Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 徳川昭武

  ○ 徳川昭武
  ○ 戸定が丘歴史公園
    ・戸定邸
    ・旧徳川昭武庭園
    ・東屋庭園
    ・戸定歴史館
    ・与謝野晶子・寛歌碑
 
 千葉大学園芸学部

  ○ 与謝野晶子歌碑
  ○ 赤星先生像
  ○ 竹内啓先生の墓


徳川昭武

【経歴】
 嘉永6(1853)年〜明治43(1910)年。
 水戸藩主徳川斉昭の18男。慶応2(1866)年、清水家を継ぎ、翌年徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に赴く。
 「プリンス・トクガワ」と呼ばれ、次期将軍候補と目されました。
 引き続きフランスで留学生活を送りますが、明治維新のため急遽帰国し、最後の水戸藩主となりました。

 明治9年にはアメリカ大博覧会御用掛として渡米し、再びフランスに留学します。
 明治14年に帰国、以後明治天皇に奉仕します。

 明治16(1883)年5月に隠居願を出し、甥の篤敬に家督を譲った翌年には、生母秋庭を伴い
 戸定邸(千葉県松戸市)に移りました。この邸宅には徳川慶喜や東宮時代の大正天皇などが訪れました。

 明治25(1892)年、次男の武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設します。
 造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地に西洋式庭園を築いています。
 与謝野晶子が和歌に詠んだ「松戸の丘」です。

 明治43(1910)年7月3日、小梅邸にて死去、享年58。
 徳川昭武が晩年を過ごした「戸定邸」は、明治期の徳川家の住まいが、ほぼ完全に残る唯一の建物で、
 国指定重要文化財となっています。
 また、戸定邸が建つ前庭は国指定名勝の「旧徳川昭武庭園」となっています。

【近世名士写真 其2 近世名士写真頒布会 昭和10年】(1枚目)
【珍らしい写真 永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年】(2枚目マルセーユ)
【手札版写真(徳川昭武、土屋挙直、清水篤守)】(3枚目ニューヨーク)

    


戸定が丘歴史公園 松戸市松戸714-1

<日本の歴史公園100選 戸定が丘歴史公園>

    

     

     
 

戸定館由来>

 徳川昭武の子息武定公は、昭和26年に敷地と建物を松戸市に寄贈されました。
 松戸市は戸定館と命名しました。
 徳川慶喜家は敷地と建物を物納し跡には大木と碑が残るのみ、徳川宗家は将軍墓地を西武に売却、
 松戸徳川家は、昭和20年代に庭園の一部を売却しましたが(松戸市が平成25年に買い戻します)、
 その他は物納でも売却でもなく、地元の松戸市に寄贈したので現在に残っているのでしょう。

   
 

<戸定邸>

    
 

<房総の魅力500選 戸定館>

   
 

<国指定名勝 旧徳川昭武庭園>

     
 

<松雲亭>

   
 

東屋庭園>

 売却された後、松戸市が買い戻しています。
 富士山が見える庭園です。

    

    

     
 

<連絡通路>

 千葉大学園芸学部への連絡通路がありますが、施錠されています。

   
 

戸定歴史館  松戸市松戸714-1

 戸定が丘歴史公園への入園は無料ですが、
 戸定館(徳川昭武邸)、戸定歴史館への入館には別途費用がかかります。

 「戸定歴史館」では、徳川昭武の遺品や慶喜家伝来品、パリ万博資料などが展示されています。
 特別展「プリンス・トクガワ―新時代への布石」が開かれていました。
 館内撮影禁止なので、館内画像はありません。

    
 

<パンフレット/特別展資料>

    

  
 

 入館券のパリでの写真に、渋沢栄一も写っています。

   
 

 「珍らしい写真」(永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年)

  国立国会図書館所蔵の書籍に、写真がありました。

  「徳川民部大輔一行
   慶應三年三月朔日(一八六七年四月五日)沸國マルセーユにて
   中央徳川民部大輔」

    
 

<天皇皇后両陛下行幸啓記念碑>

 藤岡保子(1883〜1966年)が、上皇后さま(皇太子妃殿下時代)に書をご進講されていた縁で、
 平成15(2003)年3月31日、皇后陛下は戸定歴史館で開催中の「現代かな書の最高峰 藤岡保子展」を
 鑑賞されるため行啓されました。
 藤岡保子は、明治16(1883)年、昭武の実兄である土屋挙直の4女として生まれました。
 祖父は水戸藩主・徳川斉昭、祖母は昭武の生母でもある万里小路睦子です。
 息子の博武は初代松戸徳川家の徳川武定の婿養子として、第2代松戸徳川家を継承しました。
 3代文武氏が皇后陛下と一緒に写真に写っています。

  

(参考)松戸徳川家墓所 染井霊園にあります。こちらで記載
 

ひなげしの小径 与謝野晶子・寛歌碑 戸定が丘歴史公園内

 与謝野晶子が千葉大園芸学部を訪れて詠んだ60首の中から18首と、寛の歌1首を加えて、
 赤御影石に刻まれ、「ひなげしの小径」として配置されています。
 平成23(2011)年1月27日に除幕式が行われました。

 「ひなげしの小道」
 「このみちをひなげしの小経と命名する」

    
 

