

    

   
 

(説明板)
「 関東郡代・伊奈氏と源長寺
 源長寺は、関東郡代伊奈忠治によって、元和4年(1618)に、伊奈家の菩提寺として再興された。当時の赤山陣屋を描いた『赤山麁絵図』にも源長寺の名が読みとれる。また、寺領47石を有し、寺の総建坪が108坪に及んでいた当時の様子は、『源長寺間取絵図』からもうかがえる。
 寛政4年(1792)、12代伊奈忠尊が関東郡代を罷免され、伊奈家は改易、赤山陣屋は取り壊しとなった。これに伴って、源長寺は伊奈家という最大の檀家を失うことになり、寺領も47石から11石あまりにまで減らされ、急速に衰退していった。
 まさに伊奈家と運命をともにしたといえる源長寺が、現在の姿に復興するまでには、その後約200年を要したことになる。
  川口市教育委員会 」

    
 

<涅槃像>

   
 

<板碑>

 参道左手に、鎌倉期からの板碑が並びます。

    
 

<庚申塔>

 左の庚申塔は、正徳6(1716)年の造立。

   
 

<お砂踏み>

    
 

<関東郡代 伊奈家歴代 御墓所>

 一番大きな2基の五輪塔の法名の記銘だけ確認。

  長光院殿 3代伊奈忠治です。
  寛柔院殿 9代伊奈忠辰です。
 
  治興院殿 8代伊奈忠達です。
  勝林院殿 初代伊奈忠次です。

    

     
 

<頌徳碑>

(説明板)
「川口市指定有形文化財 歴史資料
 伊奈家頌徳碑     昭和48年5月24日指定
 「頌」とは、褒め称える、人の功績を称えるという意味があります。
 この石碑は、寛文十三年(1673)に伊奈家五代半十郎忠常が初代半左衛門忠次から四代半左衛門忠克に至る伊奈家四代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えるとともに、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。
 碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀跌が彫られています。跌とは「足の甲」の意味で台石を表し、宋代には亀は「贔屓」であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子のひとつです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたといいます。この頌徳碑が亀跌碑であるということは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。
 碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鷲峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従って数々の勲功や開墾に努め民政上の功績、二代忠政が大坂の役における功績、三代忠治が武州七千石を領しての功績、四代忠克が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。
 その後、伊奈家は、寛政四年(1792)十二代忠尊が改易に処されるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。
   川口市教育委員会 」

   


戻る