Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 主な行程
  大田原市上石上「健良の湯」湧出地を見学、温泉神社に寄る。
  宇都野の大日如来像と嶽山箒根神社奥の院へ。
  県道56号経由で塩原温泉へ。次いで矢板温泉へ向かい入浴。

 【大田原市上石上】
  ○ 健良の湯
  ○ 温泉神社

 【宇都野】
  ○ 嶽山箒根神社参道と大日如来像
  ○ 嶽山箒根神社奥の院
  ○ 嶽山箒根神社高清水(遥拝殿)

 【八方〜塩原】
  ○ 八方湖山の駅たかはら
  ○ 幸福水

 【塩原温泉】
  ○ 塩原温泉彷徨

 【金沢】
  ○ 湯殿山永代月参供養塔(要金寺)

 【矢板】
  ○ 矢板温泉まことの湯



【大田原市上石上】
健良の湯 大田原市上石上字東山2056番3

 2021年6月21日、温泉審議会で動力許可が出た申請地です。
 広大な空き地です。
 源泉名「健良の湯」(単純温泉)

    

   



上石上温泉神社 大田原市上石上1555-2

 上石上の温泉神社に寄りました。
 

<城鍬舞>

 温泉神社に奉納される城鍬舞が大田原市の文化財に指定されています。

(説明板)
「栃木県指定無形民俗文化財 昭和52年7月29日指定
 城鍬舞  城鍬舞保存会
 天文14年(1545)大田原資清は、大田原城を築いた。この築城には付近六か村の農民が工役した。城が完成すると資清は、彼らの労をねげらうために酒宴をもうけた。この時、石神村(現大田原市上石上)の農夫で藤兵衛という者が、酔いに乗じて手にした鋤鍬を持って舞い出した。周りの者も鍬を叩いてこれを囃したてた。これが資清の興味を引き、以来吉例として毎年正月に藤兵衛らを城中に召し、これを演じさせた。当初は一定の方式もなかったが、次第に無踊化し伝承され今日の姿となった。
 城鍬舞は、形振(扇取)1名、横笛4〜5名、鍬叩き12名(少女)、太鼓打2名、旗持1名で構成される。
 毎年、温泉神社の秋の例祭時(10月第2日曜日)に奉納される。」

   
 

<石鳥居/参道>

     
 

<温泉神社経営之碑>

 温泉神社の由来が記されています。大正7年9月建碑。

   
 

<温泉神社碑>

 寄進者のお名前が記銘されています。台石が大きな碑です。大正11年10月建碑。

   
 

<不明>

  
 

<水盤>

  
 

<庚申塔>

    
 

<熊野山>

  
 

<大黒天像>

   
 

<狛犬>

 大正11年7月建立。

     
 

<拝殿/本殿>

   

    



嶽山箒根神社参道と大日如来像

 嶽山箒根神社奥の院へは、八方が原への車道が開かれ、梵天もトラックであげています。
 昔からの神社へと導く「丁石」が置かれた参道は、今では人が通らなくなったようです。
 月山の南に座する大日如来像へショートカットで訪れ、その後、奥の院へ行きました。
 

<嶽山口/参道入口>

 県道30号沿の宇都野に バス停「嶽山口」があります。
 「嶽山箒根神社参道」の石碑があります。
 「大正七年二月十七日建設」。
 道標にもなっています。
 「下宮遥拝殿 五町
  御本社 七十四町」
 (本社に七十四丁の丁石がありました。)

    

    
 

<嶽山箒根神社0.2KM>

 分岐を左へ。「嶽山箒根神社0.2KM」

  
 

