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 みなかみ町

  ○ 塩原太助翁記念公園
  ○ 太助の郷

  【東京の塩原太助関連】
   ・ 塩原太助炭屋跡(両国)
   ・ 塩原橋の由来(両国)
   ・ 塩原太助奉納の石燈籠(亀戸天神社)
   ・ 塩原太助の墓(東陽寺)


塩原太助翁記念公園 みなかみ町新巻甲479

 塩原太助翁記念公園には「塩原太助翁之碑」(渋沢栄一揮毫)、「塩原太助と愛馬あお別れ之像」、
 「賓物庫」、「報徳太助神社」、「生方太吉顕彰胸像」があります。

  大正12(1923)年 生方太吉が中心となり渋沢栄一に建碑の揮毫を依頼。
          渋沢栄一は快諾、後日揮毫することとする。発起人を快諾、200円を寄附。
          栄一は大倉喜八郎翁と安田翁を紹介、両翁からも寄附を得る。
  大正14(1925)年 生方太吉らは、2月10日渋沢栄一に塩原太助翁の碑の揮毫を依頼、翌11日に栄一が揮毫。
  昭和 3(1928)年 塩原翁紀念公園の開園式と塩原太助翁の碑の除幕式が行われる。渋沢敬三が出席する。
  昭和39(1964)年 「報徳太助神社」が生方太吉の長男である生方大吉により建立。
  昭和53(1978)年 「生方太吉翁顕彰胸像」建立。
  平成 6(1994)年 「塩原太助と愛馬あお別れ之像」建立。生誕250年記念。
  平成27(2015)年 渋沢栄一揮毫の原書を宝物庫で発見。太助の郷にて保存。
  令和 3(2021)年 渋沢栄一揮毫の原書を修復し一般公開となる。
  (碑文や渋沢栄一記念財団の伝記資料などを参照しました。)
  
     
 

○報徳太助神社 みなかみ町新巻甲479

 塩原太助翁を祀り、立身出世、商売繁盛の神様として崇敬されています。
 拝殿と奥に本殿があります。

    

    

<石祠>

 左手奥に石祠が3つ並んでいます。立派な燈籠が2基あります。

   

<庚申塔>

 大勢至菩薩碑、庚申塔、石祠2基があります。

  

<地蔵>

 地蔵の左の石碑には、
 「石垣寄附者
   生方太吉殿
   原澤佐太雄殿」とあります。

   

<塩原太助翁小伝>

 「塩原太助翁小伝」と題した説明板が建っています。

(説明板)
「塩原太助翁小伝
 塩原太助は寛保三年二月三日に生まれ、幼名は彦七、父は塩原角右衛門、母は「とめ」と云いました。
 或る日江戸に出て、身を立て、家を興そうと父に願いでたが許されず、ついに、或る朝未明に草刈に出かけるように装って日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出ました。
 この時「あお」をつないで別れた(別れの松が香才ヶ原にあります)時に宝暦十一年八月二十日途中榛名の御師の山本坊に寄り僅かばかりの旅銀を借り受け江戸に出ました。
 (太助十九歳の時でした)
 江戸に出ても奉公口を探すことが出来ず、ついに思い迫って死のうと決心し、神田昌平橋から身を投げようとしました。その刹那「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が炭商山口屋善右衛門であります。太助はここで奉公を続け、朝は星を戴いて起き、夜は人声の鎮まるのをまって寝ました。他の奉公人の休む暇には穿き古しの、はき物の鼻緒などをすげ替えておいて俄の場合の役に立たせ落ち散ってある縄屑などは拾い溜めておいて炭俵のつくろいなどに使いました。
 この様にして、奉公人の鑑とまで感心される様になりました。また翁は山口屋に奉公して5年目に、翁が毎日炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂の改修、晩年、中山村の反峠に渋茶の接待所、伊香保より榛名神社に通ずる、天神峠に常夜燈を建て往来の者の便を計りました。
 この様にして公益事業に巨費を投じたのです。
 翁は山口屋に奉公したのが、実に、二十三年、その間、まめまめしく良く勤めついに本所相生町に店を構え巨万の富を築き公儀のお金御用を勤める身分となって、「本所にすぎたるものが2つあり津軽大名、炭屋塩原」と云われる様になりました。
翁は文化十三年閏八月十四日七十四歳で没せられました。
  塩原太助翁生誕二五○周年記念事業実行委員会」

  

<塩原太助翁之碑>

 見上げる大きな石碑です。碑の左には「子爵澁澤榮一書」とあり、下に雅号「青淵」の落款があります。
 記念碑の裏にもビッシリと漢文で文字が彫られています。

 昭和3(1928)年4月25日に紀念公園の開園式と紀念碑の除幕式が行われ、渋沢栄一は風邪で自宅療養中、
 渋沢敬三が出席し渋沢栄一の祝辞を寄せています。

(説明板)
「塩原太助翁の記念碑
 この記念碑は、郷土の偉人塩原太助翁の遺徳を後世に伝えるために、生方太吉、原澤裕治郎、塩原祐太郎の三名が
発起人となり塩原太助翁記念公園が一九二五年(昭和元年)に完成しました。
 後に記念碑(昭和三年除幕式)を設置する際、碑の揮毫を子爵渋沢栄一に依頼したところ、子爵はこれを快諾し、当時八十五歳という高齢ながら縦5m、横2mの和紙に大作を揮毫されました。
 この原書は二○一五年(平成二十七年)に偶然発見され「太助の郷」に保存してあります。
  塩原太助翁遺跡保存会」
 (1925年は昭和元年ではなく大正14年です。どちらが正しいのか?)

