【安行原】
○ 月山 湯殿山
羽黒山 供養塔 (安行原の蛇造り)
【西立野】
○ 月山 湯殿山 羽黒山 供養塔 (西福寺)
【戸塚南】
○ 月山 湯殿山
羽黒山 供養塔 (東福寺)
○ 月山 湯殿山 羽黒山 供養塔 (正智院)
【木曽呂】
○ 月山 湯殿山 羽黒山
百番供養 (阿弥陀堂)
○ 月山 湯殿山 羽黒山 百番供養 (薬王寺)
○ 湯殿山供養塔
(薬王寺)
<出羽三山供養塔>
安行原の蛇造りの場所に、出羽三山供養塔があります。
「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
「東叡山御持 先達 大乗院 同 大學院」
天保2(1831)年の造立です。石工は「草加石工青木宗義」。
<安行原の蛇造り>
毎年5月24日に五穀豊穣・天下太平・無病息災などを祈願するため、
村人たちが藁を持ち寄り長さ10メートルの蛇(じゃ)を作ります。
(現在は安行原蛇造り保存会が作ります)
できあがった蛇は櫓(以前は欅の木)に乗せられます。
2020年はコロナの影響で行われなかったようで、古い蛇が櫓に乗っています。
蛇の舌には密蔵院で調整した百万遍の祈祷札が結びつけられています。
(説明板)
「安行原の蛇造り 所在地 川口市大字安行原
この祭は、毎年五月二十四日に行われ、五穀豊穣・天下太平・無病息災などを祈願するため、長さ約一○メートルの蛇をつくることから始まる。
午後三時頃、出船のドラに似た鐘の音を合図に安行原のうち、清水、半縄、向原、中郷の四つの字の村人が藁をもち集まってくる。
先ず、この一年間欅の大木につけられていた蛇をおろし、次に各人がその蛇をみながらそれぞれ協力して昨年と同様な蛇のかたちをつくりあげていく。大蛇の頭部は、木の枝で枠をつくってこれに藁を組み合わせたものを二組つくり、それらを重ね合わせて片方が上下に開くようにする。これが大蛇の口であり、その中に舌をつけ、密蔵院の住職によって書かれた祈願文をしっかりと結びつけ、耳、鼻、ひげ等が順次編まれて、これらを所定のところにつけて蛇の頭ができあがる。
次に、胴は藁をねじりながら三つ編みにして約一○メートルの長さに造り、最後に頭や胴等が全て組み合わされて蛇造りが終わる。
出来上がると、大欅の股のところに頭を、胴を幹に巻き付けて安置し、百万遍の行事を行って、この祭は終わる。
昭和五十八年三月 埼玉県」
<地蔵菩薩と庚申供養塔>
ブロックの小堂に、地蔵菩薩と庚申供養塔が祀られれています。
道の駅「川口・あんぎょう」に、安行原の蛇が展示されています。
<庚申塔2基>
山門脇に墓石と庚申塔2基があります。
<参道>
参道両側に石造の金剛力士。
<講中の石造物3基>
参道左手に、講中の石造物3基。一番端に出羽三山供養塔があります。
「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
「天下泰平」「日月清明」「講中」
「大先達 大乗院」
文政2(1819)年の造立です。
他2基は、「聖徳太子」「普門品供養」
<三重塔>
三重塔は徳川家光の長女千代姫が元禄6(1693)年に建立したといいます。
第1層には十二支の彫刻が施されています。
(説明板)
「西福寺
所在地 川口市大字西立野
西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(八一○?八二四)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。寺内には、三重塔と観音堂がある。
ここの三重塔は、三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約二十三メートルあり、県下では一番高い木造の建造物である。棟札銘文によると、この塔は、元禄六年(一六九三)三月二十七日に建立完成されたもので、かつては、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた時もあったが、現在では廃止されている。塔は、鉄製の釘を一本もつかわず細工によって作りあげてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井近くにある「蟇股」には、十二支を表わす動物の彫刻が刻まれ、方向を示している。
また、入口正面にある観音堂には、西国、坂東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂に参詣すれば、百ヵ所の観音霊場を参詣したと同じだけの功徳(御利益)があるとされ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑うところである。
