○ 大川本陣跡
○ 清水本陣跡
○ 明治天皇草加行在所
○ 八幡神社
○ 藤城家住宅
○ おせん茶屋
○ 東福寺/大川図書墓
○ 神明宮/几号水準点
○ 草加市立歴史民俗資料館/白蛇弁財天
○ 草加神社/氷川中公園 別頁
〇 浅古家の地蔵堂 別頁
平成24(2012)年に、今様・草加宿まちづくり市民推進会議「本陣石碑建立特別委員会」が建立した石碑です。
草加宿では、享保年間(1716〜1736)から安永年間(1772〜1781)にかけて、
宿篠葉村の名主である大川家が本陣を務めています。
平成24(2012)年に、今様・草加宿まちづくり市民推進会議「本陣石碑建立特別委員会」が建立した石碑です。
草加宿では、享保年間(1716〜1736)より大川家が本陣を務めてきましたが、
安永年間(1772〜1781)以降は大川家に代わって、清水家が本陣を務めています。
(説明板)
「草加宿の本陣
江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。
大川本陣(?宝暦年間)
清水本陣(宝暦年間?明治初期)
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。
当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。
「今様・草加宿」市民推進会議」
明治9(1876)年及び明治14(1881)年の明治天皇巡幸の際に行在所として指定されたのが
大川弥惣衛門家(中大川家)の邸宅です。
邸宅は平成4(1992)年に解体、記念碑はレプリカで実物は歴史民俗資料館で保存されています。
草加宿下組の壱丁目・弐丁目・参丁目の鎮守です。
草加市文化財の獅子頭が拝殿内に安置されています。
旧日光街道に面して建つ商家です。
国登録有形文化財(建造物)に登録されています。
草加せんべいの元祖「おせんさん」にちなんで命名。
トイレのある茶店風休憩所です。お茶は出ません。
昭和63(1988)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
「おせんさん」のエピソード
「草加が日光街道の宿場町として栄えた頃、おせんさんという女性が街道で旅人相手の茶屋で団子を
売っていましたが、この団子はたまに売れ残ってしまうこともありました。団子は日持ちがしません。
おせんさんはこの団子を捨ててしまうのはもったいないと悩んでいました。
ある日茶屋の前を通りかかったお侍さんに「団子を平につぶして天日で乾かし、焼き餅として売る」
というアイデアをもらいました。おせんさんが早速焼き餅を作って売り出したところ、
たちまち評判となりその焼き餅は街道の名物になったという話が語り継がれています。
」
「このお話は、実は昭和時代に作られた物語です。」(草加市産業振興課)
慶長11(1606)年、大川図書が創建した東福寺です。
(解説板)
「解説板 東福寺(Toufuku-ji Temple)
東福寺は、草加宿の祖・大川図書が創建した寺です。正式には「松寿山不動院東福寺」といいます。1606年(慶長11)に大川図書によって創建され、僧
賢宥(けんう)が開山したといわれています。本堂は明治年間に藁葺きから瓦葺になり、1993年(平成5)には大規模な改修が行われました。境内の墓地には大川図書の墓があります。山門、本堂外陣欄間、鐘楼は市指定文化財で、「草加八景」の一つでもあります。
●山門
山門は、表の柱間 表の柱間十尺、妻八尺五寸の桟瓦葺四脚門です。四脚門は、本柱(円柱)の前後に控柱(角柱)が四本立つことから四脚門といわれます。本柱は、礎石上に立ち、柱頭は冠木を架し、控柱は、粽(ちまき)を付して礎盤上に立っています。江戸時代の木割書によって造営されていますが、一部手法は桃山頃になった木割書「匠明」と規を一つにしています。
●本堂外陣欄間
本堂の外陣には江戸の名工・島村園哲作の三枚からなる見事な彫刻欄間があります。中央は173cmもある大きな彫刻で仏教の守護神である竜の構図です。竜は水に縁のある空想の動物で、伽藍を火難から守る願いも込められているものと思われます。
左右はやや小さく、中国の二十四孝の一部です。象と耕作しているのは大舜です。大舜の親につくす孝養に、鳥獣まで感じ、象きたりて耕作をたすけ、鳥まで草をとりて耕作の助けをしている構図です。
一方ひざまずいて天女を見上げるのは董永です。董永は家まずしくとも、親に孝養の限りを尽し、妻を迎える余裕もなく、親の死におよび身を売って葬禮を営みました。吾身を親のものとする至誠が天を通じ、天女きたりて、董永の借財をかえしても、あまりある織物を作りあげ、昇天する構図です。
●鐘楼
この鐘楼は、石積の基壇上に建ち、柱の間2.7mの方形です。絵様は立川流を基本とし、彫刻は江戸に近い関係で、当時優秀な技法が見られ、基壇に「文久二年七月再造立」(1862年)の刻銘があり時代が判明できます。この建物は当時の優秀な工匠によって造営されたと推定され、本市の文化財として貴重な寺院建築です。
●大川図書
大川図書は小田原の北条氏に仕え、土本氏を名乗っていたといいます。1590年(天正18)小田原城の落城によって浪人となり、岩槻城主太田備中守のもとで年月を送っていたようです。そして、徳川氏の天下統一の時、谷塚村に移住することになったと言われています。その後、新しい土地を求めて現・松江近辺に移り住むようになり、草加宿や東福寺の建設に尽力することになりました。」
<鐘楼>
<庚申塔>
享保10(1725)年5月。再建弘化4(1847)年10月。
案内指示標石に従って、墓地の奥に行くと、大川家墓所に大川図書墓があります。
正徳3(1713)年に草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられました。
旧鳥居礎石に几号が刻まれています。
<野口太七翁之像>
初代草加町長、野口太七翁の像があります。
脇には「國底立神碑」「太田神碑」があります。
大正15(1926)年に草加小学校西校舎として建造され、現在は草加市立歴史民俗資料館として使用されています。
国登録有形文化財(建造物)に登録されています。
草加宿を開いた大川図書の屋敷にあった白蛇弁財天石碑が資料館入口脇にあります。
<館内>