Discover 江戸史蹟散歩
 
 赤山街道 川口市赤山

  ○ 赤山陣屋敷址
  ○ 赤山日枝神社
  ○ 赤山城址
  ○ 源長寺
  ○ 伊奈家歴代御墓所
  ○ イイナパーク川口(川口ハイウェイオアシス) 別頁


赤山城址/赤山陣屋敷址 川口市赤山

 赤山城は、寛永6(1629)年に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城しました。
 赤山城から3方向に赤山街道が整備され、越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、
 小菅方面に向かう千住道があります。

<赤山城址入口>

 「赤山城址入口」の石碑があり、入ってすぐ右手に日枝神社。
 左手に「赤山城跡見学者専用駐車場」があります。

    

<赤山陣屋敷址>

 新しい説明板です。

(説明板)
「赤山陣屋敷址  昭和36年9月1日県指定
 赤山陣屋は、代官(通称 関東郡代)伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、元和4年(1618)頃伊奈家3代忠治によって創建されたといわれています。
 陣屋の構造は右図の通りで、約2万4千坪の広さがありました。陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形・御役家・御的場といった施設があり、北側と西側は2重の堀でかこまれていました。外堀には水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていました。また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷がありました。この屋敷は、堀の内に17、外に1あり、その他に門番屋敷などもありました。屋敷の規模で一番多かったのは一町前後のものです。
 陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようでした。社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺であった源長寺がありました。
 なお、伊奈家は、寛政4年(1792)12代忠尊の時、幕府政治の変化と老中の騒動が原因で改易され、赤山陣屋も廃止されました。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなっています。
  平成31年3月31日  川口市教育委員会」

   

赤山日枝神社(山王神社>  川口市大字赤山218

   

<「赤山日枝神社 御由緒」と説明板>

(説明板)
「赤山日枝神社 御由緒  川口市赤山二一八
□御縁起(歴史)
 寛永年間(一六二四ー四四)に関東郡代の三代伊奈忠治が構えた赤山陣屋は、寛政四年(一七九二)十二代伊奈忠尊が失脚するまで、関八州の貢祖の徴収並びに司法、利根川・荒川の改修、新田開発など土木治水を行う中心的な役所であった。この陣屋は延べ面積二十三万四千坪にもおよぶ広大なもので、この中に当社をはじめ天神社・八幡社・御陣山稲荷社などが祀られていた。当社は、陣屋の東側空堀外の山王町廓の地内にある山王池に面した築山に鎮座する。この築山は陣屋空堀削時の廃土で築いたと伝える。
 創建は伊奈氏によるものと考えられ、恐らく江戸城鎮護の日枝神社から分社し、陣屋の守護として祀られたものであろう。『風土記稿』には陣屋廃止後の当社について、「二百年来草創せし地と見ゆ、神体昔は七体ありしが、伊奈氏断絶の時失たりと云、其頃は大橋多門或は川鍋左門など云し神主ありしが、今は領家村神明院の持となれり」とある。ちなみに、神明院は宝林院配下の本山派修験である。
 なお、陣屋内にあった八幡社や天神社は現在合祀されて当社境内にある。殊に八幡社は、七代伊奈忠順が建立した宝永四年(一七〇七)十一月の石祠銘文によると、五代伊奈忠常が寛文十三年(一六七三)七月に子孫繁栄のため創建した旨が記されている。
□御祭神 ・大山咋神
□御神徳
 ・産業発展・成長発展・商売繁昌・家内安全
 ・厄除 ・安産 ・縁結び
□御祭礼日
 ・歳旦祭(一月一日) ・夏祈祷(五月十五日)
 ・秋季例祭(お日待ち・十月十四日)」

    

<八幡宮石祠>

 説明板によると、この八幡宮石祠(伊奈忠順の碑文)は、宝永4(1707)年11月に、
 関東代官伊奈半左衛門忠順が父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、八幡社の宮域を整備し、
 山王社の傍らに建碑したものです。

   

<石碑>

 元禄13(1700)年の庚申塔、光明真言塔、普門品供養塔、聖徳太子供養塔があります。

   

<三猿の手水鉢>

 延宝8(1680)年の手水鉢には、三猿が刻まれています。

  

<拝殿/本殿>

 拝殿があり、裏手の一段高いところに本殿があります。

    

<天神社/八幡社>

 本殿脇に天神社と八幡社があります。

  


赤山城址 川口市大字赤山766-2他

  

<赤山城跡>

(説明板)
「赤山城跡  所在地 川口市大字赤山
 伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に掘と土塁を一部残すのみである。
 城郭の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
  昭和五十八年三月  埼玉県」

