会津西街道/尾頭道
男鹿川にかかる開明橋から上三依水生植物園入口まで
国道121号と平行して男鹿川左岸を走る旧会津西街道には、
一里塚、野仏群、七滝とあり、尾頭沢沿には道祖神があります。
説明板より
「記念物(史跡)
尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚
所有者 藤原町大字大面 阿久津直喜氏
この一里塚は、街道をはさんで左右に二基完全に残存する得難い史跡である
この街道は会津西街道の脇道で、尾頭峠を越え塩原に至る最短の街道である。
天和三(一六八三)年の日光地震によって五十里湖が出来た時、一時的に
塩原経由氏家阿久津河岸に至る会津廻米道として重要な役割を果した。
今日再び観光道路として開発の計画がすすめられている。
藤原町文化財史跡指定 昭和四十八年二月十六日
日光市教育委員会 」
説明板より
「上三依野仏群
*弁財天供養塔
財宝利得をもたらす福の神として信じられてきた。さらに転じて五穀豊じょうや技芸上達まで祈られ、
音楽の神・水の神としても信仰を集めた。
*湯殿山
湯殿山は、山形県中央部、月山の西にある山で、出羽三山の一つ。修験道の霊山として知られる。
この碑は湯殿山神社への参詣記念で、この碑に祈り直接参詣と同効果と考えたものだろう。
*男體山
男体山は日光連山の一つで、湯殿山と同様直接参詣と同効果を考えたものだろう。
*子安観音
慈母観音・子育て観音ともいう。子宝を恵み、安産から子育てまで功徳が及ぶ。
会津切支丹関係のマリア観音の疑いもありと言う。
*馬頭観世音
六観音の一つで畜生道の救済に当たるので頭上に馬をいただく。後に馬による交通の発達にともない、
死馬の供養や交通安全の祈りに発展した。
*六面幢形六地蔵
常に悪業を犯し、六道に輪廻転生するあさはかな人間を救うという。
六道は、地獄(怒)・餓鬼(欲)・畜生(愚)・修羅(闘争)・人間・天上(喜悦)をさす。
*二十三夜供養塔
毎月、日を決めて月の出を待ち祈った。ほとんどが女人の信仰で、良縁・子宝・安産などが祈願された。
乙女が、この夜ひそかに念じて鏡をのぞくと未来の夫の姿が見られたという。十九夜塔なども同じである。
昭和六十一年 日光市教育委員会 」
gari2さんの探索によると、塩原から尾頭峠を越えてきた尾頭道は、
上三依野仏群のところへ降りてきます。
塔碑と馬頭観世音のあいだがスペースになっていて一里塚へ。
<野仏群・道標>
一里塚、石仏群辺りから、尾頭沢方面に向かい上がっていくと、
国道400号を走る車から投げ捨てられたであろうゴミが目立ち始め、
すると、江戸期の野仏群、道標があります。
道標は天保年間で「右あいづ 左山みち」とあります。
塩原から来るとして、右あいづを行くと途中道筋崩れてなくなりますが、石仏群で会津西街道に合流します。
左山みちを行くと、尾頭沢右岸に沿って降下していき、
道が2つに分かれ、左は七滝辺で、右は畑で会津西街道に合流します。
どちらも会津西街道に合流しますが、道標は左は山みちとあり、
道標が右あいづと示す一里塚、石仏群へ向かう右の道が
道標が尾頭道として示していると推察できます。
オーソリティーがりつうさんのブログを参考にしました。見なければたどり着けないです。
震災で折れたのでしょう、接着剤で繋げて補修されています。地道なご努力に感心します。
車の音がします、横は国道400号の最初のカーブでした。
国道を渡ったところから、石階段が続いています。
説明板より
「七滝
滝が七段になっているため、七滝という。
滝の中央の「くぼみ」の奥に水神を祀った像があり、
朝日が差し込むと非常に神々しく見え、附近の人は毎朝拝んだという。
また、大サワラの下に金の重箱が埋めてあり、朝霧が陽に映えると
サワラの根元から虹のような御光が射し、この滝につながって見えたと伝えられる。
昭和六十一年九月 藤原町 」
尾頭沢が七段となって落ちていきます。
くぼみを見るも水神像は視認できないか、見当たらないです。
大サワラの下になぜ金の重箱が埋めてあると伝わっているのかも謎。
説明板より一部抜粋
「この神体は、娘が男根を胸にいだいた姿をいやみなく陽刻したもであって、
この姿態の道祖神は栃木県内では全く他に類例をみない。
のみならず群馬県や長野県などに散見できる男女抱擁像などに対比できる
全国的にも珍しく貴重なものである。」
上三依きすげの郷(閉店しました)に次の記述がありました。
※もとは、尾頭峠の板橋付近にありましたが、
どういう経過か川治温泉柏屋ホテルに祭られていたものを、
お返しいただき現在の場所に安置されました。
元は尾頭道の峠にあったとのこと。ここが尾頭道だと勘違いしそう。
文政六の文字がしっかりと読みとれます。
上塩原の三依塩原道(明治尾頭道、尾頭新道)(会津西街道の新道)。
7〜8分ほどつづら折りを登ると、妙雲禅尼と平貞能が、当初暮らしていた月夜ヶ丘です。
小滝宿跡を過ぎ、舗装道とは別に、今尾頭沢沿いに進む道があります。
道の入り口左手に、<旧尾頭道石仏群>木柱の案内柱があり、
道に入ってすぐ左手の斜面に、今尾頭道にあった9基の石仏が集められています。
<旧尾頭道石仏群>木柱
「旧尾頭道石仏群→」と書かれた、木柱の案内柱があります。
<石仏由来記>
石仏保存会が、昭和57年12月設置。
裏面には石仏保存会々員のお名前が彫られています。
<湯殿山>
文化11年(1814)の湯殿山碑。
塩原では湯殿山碑をよくみかけます。
<二十三夜>
元のものには文化とありますが、2代目?