<嶽山神社入口>

 バス停「嶽山神社入口」
 塩原観光案内図があります。
 突っ込んでおくと、月山の位置が間違って描かれています。

(説明板)
「本社の創立は、遠く明らかではないが崇神天皇の御代に豊城入彦命を東国に治めさせた時、各地の従わぬ者を征伐して善政をとった。
 祭神は、大巳貴命、事代主命、伊弉冊命であり、その後、豊城入彦命の曽孫、御所別命が当嶽山に豊城入彦命を合祀し、命の曽孫宇都野別命が神主となり、当地に住んでいたので、地名を宇都野と名づけた。
 天武天皇の白鳳8年(679年)山本良章は修験者小角と共に登山し、木像を祀った。
 延暦年間(782〜805年)神位従五位を授けられた。
 寛治5年(1091年)源義家が奥羽地方を討伐し戦勝した時、本社に神田と金銅を宝物としてさしあげた。
 長承年間(1132〜1134年)宇都野鳩ケ森城主尾張守資家は、社殿を建て、社領200石を寄付した。これにより、本城の祈願所となった。
 天文2年(1533年)11月大田原城主の備前守資清と戦い、鳩ケ森城は落城し、天文12年(1543年)大田原城主の土地となる。
 本社もこの祈願所となり、山城守丹治綱清は、社領70石を寄付した。その後社殿は、城主が修理して栄させた。
 嘉永3年(1850年)飛弾守富清は、社領35石を寄付した。
 文久2年(1862年)社殿を新たに建てた。(現在の社殿)
 大正5年10月同所高清水神社、八雲神社、荻神社を合祀して箒根神社を村社嶽山箒根神社と改称した。
 例大祭11月23・24日の2日間、梵天祭、子ども獅子舞も奉納される。
 なお、道路網も改修されて、遥拝殿より約8キロ、八方ケ原の学校平より約2キロを、自家用車で本殿に到着し、参拝できる。
 註:遥拝殿(高清水神社)」

    
 

<嶽山箒根神社(奥の宮)9.8KM>

     
 

<馬頭観音堂/殉国愛馬の碑/庚申塔>

 昭和12年に日中戦争が始めると、農家で飼っていた馬は徴発され、戦争で死んでしまいました。
 その馬を供養するために建てられたのが「愛馬之碑」です。
 表には「支那事変殉国 愛馬之碑」と刻まれ、裏には22頭の馬の名前と馬齢、畜主の名前が刻んであります。

 馬頭観音堂は、寄付者名板によると平成14年に改築されています。
 観音堂の脇には馬頭観音碑がありますがその数がすごいです。数えてみたら58基ほどありました。
 右端に庚申塔があります。

     
 

<「九丁目」丁石>

 車道から石仏のところを右に曲がり奥の参道を進みます。
 「九丁目」丁石があります。参道の痕跡を確認して引き返します。

     
 

<嶽山箒根神社(奥の宮)9.2KM>

 車道を進んで「嶽山箒根神社(奥の宮)9.2KM」。

  
 

<嶽山箒根神社(奥の宮)7.2KM>

 「嶽山箒根神社(奥の宮)7.2KM」で、直進せず、右折して上黒に行って様子見。
 舗装が途切れた地点。左の林道を行くか、直進して左手の参道を行くかとなります。
 ここからですと大日如来像まで距離があるのと、最後は等高線が密なので、
 林道・沼代シダブ線に戻って、車道を登ります。

   
 

<林道・沼代シダブ線>

 林道の説明板があります。(林道終点にもありました)

   
 

<滝>

 橋を3つ渡り終わった先のヘアピンカーブの右手に、小さな滝がありました。

   
 

<火の用心 沼原線 NO.54 電源開発>

 右手に送電線鉄塔が見えてきます。
 「火の用心 沼原線 NO.54 電源開発」と掲示されています。
 送電鉄塔から道なりに数メートル進むと、右斜めに入る参道があります。

    

     

  
<五十九丁>丁石

 参道に入ってすぐ右手に丁石があります。「五十九丁」。

  
 

<五十五丁>丁石

 参道をさらに進むと、上部が欠けた丁石があります。五十五丁でしょう。

    
 

<展望その1>

 見晴らしの良い場所に出ました。崖下を見ると、登ってきた林道が見えます。
 振り返ると、送電線と鉄塔が見えます。

    
 

<展望その2>

 再度、展望の良い場所に出ました。筑波山も良く見えました。
 振り返ると送電線の鉄塔はだいぶ小さくなりました。

     
 

<五十丁>丁石

 五十丁丁石が、剥きだしで倒れています。

   
 

<その他丁石>

 丁石の多数は失われています。崖下に落ちた丁石も多いかと思いました。
 実際に崖下に丁石らしき石柱が転がっているのが見えました。
 

<大日如来像>

 車道から参道に入り、写真撮りながら15分で大日如来像に到達しました。
 「湯殿山」と台座に刻まれた大日如来坐像です。
 台座側面「導師 箒根山東嶽寺」寛政12年10月の造立。

     

    

     

   
 

<地蔵菩薩像>

 大日如来のすぐ近くに「地蔵菩薩像」。

    
 

