〇 御所の湯
〇 古河公方館跡(鴻巣御所跡)
〇 日光湯元の昔の源泉と共同湯
@「下野国日光山中宮詞温泉繁昌記」(日光町 鬼平金四郎 明24.7)に以下の記載があります。
「御所湯と名づけしは天文13甲辰年(1544年)義晴将軍入湯ありし故とかや今尚其名を存せり。」
A「日光」(田山花袋著 春陽堂 明32.7)の温泉マニアの田山花袋によると、
「旧記に天文13年鎌倉公方入浴云々とあれば」と記載しています。
田山花袋は、「日光山満願寺勝成就院堂社建立記」(元禄8年1695年)の
「旧記にいわく、天文十三甲辰 鎌倉公方御入湯稀代の事也
(中略) 公方御入湯故に御所湯と名づく」
を引用しているものと思われます。
B日光市の説明板では「天文13年(1544年)古河公方春氏(将軍義晴)が入湯」と記載しています。
日光市の説明板は理解不能に陥ります。
古河公方春氏(注:春氏ではなく、将軍義晴の晴をもらい晴氏)と将軍義晴は別人です。
古河公方晴氏と、将軍義晴説の両者の入湯説を掲示しているのでしょうか。
・足利晴氏(第4代古河公方:在位1535-1552)
・足利義晴(第12代将軍: 在位1521-1546)
C日光市サイトの年表では、「1541(天文10)年 古河公方・足利晴氏が中禅寺温泉を来訪?」
1541年を根拠とする出典は何?1541年説は初めて見ます。
天海は、将軍足利義晴の子という説もあり、義晴将軍が湯元に来た可能性がないとも限らないのですが、
わざわざ京都から来て入湯したとは思えません。
将軍義晴が内緒で湯元に来て、この地で天海をもうけ、会津の蘆名氏に預けられたという仮設をたてたら、
面白いストーリーになりそうですが。。
天海の生年ははっきりしていませんが、天文年間の生まれと推定されます。
とにかく、御所さまが入湯し、その御所さまは古河公方足利晴氏だと確信します。
野州二荒山温泉之図 歌川芳春 抜粋
第4代古河公方晴氏は、日光湯元温泉で入湯し御所の湯を残しています。
第5代古河公方であった足利義氏は、一人娘しかなく、領地は没収、
義氏の子である氏女(うじひめ)は鴻巣御所で過ごします。
秀吉の命で喜連川藩が起こされますが氏女は喜連川に入ることなく鴻巣御所で過ごします。
氏女の子である義親は、鴻巣御所で亡くなるまで過ごします。
喜連川第2代頼氏の死去により、義親もすでにこの世になく、
息子の尊信は幕命により第3代喜連川藩主となり、
鴻巣御所から喜連川に移り、鴻巣御所はその後、廃墟となります。
第5代古河公方であった足利義氏とその一人娘の氏女、氏女の息子の足利義親の墓所です。
氏女も義親も喜連川に入ることなく鴻巣御所で亡くなるまで過ごします。
スパビレッジカマヤの宿主は、湯元の生き字引的存在の方。
雑談してネタを仕入れました。
最後まで存在したのは御所の湯ではなく自在の湯だったそうです。
御所の湯は建物も古くなりすぎて、浴槽もぼろくお湯もたまらなくなって閉鎖。
自在の湯は昭和50年頃まで入れたそうです。
(子どもの頃、どちらかに入ったんですが、すきま風でとにかく寒かった!)
宿が温泉を引くようになり、外湯がなくなってしまったのが賑わいがなくなった一因かもとの言。
自分のところの自家源泉以外のことについても詳しく、さすが!元湯守です。
再生機構の宿が力を入れるのはサイトの充実と宿内の風呂の整備、再生機構支援中の宿同士の共同運行バスなど、
客の囲い込みの方向でしたし。
外湯がなければ宿の外に出ず、宿の中で完結しますしね。
はるにれの湯は更地になるし、温泉寺がもうちょっとがんばってくれたらねぇ。
あんよのゆは頑張っているけど。
はるにれの湯(現在更地) 温泉寺 温泉寺の湯舟 あんよのゆ
御所の湯の他、昔の源泉について、記載していきます。
明治15年の栃木県衛生課による分析は「日光中禅寺温泉試験成績」となっています。
明治の温泉本によると、蓼の湖(たでのうみ)から湯の湖にかけて、
「湧源の不規則に散在せずして、略一線に走るものは、
地下この方向に小裂罅の存するあるが為なり」と記載されています。
源泉配置を見ると、「見事に1直線!」に並んでいます。
笹湯
「往時笹原の中に湧出せるを以て名くと。黒髪山の神故ありて玉体難傷の事あらせ給へ
此の温泉に浴して療功ありしとぞ。是を以て凡人の之に浴するを禁じ木欄を設けて
堅く入るを許さざりしが女人禁制の事を解かれしや共に?に衆人の之に浴する。」
中湯
「之を中湯と称するは湯平の中央にあるを以て斯く名けしなり。」
姥湯
「其色淡墨にして少しく苦味あり。人も之に臥す時は心身協くこと幼児の姥に懐るる如しといふ。」
瀧湯
「温泉屋の裏の方土手の中腹に湧出し流れて瀑布の状を示す。
頭額を打つによろし。依て此名あり。」
薬師湯(緞子湯)
「今緞子湯と称す。慈眼大師(即天海僧正)の之に浴するや名を薬師湯と命ず。」
(注:温泉寺の起源である勝道上人が延暦7年(788)に発見し命名した薬師湯(瑠璃湯)とは別)
<緞子の湯>現在
「緞子の湯」の石碑だけがあります。場所は温泉神社の手前左手です。
河原湯(甲乙2泉が存在。58℃と65℃)
「湯平の入口左側に湧出す。葦の中に湧出するを以て此く命せり。」
<河原の湯>現在
場所:湯の家旅館の横、美や川の前。
石碑があります。手湯があり、河原の湯源泉に触れることができます。
桶が置いてあり、これで足湯もどうぞとの説明もありますが、足湯している人見たことありません。
河原の湯源泉だとばかり思い込んでいましたが、
「湯の家」のHPに記載が!
「豊富な湯量を誇る当館自慢のお湯は、当館の北側に位置する手湯にも
供給されております。」湯の家の源泉だったのか。。。
確かにすぐ横には湯の家の1号、2号の湯小屋があります。
3つ目のモーター音の湯小屋は、混合している奥日光開発分と想像します。
また、美や川の自家源泉の小さな湯小屋もあります。
自在湯
「真に自在の名に背かざるなり。」
荒湯
「自在湯の源にして熱泉沸騰す。人浴すること能はず是其温度甚だ高きを以てなり因て此名あり。
故に数十間の間筧を以て之を曳き自在湯と称す。」
鶴の湯(裸湯)
「裸湯ともいふ。湯湖の辺に湧沸す。近時の発明にして未だ功試等をも定め難し。」
<鶴の湯>現在
場所:湯の湖湖畔。湯の家旅館前の道路下から湧出している源泉。
平成20年の台風の時に遊歩道が壊れ、その後整備された時に、看板が撤去されてしまいました。
看板なくなったので気づく人、今ではそういないでしょう。
新たに看板が設置されました。存在がわかりやすくなりました。
蓼湯(42℃と49℃の湧出量が同量の2泉がある。)
「湯の湖の北隅にあり。その泉脈蓼の海に通ずるを以て名くとぞ。湯は最も熱なり。」
<緞子の湯> <河原の湯> <鶴の湯> <源泉直列!>