<六面憧 六地蔵尊>
宝永7年(1710)の六面憧ー六地蔵尊。
<阿弥陀如来立像>
朱色が残っているので、新し目かな。
<阿弥陀如来坐像>
享保10年(1725)の阿弥陀如来座像。
<弁才天>
延享3年(1746)。頭の上に鳥居をのせています。初めてみました。
(フラッシュたくと、のっぺりしてダメですね。)
<馬頭観世音>
文政元年(1818)、天保2年(1831)、為馬駒の三基。
独鈷沢わさび園の向かい側に、3通りの名で呼ばれている猫を神様とする
「猫の野仏/金花猫大明神/双尾の猫」があります。
碑の下部に、猫の絵が描かれています。お供え物が絶えない。
供養塔の横の湧水が沢となって流れていきます。
ここの水は、猫の血が流れたから飲むなとの伝えもあるようです。
下野新聞(2012年11月3日)によると
地元自治会が専門業者に補修を依頼し、周囲も伐採、道路沿いに案内板、
碑の隣には由緒を記した説明板を設置するなど整備を行っています(2012年10月)。
(現地説明板)
「猫の野仏
国道一二一号線は「会津西街道」として昔から北陸、出羽、会津の
各方面から江戸へ通ずる重要な街道でした。特に江戸時代は
参勤交代の大名行列も頻繁に往来していた。
江戸時代は天保6年(1835)、今から177年前のことである。
会津の殿様が参勤交代のため、ここ獨鈷の郷を通ったところ、
殿様の乗った駕籠の前を1匹の猫が横切った。近侍するものに、
「無礼者!ネコめ!」とその場で猫は捕らえられ、一刀のもとに仕留められてしまった。
一方、江戸へついた殿様は、原因不明の病にかかり危篤状態が続いていて
高熱にうなされていた。江戸中の医師たちに診てもらっても病状は恢復せず苦しんでいた。
最後に祈祷師に診て貰ったところ、
猫の祟りだという。すぐさま、国家老が直々に獨鈷村に着き、
名主の君島友吉の名前で供養塔「金花猫大明神」を建てて、
ねんごろに弔ったところ、猫の祟りは嘘のように消え、病は治まったという。
そして、このことがあって以来、この供養塔は「猫の神様」として、天の災いを除き、
難病をも治す村の守護神となり、村人の信仰の対象ともなった。
また、村人や旅人の参拝も多く、お供え物が絶えなかったそうだ。
正面には「金花猫大明神」と二本の尾をもつ猫の絵が、台座には「万人講」が刻まれ、
側面には「天保六年葵 六月十一日」、「獨鈷沢村君島友吉」とある。
「大明神」号付の供養塔は、殿様の大きな援助があったといわれている。
二〇一二年一〇月吉日 独鈷沢自治会 」
日光市教育委員会HPから一部抜粋
「現状は十王堂に9体(1体欠失)の十王像とソウ塚婆(奪衣婆(だつえば))像、地蔵菩薩像がある。
いずれも虫害による腐朽破損しており、像底部を中心に頭部や両手を失くしたものも多く、
現状はガラスケース内に保管されている。
造形的には素朴であり、木喰仏とするには問題もあるが、
木の実を食べて修行する行者を木喰上人と呼ぶが、
後世その木喰上人の作った十王像を木喰五行明満上人と混同したのではないだろうか。」
独鈷沢から中三依に入る手前の会津西街道の右手に鎮座。
震災の爪痕が残ります。
子育て地蔵は、山の幸直売センターの正面にあります。
男體山碑があります。
野仏群は「湯殿山」「男體山」でした。
男體講が中心だったのでしょうね。
本殿左手に、熊野神社。石祠あり。
本殿裏には、中三依湿生園が拡がっています。
本殿前が「ふるさと広場」で、ここで各種イベントが行われるようです。