○ 江戸名所図会
○ 岩渕の渡船場
○ 川口善光寺
○ 川口宿ミニパーク
○ 河口鍋匠
○ 18ポンドカノン砲
江戸庶民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあって、
川口善光寺「ご開帳」の日は参詣客で大いに賑わい、船橋が架けられたほどでした。
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
善光寺部分の抜粋です。
「名所江戸百景 川口のわたし善光寺」(広重)
「絵本江戸土産 川口の渡 善光寺」(広重)
「川口善光寺雨晴」(小林清親)
小林清親が「川口善光寺晴雨」を描いています。
「東京名所 川口善光寺」(井上安治)
井上安治が「川口善光寺」を描いています。
「東京名所 川口鉄橋」(井上安治)
渡し船と鉄橋を走る陸蒸気のコントラストが絶妙。
手前が川口側、向岸が赤羽側です。
新河岸川と荒川を渡る国道122号「新荒川大橋」の両川の間の土手を西に出ると、説明板があります。
現在は北区ですが、昔は川口宿の飛び地だったので、「川口の渡し」とも呼ばれていました。
(説明板)
「岩淵の渡船場跡 北区岩渕町四十一番先
このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。
渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったともいわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
江戸時代、ここを通る道は、将軍の日光東照宮参詣のための日光御成道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ六十から六十五間(約1一一○m)、幅三間(約五.四m)です。一般の渡船場には、人用の船の他にも馬用の船も用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が半月交替で勤めてきましたが、大名の通行などの際には、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになると、開帳中は仮橋が架けられました。
渡船場は、明治以降も利用され、明治三十八年(一九○五)三月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和三年(一九二八)九月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。
平成二十八年二月 東京都北区教育委員会」
<かつての賑わい>
「建久8年(1197)に創建され、長野・甲府と共に三大善光寺の一つに数えられました。
「一生に一度は長野の善光寺、一年に一度は川口の善光寺」といわれ、
江戸時代は江戸庶民の参詣で賑わいました。」(埼玉県神社庁HP「さいたま神様まっぷ」より)
宝幢院前の道標(北区赤羽)や、入谷氷川神社の道標(足立区入谷)など、
周辺の道標に「川口善光寺道」が記されており、かつての賑わいがうかがい知れます。
・入谷氷川神社 道標(足立区入谷)
「南 西新井大師道 西 河口善光寺道」
・路傍 道標(足立区鹿浜)
「北 わらび宿(2里半)、川口善光寺(1里)、はとがや町(1里30丁)」
・実相院供養塔道標(足立区伊興)
「西方」「王子 一里半」「川口善光寺 一里十丁」
・宝幢院道標(北区赤羽)
「東 川口善光寺道 日光岩付道」
<機関車「善光号」明治14(1881)年製造>(鉄道博物館)
鉄道博物館(大宮)に「善光号」が展示されています。
昭和17(1942)年から交通博物館(神田)で館外展示されていました。
明治14(1881)年に上野〜熊谷間建設用にイギリスから輸入された蒸気機関車です。
搬入時に横浜から「しけ」に乗せて荒川に入り、
現在の埼玉県川口市にある善光寺のそばで陸揚げされたことにちなんで「善光号」と命名されました。
善光号は交通博物館で何度も見たけど知らなかったです。
<現在の川口善光寺>
変遷をたどって、かつての賑わいの面影が感じられなくなっています。
足立百不動尊霊場34番です。
対岸の川口の渡しから見た善光寺。
善光寺から対岸の光景。
<旧墓地>
<転がっている破損碑>
破損した碑が多く転がっています。
「宝暦九年湯殿山碑」「文政十年普門品碑」「嘉永六年猿田彦碑」等が存在するはずですが、
ここら辺にまぎれているのかもしれません。
<涅槃釈迦像>
頭は南を向いています。
<弘法大師像>
笠紐は首に、笠は背中で、笠をかぶっていない弘法大師像です。珍しいです。
<墓地>
<宝篋印塔>
(説明板)
「川口市指定有形文化財(考古資料)
善光寺の宝篋印塔(昭和52年5月10日指定)
宝篋印塔は、もとは宝篋印陀羅尼経を納める塔を意味し、法隆寺の国宝「橘婦人厨子」(奈良時代前期)の扉絵にも描かれています。鎌倉時代の中頃からは、墓碑や追善塔に転化されるようになりました。その様式には、「関東式」と「関西式」とがあり、関東式は、反花座を有し、その上に基礎台座、塔身、笠、相輪が重なり、笠の四隅には隅飾突起が見られます。
この「善光寺の宝篋印塔」は、台座にこの時代特有の格狭間が彫られ、向かって左側に「元享二壬成年造立」、右側に「妙序上人八月二十三日」の文字が刻まれています。反花座の連弁も豊満な造りとなっており、塔身には、輪郭の中に梵字で金剛界四払種子が彫刻してあります。妙序上人は、浄土宗の尼僧ではないかと考えられています。上部の相輪が欠如していることは惜しまれますが、県内でも数少ない鎌倉時代の作品として貴重な存在です。
川口市教育委員会」
<開山定尊上人宝塔>
宝篋印塔の隣に開山定尊上人の宝塔があります。