1「しもふさの松戸におほく楽みて少く愁ふ花のかたはら」
2「天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花」
3「ひなげしと遠く異る身となりぬ松戸の丘に寄りて思へば」
4「南国の草木が仮の宿とせる硝子の部屋にわれもあらまし」
5「松戸なる人の贈りしひなげしを置けばいみじきうすものの膝」
6「時は午路の上には日かげちり畑の土にはひなげしのちる」
7「花下総の松戸に見れば散る雲も柳絮の如くなつかしきかな」
8「隙も無く円くしげりてアカシヤの華やかに立つ丘の路かな」
9「六月や長十郎と云ふ梨の並木に立ちて明きみちかな」
10「花園は女の遊ぶところとてわれをまねばぬ一草もなし」
11「紫のあやめがわれを描くなり若き友をばひなげしの描く」
12「浅間の森の木暗しここはまた夏の花草火投げて遊ぶ」
13「ひなげしは芝居の席につく如く楽みて散り土に身を置く」
14「いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑」鉄幹
15「ひなげしは夢の中にて身を散らすわれは夢をば失ひて散る」
16「二三人紅き野薔薇の傘形のあづまやに入りよく笑ふかな」
17「夏の花漫りに咲くとなげくなりいつより心変りはてけん」
18「白薔薇は真紅の薔薇に気上りしわれの涙に従ひておつ」
19「くれなゐの形の外の目に見えぬ愛欲の火の昇るひなげし」

    

    

    

    

    

    

 こちらに詳細あり


○千葉大園芸学部 与謝野晶子歌碑 松戸市松戸657A棟

 戸定が丘歴史公園の隣りにある千葉大学園芸学部キャンパスには、
 フランス式庭園や、イタリア式、イギリス式などの庭園があります。
 フランス式庭園に面するA棟脇のヒマラヤ杉の中に与謝野晶子の歌碑が建っています。

    

    
 

<松戸訪問>

 与謝野晶子は大正13(1924)年6月に千葉県立高等園芸学校(現千葉大園芸学部)を訪れ短歌60首を詠み、
 『明星』(大正13年7月)に「松戸の丘」50首が、『週刊朝日』(大正13年7月6日号)に
 「或る日」10首が発表されました。

 画家、板倉鼎・須美子夫妻の媒酌人を、与謝野寛・晶子夫妻が務めていて(大正14(1925)年11月)
 板倉鼎が松戸町一丁目に住んでいたことからの結婚式の打ち合わせなどで
 与謝野夫妻が来たのではないかといわれています。
 

<「晶子鑑賞」平野萬里>

 「時は午路の上には日影散り畑の土には雛罌粟の散る」

   これは近代感覚を欠く人には一寸分るまい。ワン・ゴオクの向日葵に見るやうな強烈な白いほどの日光と
   真赤なひなげしの葩の交錯する画面で、色彩二重奏といふほどのもの。
   さうしてそれ以外の何物でもないから、古い歌の概念で臨んだのでは分りつこはない。
 

 「花園は女の遊ぶ所とて我をまねばぬ一草もなし」

   これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。季節は虞美人草の咲く初夏のことであつた。
   百花繚爛目の覚める様な花畑の中に立つた作者が自分の女であることを喜びながら
   一々の花に会釈し廻る趣きである。
 

  ひなげしの小径から
     
 

<「註釈與謝野寛全集」與謝野晶子>

 「いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑」

   松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの
   更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、
   時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。
 

  ひなげしの小径から
     
 

<歌碑銘>

 「丘の上雲母の色の江戸川の 見ゆるあたりの一むらの罌粟」
 「うすものの女の友を待ちえたる 松戸の丘のひなげしの花 晶子」
  (雲母=きらら 罌粟=けし)

(説明板)
「与謝野晶子歌碑
 大正13年初夏、近代日本を代表する女流歌人・与謝野晶子が松戸の園芸学校に遊び、短歌60首を詠みました。
 与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会では、園芸学部創立100周年を祝し、平成20年以来、晶子の歌碑を建立する市民運動を展開し、平成21年11月1日にこの歌碑を建立いたしました。
 なお、この歌碑は、晶子来校時に現在のA棟の位置にあった講堂の礎石を使用しています。
 この緑あふれる松戸の丘から、文化の華が拡がり咲き乱れることを祈念いたします。
    与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会」

     
 

赤星先生像>

 高村光太郎が千恵子の看病で大変な時期に作成された像です。戦時供出のため現存していません。

「1909年に開校した千葉県立園芸専門学校(1914年に千葉県立高等園芸学校に改称)の2代目校長、1929年に文部省に移管され官立千葉高等園芸学校に改組されてからは初代校長として、19年6ヵ月にわたり学校運営に尽力した赤星朝暉氏の功績を称え1936年に建立されました。胸像の制作は彫刻家 高村光太郎氏、台座は相川要一氏の設計によります。以前は銅像でしたが戦時中の物資不足の際に軍用資材として差し出したため、現在の胸像は1951年に再建したものです。」(千葉大学HPより引用)

    


○維新の志士 従五位竹内啓先生の墓

 千葉大学園芸学部旧正門の横に、説明板「維新の志士 従五位竹内啓先生の墓」があります。
 近くに観音堂の小さな祠があります。

    
 

<竹之内啓之奥城>

 旧正門から戸定邸の脇を通って一般道に出る小路を進むと、「竹之内啓之奥城」があります。
 2基並んでいる石碑の左です。

   
 

<弘法大師像>

 弘法大師像(秀海講)があります。
 秀海講の第二十一番礼所のようです。

   
 

<弘法大師線画>

 弘法大師の線画が描かれており、秀海講とあります。
 明治44年3月の建立です。当時は秀海講が設けた弘法大師礼所めぐりが盛んだったようです。

    


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