<月山>

 車道に戻り、参道ではなく、車道を登っていきました。
 嶽山箒根神社石鳥居の手前から、月山(つきやま)が見えました。
 石鳥居を過ぎると、林道の終端に到着。トイレの脇から境内に入りました。

     



嶽山箒根神社奥の院 那須塩原市宇都野1699

 車道を登ってくると、左手に石鳥居。

<嶽山箒根神社石鳥居>

     
 

(説明板)
「 本社の創立は、遠く明らかではないが祟神天皇の御代に豊城入彦命を東国に治めさせた時、各地の従わぬ者を征伐して、善政をとった。
 祭神は大己貴命、事代主命、伊弉冊命であり、その後豊城入彦命の曾孫、御諸別命が当嶽山に豊城入彦命を合祭し、命の曾孫、宇都野別命が神主となり、当地に住んでいたので、地名を宇都野と名づけた。天武天皇の白鳳8年(679年)山元良章は修験者小角と共に登山し、木像を祀った。
 延歴年間(782〜805年)神位従五位を授けられた。寛治5年(1091年)源義家が奥羽地方を討伐し戦勝した時、本社に神田と金銅を宝物としてさしあげた。
 長承年間(1132〜1134年)宇都野鳩ヶ森城主、尾張守資家は、社殿を建て社領200石を寄付した、これにより本城の祈願所となった。
 天文2年(1533年)11月大田原城主の備前守資清と戦い、鳩ヶ森城は落城し、天文12年(1543年)大田原城主の土地となる。本社もこの祈願所となり、山城守丹治綱清は、社領70石を寄付した。
 その後社殿は、城主が修理して栄えさせた。嘉永3年(1850年)飛騨守富清は、社領35石を寄付した。文久2年(1862年)社殿を新たに建てた。(現在の社殿)大正5年10月同所高清水神社 八雲神社・荻神社を合祀して、箒根神社を村社嶽山箒根神社と改称した。例大祭11月23・24日の2日間梵天祭、子ども獅子舞も奉納される。 塩原町」

   
 

<七十四丁石>

 神橋の手前に「七十四丁」丁石があります。
 参道入口に記された七十四町と符合しました。

  
 

<祠>

 祠に2体の石像があります。
 右の像はおんば様。

   
 

<嶽山箒根神社工事記念碑>

 昭和58年8月設置。
 「御神橋架替、嶽山神社上屋基礎工事、参道及び階段新設、社務所並茶屋増改築、境内環境整備」

  
 

<御神橋>

 朱色の御神橋です。

    
 

<手水鉢>

 神橋を渡ると、右手に手水鉢。

  
 

<本殿と二社>

 社殿へ向かいます。
 階段を上がると、天候が良く、筑波山が良く見えました。

    

    

  
 

<嶽山箒根神社大杉>

 社殿の脇に、樹齢千年の大杉。
 那須塩原市の天然記念物と、とちぎの名木百選に指定されています。

     

    
 

<本殿>

 亀に乗った仙人、鶴に乗った仙人、羽のある龍(仙人は乗っていません)

     

    
 

<熊野神社>

 左の熊野神社。天明4(1784)年の再建。

  
 

<日光山神社>

 右の日光山神社。文久2(1862)年の再建。

  
 

<燈籠>

 安政七(1860)年(庚申)、大田原藩第13代「城主丹治富清」の奉納。

     
 

<大乗妙典一千部供養塔など>

     
 

<杉林>

 杉の大木が林立しています。
 4m57cm、大杉の次に太いようです。

    
 

<その他>

   
 

<湧水>

 湧水と池、石祠があります。
 宇都野の原坪や若林を流れる唐滝沢は、標高910mの嶽山箒根神社の山の神を水源地としています。

    



嶽山箒根神社高清水(遥拝殿) 那須塩原市宇都野939-2

 麓の遙拝殿です。

「嶽山箒根神社高清水(遥拝殿)
 創建は大同元年(806)とされているが、定かではない。神社の縁起によると、宇都野(那須塩原市)町井沢より雲が龍のごとくたち昇り、光輝きながら霧雨崎へ渡って行ったのを見て、高清水大権現と崇めて祠を建て、高清水神社としたという。
 その後、嶽山箒根神社の別当として本社(奥の院)祭礼の時には、近在の農民たちが豊作を祝い、長百姓は本社並びに熊野社の前に座し、組頭は日光山神社の前に座り、祭典を行ってきた。寛政2年(1790)に再建され、その後大正5年(1916)、本社(奥の院)と合併し、嶽山箒根神社の遥拝殿となった。」(那須塩原市HP説明)