     

  

<塩原太助と愛馬あお別れ之像>

 生誕250周年記念事業で作られたもので「平成6年11月22日建立」です。
 哀愁漂う銅像です。

    

    

    

<宝物庫>

 扉の左右には、「塩原翁建碑賛助会芳名」として名前が彫られています。

  

 右上から、
  内閣総理大臣 若槻禮次郎 
  大蔵大臣 濱口雄幸
  陸軍大臣 宇垣一成
  海軍大臣 財部彪
  外務大臣 幣原喜重郎・・・以下続く
  子爵渋沢栄一・・・以下続く

 さらに「衆議院議員 生方大吉」の名前が見えます。
 胸像の生方太吉氏の長男が衆議院議員だった生方大吉氏(1882(明治15)年〜1964(昭和39)年)です。
 父の太吉の遺志を継いで、塩原太助の顕彰に携わり、1964(昭和39)年に報徳太助神社を創建しています。

   

 扉の左には「貴族院議長徳川家達」「男爵大倉喜八郎」の名もあります。

  

 横にもあるよの声に、横も見る。すると、裏にもあるよの声に裏も見る、
 向こう側にもあるよとの声に右側面も見る。
 寄付者名と金額が記されていました。若槻禮次郎と徳川家達が一番多いです。

  

<渋沢栄一揮毫の原書>

 宝物庫を掃除していて、天井にあるのは何だろうと調べたら渋沢栄一の原書だったそうです。
 記録によると、書き上げたのが1925(大正14)年、渋沢翁が85歳の時だったそうです。
 高齢だからか最初は断られ、7回頼みに行ってようやく揮毫してもらったと記録にあるそうです。

<生方太吉翁顕彰胸像>

 「昭和五十三年四月二十五日建之」の「生方太吉翁顕彰胸像」です。
 像裏の記銘によると、生方太吉(安政2年〜昭和17年)は、実業家で、利根銀行創立者。
 大正14(1925)年「塩原太助遺跡保存会」設立の中心人物です。

    

   

「胸像建設記念樹 第六十七代内閣総理大臣 福田赳夫」

 像の除幕式には、福田赳夫氏も参列し、記念植樹をしています。

   

※ 宝物庫の芳名を見ていたら、選定作業中の方に話しかけられ、最近の人は知らない人ばかりなので
  芳名を見る人はいないけど渋沢栄一やら当時の蒼々たる人たちの名前があるとのことで、
  渋沢栄一の原書を宝物庫で発見した時の話や、生方太吉や生方大吉の逸話についてお教えいただきました。
  色々とお詳しいと思ったら、元衆議院議員生方大吉の甥だそうで、新治村議とみなかみ町議を三期務めた方。
  88歳とは思えぬタフさで、選定作業をされていました。
  公園は老人クラブが管理していますが、みなさん高齢で、生方さんがお一人で選定をしているそうです。
  作業中にもかかわらず色々とお教えいただき感謝しております。


太助の郷 みなかみ町新巻497

 太助の郷に、農産物直売所と右隣に塩原太助記念館があります。

    

<農産物の直売所>

(説明板)
「太助物語
 塩原太助(一七四三〜一八一六)は新治村下新田の農家に生まれ、幼くして両親を亡くした。一九歳の時、継母の仕打ちの辛さに耐えかねて江戸へ出て炭屋に奉公した。
 二十二年間、「奉公人の鏡」と称されるほど勤勉に働き、後に独立して成功。晩年は多額の私財を公益事業に投じた。
 太助が世に広く知られるようになったのは、明治時代の初めに落語家の三遊亭円朝が、人情噺「塩原太助一代記」を世に出し、当時の人々を感動させた。なかでも太助が幼い頃から飼い慣らした愛馬「あお」を松の枝につなぎ江戸に旅立つ別れの場面は多くの人々の涙を誘った。」
(註:文中、正確には「塩原多助一代記」)

    

    

  

「子爵渋沢栄一揮毫の原書」

 「太助の郷」2階に「子爵渋沢栄一揮毫の原書」が展示されています。2021年4月公開。
 拝観無料で、撮影可との掲示がありありがたい。

 説明板によると、右余白にある「碑」は子爵が書上げた後、中央の碑に不満足(少し小さい)だった為に
 書き直したと思われるとのこと。

    

    


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