   

<伊奈氏と赤山陣屋>

(説明板)
「伊奈氏と赤山陣屋
 赤山陣屋は、赤山の地に新たに7千石を与えられ代官(通称:関東郡代)の職についた伊奈半十郎忠治が、元和4(1618)年頃に在地支配開発事業の拠点とするために築いたと言われています。以来、10代忠尊が改易された寛政4(1792)年までこの地に存続しました。
 この陣屋は、本丸御屋形(おやかた)と二の丸部分だけで約110,000u、周囲に広がる家臣持分の土地や菩提寺である源長寺・山王神社などの付帯施設も含めると、実に770,000uにも及ぶ広大なものです。
 伊奈氏は、用水の開削や新田開発など、治水・利水事業に数多くの業績を残したことで、歴史上に特にその名が知られております。
 このことから、水辺の文化をはぐくんできた川口のあゆみをひもとくとき、赤山陣屋址は先人の偉業を偲ぶことのできる、最も重要な遺跡の一つであるといえましょう。そしてこの遺跡の中には、水害と戦った伊奈氏にふさわしく、水神やその化身としての大蛇にかかわる伝説や民話がたくさん伝えられているほか、創建当初からの道も、生活道路として現在も利用されており、赤山道という名も今に残されています。もちろん、陣屋のたたずまいを示す空堀や土塁も残っています。
 左の図は、赤山陣屋敷絵図面(市指定文化財)をもとに、現在の地形図の上に陣屋の配置を描いたものです。陣屋全体が自然の低湿地によって囲まれ、主要な入口には門番が配置され、「四ツ門」と呼ばれていました。また、本丸と二の丸は人口の空堀によって囲まれています。これら陣屋の構造から、伊奈氏の卓越した土木技術をうかがい知ることができます。つまり赤山陣屋址は、近世初期に発達した、伊奈流(備前流)と称される土木技術の粋を集めた、代表的な遺跡であると言えましょう。」

    

<東堀と南堀、自然低地方面への道>

    

<説明板>

 要所要所に説明板が多く設置されていて、色々と知ることができ親切です。

(説明板)
「赤山ー伊奈氏と赤山陣屋
赤山陣屋を築いた伊奈氏は、そのすぐれた土木技術によって江戸時代の治水・新田開発に大きく貢献し、
関東郡代を世襲した家柄である。赤山陣屋は、寛永6年(1629)、3代伊奈忠治によって、ここ赤山の地に築かれた。以後163年間にわたって、在地支配と新田開発の拠点として機能し続けたが、寛政4年(1792)、伊奈家改易に伴って赤山陣屋も廃止された。陣屋の建物や家臣の屋敷はことごとく取り壊され、土地は払い下げられて、以後は田畑や山林として利用された。」

    

(説明板)
「伊奈氏の治水と利水―水利事業
 近世の土木史上に「伊奈流」の名を残す伊奈氏の事跡は、その支配地であった関東(旧武蔵国、現在の東京・埼玉・神奈川)のあちこちに残されている。
 「伊奈流」の技術が十分に発揮されたのは、特に新田開発とそのための河川改修工事においてである。関東地方の現在河川体系の基礎は、数代にわたる伊奈氏の大規模な河川整備によって築かれた。これによって関東地方東部低地帯地は水害から解放され、広大な穀倉地帯に変貌していった。また、江戸とこの一帯とを結ぶ船運も活発化し、新田開発による石高の増加とともに、江戸の繁栄を促すこととなった。」

(説明板)
「伊奈氏による河川改修
 伊奈氏による関東諸河川の改修工事の代表的なものは、利根川の東遷および荒川の西遷である。これは、利根川と荒川の水系をそれぞれ切り離し、利根川を銚子沖に流入させ(利根川の東遷)、荒川を入間川に付け替える(荒川の西遷)という、きわめて大規模なものだった。」

「伊奈流」土木技術(洪水対策)
 自然の地形を最大限に利用し、労力を最小限に抑える「伊奈流」の土木技術は、改修河川の洪水対策にも見ることができる。
 自然堤防を利用するとともに、ところどころに低い堤防を作り、その付近に遊水地を設ける。大規模な増水の祭には水をあふれさせ、遊水地に導いて水の勢いを弱めてしまう。またこの遊水池は、平常時に溜井となり、用水源として利用することができた。事例として見沼溜井と八丁堤がある。」

   

 その他種々
     

<NPO法人赤山陣屋の会>

  


〇周光山勝林院 源長寺 川口市大字赤山1285

    