環状線が本町大通りに合流する所に緑地帯があり、「川口町道路元標」や「川口宿絵図」等があります。
(説明板)
「日光御成道と川口宿
日光御成道は、中世の鎌倉街道中道をもとにして、徳川将軍が日光社参を行うための専用道として整備されました。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の5宿を経て、幸手追分にて日光道中に合流する12里余(約48km)の道です。
日光社参は、徳川将軍が日光山に赴き、東照大権現(家康)、大猷院(家光)といった先祖の霊廟を詣でる行事です。社参は元和3年(1617)二代秀忠から始まり、天保14年(1843)十二代家慶まで17回行われており、その中でも秀忠が4回、家光が9回を数えます。社参が川口宿を通ったことが分かっているのは6回で、錫杖寺が御休所として使われました。
川口宿は、本郷追分から二つ目の宿場です。宿の機能には、運輸・通信・宿泊などがあり、最も重要なのは、公用で通行する貨客に対して人馬を提供し、これを輸送することでした。日光御成道の宿駅の役割としては、川口宿は荒川を挟んだ一つ目の宿である岩淵宿との合宿になっていました。合宿とは、二つの宿で一宿分の業務を行う宿のことで、半月ごとに業務を交替で行いました。
『日光御成道宿村大概帳』[天保14年(1843)]によると、当時の川口宿の人口は1,406人、
家数が295軒で、この内、本陣・脇本陣、旅籠、諸商店などがあり、また裏町には鋳物を生業とするものが10数名いると記されています。
荒川端から元郷村までを宿域とし、長さ13町57間(約1,522m)の道筋に家並みが立ち、御成道の西側の裏町、横小路にも家並みが広がっていました。
川口宿内の日光御成道は、現在の本一通りにあたり、今も通りの両脇には当時を偲ばせる古い商店などがあります。」
川口市パンフレットより引用加工
<川口町道路元標>
<川口宿絵図>
掲示の左には、「川口鍋釜製造図」(小林清親)が描かれています。
<鍋屋の井>
「鍋屋の井」(江戸名所図会)を解説した石碑です。
このあたりの釜屋どもの庭には井戸があり、その清泉が讃えられています。
(説明プレート)
「鍋屋の井
「遊歴雑記」(釈敬順)の中の記。
此の釜屋どもの庭中に悉く井あり、化粧側の高さは九尺、又は八尺、低きというも五尺より低きはなし。この側の上より清泉吹き溢れ迸り流る。此の土地の家々の井みなかくの如くというにあらず。釜屋のみに限ってかかる名水あり。依て釜屋の井戸とて名高し、蓋し、長流の川添は水の湧出するものにや」
「川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのため各地にこのような「吹き井戸」があった。大正十二年、ユニオンビールが川口に進出したのも、この水に據ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図絵に描かれた「鍋屋の井」である。」
「江戸名所図会 鍋屋の井」
「其家に伝えて云 天命国家の後胤なりと 人皇九十七代光明院の御宇暦應年間
河内丹南郡より此所に移り住するよし其子孫今猶ここに栄へて連綿たり」
川口鋳物の発祥について、河口鍋匠(かわぐちなべつくり)では、
暦応年間に河内から移住してきたとしています。
展示されている大砲は、嘉永5(1852)年に増田安次郎(鋳物師、増幸産業株式会社代表の増田家初代)が、津軽藩より依頼を受け、
砲術奉公を務めた高島秋帆と協力して作った復元品です。
増田家は、1852〜1857年に213門の大砲と41323発の砲弾を製造し、幕府や諸藩に納入しています。
大砲鋳造の功績により苗字・帯刀を許されました。
「大砲を見学の方は、こちらの扉から御自由にお入りください。」
「18ポンドカノン砲展示中」
「大砲の歴史」パンフレット
ご自由にお持ち下さい。」
<パンフレット>
郵便受の中にパンフレットが入っています。
<増幸産業株式会社>
増幸産業株式会社のホームページにも記載されています。
・大砲の歴史
・大砲の歴史2
・18ポンド砲パリで発見
(説明板)
「18ポンド カノン砲
この大砲は幕末の嘉永5年(1852年)に津軽藩より依頼を受けた増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆と協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41323発の砲弾が製造され、全国各地に配備されました。
幕末の日本近海にはロシア、イギリス、フランス、アメリカ等の異国船(黒船)が来航し、鎖国していた日本に対し強く開国を迫りました。脅威を感じた幕府は文政8年(1825年)に「異国船打払い令」を発布。その後江戸の台場をはじめ各地に砲台を作り警戒するようになりましたが、当時はまだ大砲もろくにない状態で打払いできる力はありませんでした。その頃、攘夷思想盛んな水戸、薩摩、長州、土佐の各藩では、海防のための大砲作りを必死に行っていましたが、高性能な大砲を作るには至らず、そのため当時大砲作りで名のあった川口の鋳物師
増田安次郎が作ったものが多く用いられました。その性能は群を抜いており「増田安次郎」の銘は高性能砲の証、ブランドだったのです。後に高島秋帆より「増田氏は国家の干城なり」という褒状を授与されました。
全長 3.5メートル 重量 3トン 口径 15センチ
射程距離 2500メートル 材質 青銅砲 弾丸 炸裂弾」
<カノン砲と砲弾>
カノン砲と砲弾の復元品(平成5(1993)年製造)が展示されています。
「武州足立郡川口
鋳物師 増田安次郎」
【参考】
「千住神社の天水桶」(こちらで記載)
安政5(1858)年に奉納の川口産の天水桶です。
「武州川口 御鋳物師 増田安次郎」(増田家の四代目?)