 二基の木製両部鳥居をくぐり、石段を上がります。
 石段を上がると、両側に大きな杉があります。

     
 

<社殿>

 「霧雨崎」の扁額が掲げられています。

     
 

<彫刻>
 繊細・綺麗な彫刻が施されています。
 「亀を見る仙人」「虎を連れた仙人」「琴を弾く玉巵」

     
 

<説明板>

 社殿横にある那須塩原市教育委員会説明板。

  
 

<嶽山箒根神社梵天上げ>

 11月23日に梵天上げが行われます。
 梵天を奉納した後は餅撒きが行われているようです。
 大田原市石上地区で古くから栽培されていた水稲に「石上糯」という品種があります。
 かつては石上地区をはじめ、宇都野など多くの農家で栽培されていましたが、
 質の良い石上糯は倒伏しやすく、丈が長いため脱穀するのが困難で次第に作られなくなりました。
 石上糯が何百年にもわたって作られてきたのは、祭礼や神事、正月や節句に使われてきた歴史があるようです。



【嶽山箒根神社→八方湖→山の駅たかはら→幸福水→塩原温泉→矢板温泉】

 嶽山箒根神社から久しぶりに県道56号経由で塩原温泉へ。次に矢板温泉へ向かい入浴。
 八方湖→山の駅たかはら→幸福水→塩原温泉→矢板温泉

八方湖 那須塩原市宇都野

 2018年に立入禁止となったようです。道路から眺めるだけです。

  
 

山の駅たかはら 矢板市下伊佐野991-3

  
 

幸福水(湧水) 那須塩原市塩原 県道56号沿

 県道56号沿にある「幸福水(湧水)」です。

   



塩原温泉

【福渡】
 ・坂口屋旅館

  旅館部分は解体、残っていた自宅部分も解体され、更地は駐車場となりました。

   
  

 ・玉乃屋旅館

  かろうじて建物は残っています。

   
 

 ・和泉屋旅館

  文学亭の玄関に木戸がはめられました。
  次第に廃墟となるのか。

    
 

【塩釜】
 ・八峰苑

  更地となった土地は、駐車場となりました。なんか虚しいです。

   
 

 ・七ツ岩園地足湯

  誰もいないのでのんびり足湯。栃木県発の足湯(平成14年)の歴史があります。

   
 

【畑下】
 ・湧花庵

  営業していません。休館か閉館か不明。HPが消失したので閉館と推測。

   
 

【門前】
 ・門前の湯

  引き続き、オープンの雰囲気なし。
 

【古町】

 ・温泉むすめ

   
 

 ・ゆとりろ那須塩原

  看板変わりました。

     
 

【上塩原】
 ・そば処延四郎

  営業していました。

   



要金寺 那須塩原市金沢787

 横断道路沿の石碑群に、湯殿山の文字があったので寄りました。
 月念仏供養塔や十九夜塔、湯殿山供養塔などがあります。
 

<湯殿山永代月参供養塔>

 寛政六甲寅年(1794)と記銘。

    
 

<境内>

 要金寺は池があったりと小奇麗にまとまったお寺でした。

     



矢板温泉まことの湯 矢板市館ノ川町695-28

 2020年12月28日にポンプ故障で休業していましたが、食堂は再開。
 温泉は内湯のみで様子見しながらのモニター営業のようです。
 露天風呂に入れないので割引料金とブログにありましたが、
 行ってみると無料で開放していますとのことで、内湯に入浴しました。

 湯温計が41℃を表示していました。
 本来は熱い矢板温泉ですが、以前の湯量が確保できず内湯のみの対応で、
 湯温は適温、自分的には良かったです。

    

     
 

<足湯>

 足湯にはお湯なし。

    
 

<分析書>

    

    
 

 内湯だけでも十分満足できるんですが、露天風呂のかけ流しにこだわっておられると感じました。
 ちなみにカランも源泉です。

    
 

 現在、十分な湯量が確保できず、露天風呂は空です。
 露天風呂に熱い源泉が満たされていたのは今にして思えば素晴らしい。

  


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