昭和五十八年三月 埼玉県」
<力石>
三重塔の前には力石が3つ置かれています。
<荒神社/百観音供養塔/鐘楼堂/地蔵菩薩/歌碑>
<地蔵堂>
延命地蔵菩薩、閻魔王像、奪衣婆の3像が祀られています。
<台徳院殿尊前>石燈籠
寛永9(1632)年の「台徳院殿尊前」石灯篭が1基、地蔵堂の横にあります。
「奉拜進石燈籠」(奉拜は石が剥がれていて推定)右
「台徳院殿 尊前」中央
「寛永九年七月廿四日 松平丹波守源朝臣康長」左
寛永9年7月と刻まれているので、徳川2代将軍秀忠が逝去した年の奉献です。
奉献者は、寛永9年に丹波守の職にあった「松平丹波守源朝臣康長」。
芝増上寺の秀忠の霊廟に奉献した燈籠でしょう。
上野の林光寺や竹の塚の延命寺、高野台の長命寺、越谷の迎攝院の台徳院燈籠と同様の様式です。
<百観音堂>
参道正面にあるのが立派な百観音堂です。
西福寺は新西国観音霊場の第26番札所です。
観音堂裏手の題目塔道標には四国88箇所の第54番と刻まれています。
<本堂>
本堂は参道右手にあります。
<地蔵と石碑4基>
観音堂の裏手にも地蔵と古い石碑があります。
「題目塔道標」
文化6(1809)年7月の造立。
(正面)「四國八十八箇處徒 第五十四番 補陀落山 西福寺」
(右面)「東 越ヶ谷 南 江戸 道」
<川口市教育委員会説明板>
(説明板)
「江戸の日帰り行楽圏
荒川を渡ってすぐの川口宿は江戸から約3里5丁(12.5km)、西福寺のある西立野まで足をのばしても、江戸人の足なら日帰りも可能な距離だった。途中の川口宿や鳩ヶ谷宿で1泊することもでき、当時の庶民の行楽の場としては手頃だったと思われる。
また、江戸から近いわりに山里の風情を残す西福寺周辺は、江戸の文人たちをひきつけていた。文化11年(1814)から刊行された『遊歴雑記』の著者・津田大浄も、西立野を訪れて百観音に参詣し、野点や連句を楽しんでいる。
西福寺周辺の路傍を注意してみると、当時の人々の往来を偲ばせるような、道しるべや庚申塔の類を多く見つけることができる。」
(説明板)
「西福寺をめぐる庶民信仰
西福寺が地域の庶民の信仰生活と深く関わっていたことは観音信仰以外からも読みとることができる。
境内には、寺周辺地域の守り神であった地荒神の社、地蔵・閻魔・奪衣婆の三像をまつる地蔵堂、講中という字が見える石造物、西南戦争で戦死した兵士の石碑などがあり、境内から少し離れたところには西福寺が管理している稲荷社もある。昭和30年頃までは、住職による加持祈祷も行われていたという。
江戸から現代に至る庶民の信仰の諸相を知る格好の材料が、ここ西福寺には豊富に残されている。」
谷総稲荷神社は、西福寺の旧境内社です。
赤山街道から西福寺に向かう道の右手にあります。
かつてはここも境内だったとのこと。
寛政12(1800)年。
「天下泰平 五穀成就」「講中」
「羽黒山大先達 大乗院法師廣賢 敬白」
<庚申塔>
<羅漢像>
見事な羅漢像が並びます。
<三峰神社>
近辺に戸塚城があったらしい。
城立山正智院薬師寺山門
嘉永6(1853)年。
「天下泰平 五穀成就」「講中」
「羽黒山 大先達 大乗院」
道路左側に「木曽呂第二町会々館」の看板、右側に「阿弥陀堂」の寺号標石があります。
寺号標には、
「阿弥陀堂は享保十三年(一七二八)赤山源長寺住職十一世單誉上人によって創建されたものである」
と由来が記されています。
参道の左右に石造物が並び、奥にお堂と町会会館があります。
右の石造物の中に、出羽三山碑があります。
「月山 湯殿山 羽黒山 并百番供養」
寛政9(1797)年の造立です。
「猿田彦大神/道標」
正面に
「北 大門江二十八丁 岩つき江三里」
「西 かねさきふしへ壱丁 八町かし江五丁 浦和江ニり 大宮江三リ 秋葉へ六里」
「東 新町江八丁 草加江ニ里 こしかや江ニ里 千住江四里」
左右側面にも色々と地名が刻まれています。
こんなに多くの地名が刻まれている道標は初めて見ました。
「庚申塔」
寛延3(1750)年銘と延宝2(1674)年銘の庚申塔です。
山門辺りはうっそうとした森の中にあり、日中だというのに薄暗いです。
本堂はコンクリート造りです。
足立百不動尊霊場21番です。
山門手前左手の石塔群に、出羽三山碑が2基あります。
「月山 湯殿山 羽黒山 秩父西国坂東百番供養塔」
よく目にする出羽三山と百番供養塔のパターンです。
天保12(1841)年の造立です。
「奉納湯殿山諸願成就」「木曾呂村」
湯殿山の単独碑は、福島や栃木では主流ですが、東京や埼玉では少ないかと思います。
宝暦11(1761)年の造立です。
「庚申塔2基」
一番左の庚申塔、元禄8(1695)年。
次の庚申塔、天明2(1782)年。中央の猿が正面を向き、両脇の2猿は正面ではなく中を向いています。