(説明板)
「関東郡代・伊奈氏と源長寺
 源長寺は、関東郡代伊奈忠治によって、元和4年(1618)に、伊奈家の菩提寺として再興された。当時の赤山陣屋を描いた『赤山麁絵図』にも源長寺の名が読みとれる。また、寺領47石を有し、寺の総建坪が108坪に及んでいた当時の様子は、『源長寺間取絵図』からもうかがえる。
 寛政4年(1792)、12代伊奈忠尊が関東郡代を罷免され、伊奈家は改易、赤山陣屋は取り壊しとなった。これに伴って、源長寺は伊奈家という最大の檀家を失うことになり、寺領も47石から11石あまりにまで減らされ、急速に衰退していった。
 まさに伊奈家と運命をともにしたといえる源長寺が、現在の姿に復興するまでには、その後約200年を要したことになる。
  川口市教育委員会」

   

(説明板)
「川口市指定有形文化財 彫刻
 源長寺の阿弥陀如来座像  昭和53年4月5日指定
 阿弥陀如来とは、無量光如来(無限の光をもつもの)、無量寿如来(無限の寿命をもつもの)とも言われています。また、阿弥陀如来は一切の衆生救済のために王位を捨てて出家し、人々を救い浄土に往生させたいと48の誓願をたて、長い間修行の後、西方極楽浄土の教主となった報身仏と説かれています。
 当寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、温顔で体躯は丸みを帯び、江戸時代初期の作品と考えられます。様式的には、藤原期に盛行した定朝様式が忠実に表現されています。木造寄木造で、法量は像高88.5cm、肘張り 54.6cm、膝張り72.0cm、光背高 142.0cmを測ります。
 像の背面には「聖蓮社けい誉廬含和尚」の朱字銘が記されています。けい誉蘆含は源長寺六世天けいの弟子で、寛文13年(1673) 5月5日に僅か21歳の若さで入寂しています。また、この銘には、彼の菩提を弔うために30両が寄進され、これを基にして本尊と光背が再興されたことが記されています。廬含に関する詳しいことは不明ですが、源長寺を再興した関東郡代伊奈氏の一族であろうと推測されています。
  川口市教育委員会」

   

<涅槃像>

   

<板碑>

 参道左手に、鎌倉期からの板碑が並びます。
 最も古い板碑は、元徳2(1330)年銘です。

(説明板)
「板碑について
 板碑 とは板石塔婆のことで、板佛・青石塔婆と呼ばれる。北海道から九州にかけて全国的に広く分布し、特に関東地方に最も多いが、形・材質には地方差がある。
 おこりは、鎌倉時代から室町時代にかけて故人の追善供養であったが、のちになると逆修供養として生前に死後の極楽往生を願って農民の間に広まる。上部を三角形にし、表面に梵字・名号・仏像などを彫り、下方に戒名・年号・建立者名などを刻む。特に光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の文字が目立つ。
 本県の秩父・長瀞付近の青石(緑泥片岩)が利用されていることから青石塔婆の名がある。
 ここの板碑は寺の境内や隣接の畑地から出土したもので之を調べることで、当時の人々の生活の様子や考え方を知ることができる。
 此の中で最も古いものは、元徳二年の刻がある。
  平成四年三月 彼岸  二十四世 廣 譽」

    

<庚申塔>

 左の庚申塔は、正徳6(1716)年の造立。

   

<お砂踏み>

    


○関東郡代 伊奈家歴代 御墓所

 一番大きな2基の五輪塔の法名の記銘だけ確認。

  長光院殿 3代伊奈忠治です。
  寛柔院殿 9代伊奈忠辰です。
 
  治興院殿 8代伊奈忠達です。
  勝林院殿 初代伊奈忠次です。

    

     

<頌徳碑>

(説明板)
「川口市指定有形文化財 歴史資料
 伊奈家頌徳碑   昭和48年5月24日指定
 「頌」とは、褒め称える、人の功績を称えるという意味があります。
 この石碑は、寛文十三年(1673)に伊奈家五代半十郎忠常が初代半左衛門忠次から四代半左衛門忠克に至る伊奈家四代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えるとともに、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。
 碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀跌が彫られています。跌とは「足の甲」の意味で台石を表し、宋代には亀は「贔屓」であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子のひとつです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたといいます。この頌徳碑が亀跌碑であるということは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。
 碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鷲峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従って数々の勲功や開墾に努め民政上の功績、二代忠政が大坂の役における功績、三代忠治が武州七千石を領しての功績、四代忠克が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。
 その後、伊奈家は、寛政四年(1792)十二代忠尊が改易に処されるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。
   川口市教育委員会」

   


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