Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 おくのほそ道の風景地 草加松原B

  ○草加松原遊歩道 草加市栄町1丁目・2丁目・3丁目

   ・矢立橋
   ・ハープ橋
   ・名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原
   ・ドナルド・キーン記念植樹
   ・百代橋橋名由来碑
   ・百代橋
   ・日光街道草加松原碑
   ・松尾芭蕉文学碑
   ・水原秋桜子文学碑
   ・手づくり郷土賞の碑
   ・せせらぎゾーン
   ・草加松原・北端/水環

  ○漸草庵 百代の過客

  ○無量寺(東京都北区)


○草加松原遊歩道

 草加松原遊歩道を、札場河岸公園から北上します。
 草加松原遊歩道は、昭和62(1987)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。

矢立橋>

 県道に架かる太鼓橋の歩道橋です。
 「行く春や鳥啼き魚の目は泪、是を矢立の初めとして...」

     
 

ハープ橋> 草加市松江1-10

 ハープ橋を渡ると、まつばら綾瀬川公園(旧:綾瀬川左岸広場)があります。

     
 

名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原>標識(記念碑)

 ドナルド・キーン書による国指定名勝標識(記念碑)です。平成27年3月6日建立。
 石板には「『おくのほそ道』の行程図」が刻まれています。
 草加松原遊歩道のハープ橋と百代橋の中間に設置されています。

    

(説明板)
「国指定名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原 指定日 平成26年3月18日
 日光街道草加宿の北側に位置する草加松原は、一節には寛永7年(1630)の草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられたと伝えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られていました。
 平成26年(2014)3月、この草加松原は「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、国の名勝に指定されました。今なお、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の時代の雰囲気を色濃く伝える風致景観として、高く評価されたことによるものです。
 元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は門人の河合曾良を伴い、江戸深川を旅立ちました。古歌の名所、由緒、来歴の地を訪ね陸奥・北陸路を旅し、これにより日本を代表する紀行文学「おくのほそ道」を完成させました。
 深川から船で千住に向かった芭蕉は、そこで見送りに来た人たちに別れを告げ、歩みを草加に進めます。
 「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり」
 この日は、今の暦では5月16日に当たります。初夏の陽光を浴びながら、芭蕉は旅の感慨を新たにしたのかもしれません。
 芭蕉の旅路を見送った草加松原は、度重なる手入れや補植が行われ、明治維新前後まではおおむね500本前後で推移していました。
 しかし、昭和8年(1933)には、国道4号(現在の県道足立越谷線)の道路拡幅工事に伴い、松の伐採計画が持ち上がりました。また、昭和40年代には、高度成長に伴う公害の影響で、成木は70本程度まで減少してしまいました。なお、このような危機の度ごとに松並木保存の機運は高まり、ことに、昭和51年(1976)には市民団体「草加松並木保存会」が発足し、同会を中心とした多くの市民による松の保護・補植が行われるとともに、市民と行政が一体となった保存活動によって草加松原は護り継がれ、現在は遊歩道として訪れる人々の憩いの場となっています。
 なお、名勝指定を後世の市民に伝え残すため建立された標識(記念碑)は、草加市ともゆかり深い日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーン氏の揮毫になるものです。
  平成27年3月  草加市教育委員会」

    
 

ドナルド・キーン記念植樹>

 ドナルド・キーン氏お手植えの萩があります。
 キーン氏は2019年2月24日に96歳で亡くなられました。

  
 

百代橋橋名由来碑>

 百代橋の橋名由来碑が建っています。
 「月日は百代の過客にして...」

    
 

百代橋> 草加市松江〜草加市中根

 松原文化通りに架かる太鼓橋の歩道橋です。
 松並木、草加松原の解説板があります。

   
 

<百代橋と松並木 マンホール蓋>

 カラーと白黒のマンホール蓋が草加市内の随所に見られます。

   
 

日光街道草加松原碑>

 百代橋の下に、日光街道に面して「道百せん 日光街道草加松原」碑があります。

   
 

松尾芭蕉文学碑>

 百代橋の北に、「松尾芭蕉文学碑」があります。
 平成3年にライオンズクラブが建立、草加市に寄贈。

(碑文)
「ことし 元禄 二とせにや 奥羽長途の行脚  只かりそめに思ひたちて 呉天に白髪の 恨みを重ぬといへ共 耳にふれていまだめに見ぬさかひ 若生て帰らばと 定めなき 頼の末をかけ 其日 漸早加と云宿にたどり着にけり 痩骨の肩にかかれる物先くるしむ
 只身すがらにと出立待るを 幣子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ あるはさりがたき餞などしたるは さすがに打捨がたくて 路次の煩となれるこそ わりなけれ
  西村本「おくのほそ道 」より」

     
 

水原秋桜子文学碑>

 松尾芭蕉文学碑からさらに北に進むと、水原秋桜子の句碑があります。平成13年に建立。

 「草紅葉草加煎餅を干しにけり 秋桜子」

 水原秋桜子は高浜虚子に師事し、医師でもあり昭和6年(1931)、粕壁町と野田町の医院に
 診療医として通うことになり、通勤に東武鉄道を利用しました。

    
 

