Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 爆裂火口庚申塔(新湯)



○爆裂火口庚申塔

 「安永五年(1776)湯本村講中で新湯噴火口爆烈跡に、
  庚申供養塔を建て村の延命供養を行った。」(塩原温泉郷土史研究会)

 新湯の爆裂火口に、庚申塔2基を確認。近寄れないので、カメラで近寄る(便利だな)。
 庚申塔と彫られた庚申供養塔と、青面金剛が彫られた庚申供養塔です。
 青面金剛は病魔を駆逐する御利益があり、湯地場の風情が備わっています。

     
 

 駐車場まで爆裂しそう。。
 爆裂噴火跡の碑は、見るたびに表情が変わっています。
 黒字と赤字が、黒字と白字になり、現在は全部白字。
 まめに手入れしているのがわかります。

      

    

    
 

  <湯の花直売所>
  爆裂火口で採取した湯の花の直売所

    



【奥塩原新湯】

 明治の頃には「上の湯」「中の湯」「寺の湯」「むじなの湯」がありました。

 上の湯と中の湯はともに造成泉を使用、
 上の湯は現存しません。「上の湯」は「御所の湯」とも言ったようです(なぜだか気になります)。

 寺の湯とむじなの湯は自然湧出。

 「むじなの湯」の別名が「下の湯」です。
 「狢(むじな)の湯」は、
 「傷ついた狢が、その当時の領主の奥方に化けて入浴して全治した故に、狢の湯と名付けた。」
 との伝説を温泉案内書で紹介しています。

 江戸時代は、湯笠が5か所ありました。
 「上の湯」が2カ所(うち1カ所は、現在の中の湯)、
  寺の湯は、「滝の湯」と「にが湯」の2か所、「むじなの湯」がありました。



 <中の湯>

         



 <寺の湯>

  廃寺となった円谷寺の寺湯が由来です。

  湯元にあった円谷寺も、新湯に移転してきました。
  円谷寺のご本尊の阿弥陀如来は、
  源満仲(源義家の祖父)の持佛だったといわれ(塩原郷土史研究会)源氏ゆかりの地なんですね。
  「塩渓紀勝」(奥蘭田)に記載されている元湯古図を見ると、
  梶原湯の北に、「湯本山円学院円谷寺」の文字が見えます。

     

       
 

 <円谷寺墓地>

  円谷寺は廃寺となっていますが、寺の湯は残り、墓地も残っています。
  円谷寺墓地は、渓雲閣の向かいの土手の石段を上がったところです。
  二十三夜塔があります。また、僧侶の墓も多いです。

      

      
 

 <如活禅師供養塔>

  如活禅師は、元文元年(1736)頃、塩原温泉を往来、医術に優れた医師僧でした。
  塩原妙雲寺と新湯円谷寺跡墓地に、如活禅師供養塔が建立されています。

  新湯の供養塔は、塩原郷土史研究会によると、
  「寛保元年十月初一日、施主君島的斎」と刻銘されているとのこと。
  また、寛保元年(1741)に他界するまで禅師の身分は不明で
  死期に及び「われは臨濟三十八世上龍下水如活禅師なり」と明かしています。
  その三十八世の文字も刻銘されており、明瞭に読み取れます。
  妙雲寺歴代住職の墓地にある供養塔は、立入禁止のため未確認です。
 
      

     



 <むじなの湯>

  2002年7月7日 仕切り工事後、男女別。
  2010年8月   二宮尊徳が湯治していたという解説板が設置されました。
          掲示は9月吉日とありますが8月に設置されています。

  向かって右浴室、奥底の岩盤から自然湧出。足下湧出の自然湧出泉で、はずせないでしょう。
  湧出量は少ないと思いきや、小屋から流れ去っていくオーバーフローはそれなりです。

  1年ごとに男女入れ替えです(5月ぐらいの印象)。
  源泉たまっている湯箱に、犬小屋みたいなのがかけられました。

 <案内板>
 「 狢の湯(金泉湯)の由来
   安永二年(1855)五月十五日、今市地方に農業の開発指導に来ていた二宮金次郎が、
  庄屋の亀屋平兵衛宅に五月十六日から六月三日まで中十二日間滞在して、この狢の湯
  (金泉湯)に入り病気療養をして今市に帰り仕事に復帰されました。
   新湯温泉の始まりは、白河天皇が堀川天皇に皇位を譲り法皇時代の康和二年(1100)
  の頃と思われます。昔この辺一帯は居村と云われ、八郎ヶ原に居館を持っていた塩原八
  郎家忠も狢の湯に入り、元湯温泉を拠点として付近一帯を支配していました。
   その後、中世・近世と宇都宮城主に守護され、【元湯千軒】といわれた元湯温泉が、
  突然、万治二年(1659)の会津田島大震災で裏山が地滑りを起こし源泉の湯口が塞がり
、 湯治場が一瞬の内に機能を失ってしまいました。その後、居残りの人々で再興を果た
  したが、二十四年後の天和三年(1683)九月朔日の日光大地震が発生、元湯温泉湯治場
  は、壊滅状態になり復興を断念する事になりました。
   最後まで復興に努力をした住民の忠左衛門・平左衛門・平右衛門・源左衛門・伊左衛
  門・市左衛門・新左衛門・勘左衛門・長左衛門たち九軒は、しかたなく再復興をあきら
  め、元湯温泉湯治場の面影を少しでも残したい決意をもって、新湯温泉に移住を決めま
  した。
   その後、宇都宮藩主の庇護により充実した湯治場として保護され、宇都宮城下の大曽
  から福渡温泉までの大曽條(湯の道)を造り往来し、幾度となく殿様をはじめ、家臣や
  藩内の庄屋などが、巻狩りに訪れ、この狢の湯に入り体を癒しました。
    平成二十一年九月吉日
       塩原温泉郷土史研究会 君島栄七調書」

       

      

      

      
 

 温泉ふるまいで入湯(2019年9月29日)

  「二宮金次郎新湯入湯についてのお話し 塩原温泉郷土史研究会 君島栄七」
  二宮尊徳が賀目屋(亀屋)渡辺平兵衛宅に泊まりむじなの湯に入湯したことの
  君島先生による掲示が脱衣所に新たにありました。
  「※渡辺平兵衛の碑が温泉神社に建てられております。」が気になります。

  むじなの湯は、1年ごとに(5月頃かな)男女入れ替えで、今回は左が男性、右が女性。
  左の浴室の奥の岩は、昔は板でふさがれていなかったのですが、今は見えなくなっています。

     

     

     

      近くの様子                   近くの民宿中嶋荘
     
 



湯荘白樺

 爆裂火口に一番近い宿が、「湯荘白樺」です。
 湯荘白樺の内湯から窓の外を見ると、爆裂火口の噴気が見えます。
 電化製品の寿命も短いことと思います。

 浴槽と洗い場の張替が終わったばかりの時に入湯。木の香りが、とても心地よい。

 反省:
  大女将さんに、社長と旭の湯で会ったと申し上げると、
 「あら?、お風呂入っていたの?祭りの仕事していたんじゃなかったの?」
 余計なことを言ってしまった。。(2012)

    

    

    


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