手づくり郷土賞の碑>

    
 

せせらぎゾーン>

 遊歩道の脇を噴水からせせらぎ水路に流れていきます。
 稼働期間は5月から10月。冬は水の流れはありません。
 せせらぎの脇にはカメが2匹います。

    

    
 

草加松原・北端/水環>

 札場河岸公園から1.5kmで、草加松原・北端です。
 「水環」のモニュメントがあります。
 ここから先は、茶屋通りとなります。

   


漸草庵 百代の過客 草加市松江1-1-5

 「漸草庵 百代の過客」は、ドナルド・キーン氏の命名による施設で、平成31(2019)年3月式典、4月21日オープン。

     

   
 

<ドナルド・キーン先生一周忌追悼パネル展>

 今回の展示だけで終わってしまうのはもったいないですね。
 綾瀬川沿の良いロケーションです。

     

     

    
 

<ドナルド・キーン先生顕彰記念碑>

 故ドナルド・キーン氏の生誕100年を記念して、
 草加市「漸草庵 百代の過客」の庭園に顕彰記念碑が設置され、令和4(2022)年7月28日に除幕式が行われています。
 記念碑は緑雲石で、彫刻家・麦倉忠彦氏製作のブロンズ製レリーフと、キーン氏直筆の「日本を寿(ことほ)ぐ」が刻まれています。
 「ドナルド・キーン先生を顕彰する会」(今井宏代表)が協賛金を募り建立しています。

「漸草庵 百代の過客」と庭園

    

    
 

「ドナルド・キーン先生 顕彰記念碑」

  
 

 (正面)「ドナルド・キーン先生 顕彰記念碑
      日本を寿ぐ
       ドナルド・キーン
       鬼怒鳴門

    

 (左面)「令和4年7月吉日
      ドナルド・キーン先生を顕彰する会
      代表 今井 宏
      レリーフ制作 麦倉忠彦」

   

(説明板)
「ドナルド・キーン先生と草加
 ドナルド・キーン先生は、奥の細道旅立ち300年・草加市制30周年(1988)を記念して開催した「奥の細道国際シンポジウム」の基調講演にご登壇以来、奥の細道文学賞選考委員をはじめ、ドナルド・キーン賞創設への御承諾、草加の松原が「おくのほそみちの風景地 草加松原」として国の名勝に指定されたときの記念碑の揮ごう、市制60周年を記念した古浄瑠璃「越後國柏崎弘知法印御伝記」の開催支援、並びに、日本文化芸術関連施設の落成にあたり、施設名を「漸草庵 百代の過客」と命名いただくなど、草加市の文化芸術の振興に多大なるご支援を賜りました。
 このたび、ドナルド・キーン先生生誕100年を記念し、キーン先生のこれまでの本市への温かいご尽力に感謝を申し上げ、永くその栄誉をたたえるため、ここに顕彰レリーフを建立することにいたしました。草加市民としての共感を分かち合い、今後とも市民一同先生の想いを大切にしていきたいと思います。
  令和4(2022)年7月吉日
  ドナルド・キーン先生を顕彰する会 代表 今井宏」

    


無量寺 北区西ヶ原1-34-8

 ドナルド・キーンさんのお墓があります。
 墓地は檀家以外立ち入り禁止でした。

  
 

「江戸名所図会/江戸切絵図」

 江戸名所図会の挿絵には、「無量寺 六阿弥陀 第三番目」と書かれています。
 江戸切絵図にも、「六阿弥陀 第三番」と書かれています。

   
 

<六阿弥陀三番目無量寺標石> 北区西ヶ原1-29-9

 安永9(1780)年銘の六阿弥陀三番目無量寺標石です。
 (表)「六阿弥陀三番目 西箇原 無量寺」
 (横)「六あみた三はんめ」

      
 

<山門/六阿弥陀標石/道標>

 山門前に、「六阿弥陀三番目」の標石と、道標があります。

  

 右は標石「六阿弥陀三番目  西箇原 無量寺」です。

  

 左は享保11(1726)年銘の他寺の参拝者を昌林寺へ引き入れるための道標です(移設)。
 (正面)「六阿弥陀すゑ木のくわんをん江
      是より左江一町 補陀落山昌林寺」
 (右) 「享保十一丙午年十月十八日」
 (左) 「昌林禅寺八世陽信和尚代」

  

 山門の先にある門の右側にも「六阿弥陀第三番目 西箇原 無量寺」の標石があります。

  

(説明板)
「無量寺
    北区西ヶ原一ー三四ー八
 無量寺は佛寶山西光院と号し、真言宗豊山派に属する寺院です。創建年代は不明ですが、調査によって十四世紀頃の板碑が多数確認されています。また、『新編武蔵風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(一六四八)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことや、元禄十四年(一七○一)四月に五代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣したこと、寺号が九代将軍家重の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことが記されています。
 本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。江戸時代には、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院・亀戸常光寺)第三番目の阿弥陀として親しまれました。人々は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽しみながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたようです。
 阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されています。言い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝つかまったことから「足止め不動」として信仰されるようになりました。
 また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。
  平成十五年七月  東京都北区教育委員会」

  
 

<本堂>

  


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