Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 左靫の険(ひだりうつぼのけん)

 左靫は、現在の塩原の観光案内ではほとんど触れられていません。
 昔の塩原の温泉案内書では必ず紹介されています。
 地元の人はみなさん知っている話かと思います。左靫を紹介します。

 塩原温泉郷土史研究会の最近の研究・情報にまとまっています。
 これに、昔の温泉案内本の記述を加えて概要を紹介します。

  ○左靱の意味
  ○左靱の戦い
  ○左靱の道標
  ○寒凄橋の手前から左靱の険へ
  ○左靱の険と白雲洞
  ○左靱の桟橋
  ○左靱の桟橋の現在
  ○左靱の険からの旧塩原道

  「靫」と「靭」が混在していますが、特に使い分けていません。


左靫の意味ー「うつぼを左につけなおして通る険阻、狭隘なところ」

 左靫の険は、稚児ヶ渕付近、人ひとりがやっと通れる道で、
 岩山の中ほどを少し削ったような所に、丸木の釣橋がかけてあるだけでした。
 1尺にも満たず(道幅が30cmもない)獣経鳥跡と呼ばれていました。
 左下は断崖絶壁、右手は覆いかぶさるほどの肩崖です。

 左靫の戦では、那須の軍勢は、右に背負っている靫(矢を入れる筒)が邪魔で進めません。
 そこで、靫を左の脇の下に抱え込んで渡り始めました。
 塩原勢は、敵をさそいこむため作っておいた釣橋を切り落とし、
 崖の上から大石、巨木を落として那須勢を追い払いました。

 このことから「うつぼを左につけなおして通る険阻、狭隘なところ」を左靫と言います。


○「左靫の戦い」と「尾頭(桃の木)峠の合戦」

 平清盛に反旗を翻した源頼政は、治承4年(1180)「宇治橋の合戦」で敗れ、自害します。
 頼政の一族は、塩原要害城を訪れ塩原八郎家忠の元に隠れます。
 平家方の知るところとなり、那須資隆(11男の宗隆も同行し初陣)は、
 塩原口より攻め入り左靭の戦いとなります。

 会津口からは、秋田致文が攻め入り尾頭峠の合戦となります。
 塩原八郎家忠と源頼政の一族は、地の利を生かした戦略で、
 左靭の戦いでは、関谷から攻めてきた那須軍勢を追い払い、
 尾頭峠の合戦では、会津から攻めてきた秋田軍勢を撃退しました。

 この年8月、源頼朝が旗揚げし、那須資隆は平家攻めに参加するよう伝えられます。
 那須資隆は、奥州から上洛する源義経を白坂で頓首して出迎え、塩原攻めはやめたと伝えます。
 与一の兄9人までは平家に参加させていたので、
 10男の為隆と、11男の宗隆を源氏の応援に参加させます。

 源頼政一族の武将は塩原を離れ、一部の武将は塩原に居住します。

  →その後(どうでもいいことですとのことですが)
  田代冠者和泉守源頼成(頼政の孫)の子孫の田代家は(との伝え)、
  温泉宿「和泉屋」を営んでおられます。
  一方、玉乃屋旅館(廃業)の田代家には、宗光の刀が秘蔵されていると昔本に記載あるので、
  本命はこちらかもしれません。
  (玉乃屋のご主人は、田代家は、みんな自分のところが本家だと思っているとのことですが
  和泉屋など土地持っていないから、土地を一番もっている(龍化の滝から福渡まで、広大な土地を所有)
  うちが本家だと思うんですが、どうでもいいことですとのこと。
  女将さんは、大女将さんから、玉乃屋が一番木が太いからここが本家と聞かされていたとのこと。)

 4年後の1184年には、平貞能と妙雲禅尼の一行が姿をあらわします。
 塩原に残った源頼政一族は、平貞能があらわれるとは驚いたことでしょう。
 1187年には源頼政の嫡孫、源有綱があらわれ源三窟に隠れたとの伝承があります。


左靫の険 道標

 左靫を示す道標があります。
 下からくると、澄鮮橋を過ぎ、寒凄橋手前の右手に、ガードレールに半分、視界を遮られたところに、
 山塗りのコンクリートに埋もれながら存在しています。

  

 正面に「ひ田里靫(うつぼ)」、右側面に「是より龍化の滝」(歩いてくると正面)
 左側面に「明治43年3月建立 福渡組」(歩いてくると裏面、組の先はコンクリに埋まって読めない)
 コンクリートに埋まって読めないところは、福渡組(頭田代辨治)の文字が埋まっていると推定します。
 (当時、福渡の「玉屋」(田代辨治)が、龍化の滝に売店を出していたこと、
  龍化の滝から福渡まで、広大な土地を所有していた大地主だったことから、推定。)
 
     


寒凄橋の手前から左靫の険へ

 寒凄橋の手前から右の山手に通じる細道が、桟橋がかけられる前の旧道の名残でしょう。
 ここからが左靱の険です。左手に抛雪の滝を見ながら100歩が左靱。
 危険、危険、危険、カメラで道筋を追うだけでも怖い右手に岩がかぶさる道幅30cm。
 踏み跡があるので、勇気ある獣だけが使っているのでしょう。

  


左靫の険と白雲洞

 写真ではなく絵図ですが、左靫と白雲洞の位置関係がよくわかります。
 三島通庸が明治17年に塩原道を開いた時に、
 山裾の一角をくり抜いて掘った短いトンネルが白雲洞(洞門)です。
 白雲洞の開通で左靱の険は放置されます。

 春泥集(与謝野晶子)に、左靭が詠まれています。
 「馬車の人はりがね橋をあやふげに眺めてすぎて秋の日くれぬ」
 「心冷ゆきりぎし歩む馬車よりも危きことをかつてしながら」
 「桟道に夕日の照れば哀れなり危きもののあからさまなる」

 その白雲洞も昭和38年に壊されます。
 「真夜中の塩原山の冷たさを仮にわが知る洞門の道」晶子
 与謝野鉄幹・晶子の2度目の塩原訪問時は、満寿家に宿泊しています。
 その時の歌の一部が歌碑として満寿家の前庭にあります。

○白雲洞

    
 
○取り崩された白雲洞 切り通し

    
 
○「寒凄橋」と「抛雪の滝」

 白雲洞跡入口の寒凄橋からの光景。垂直な崖です。寒川から「抛雪の滝」が落ちていきます。
 抛雪の滝は、垂直な崖なので、橋上から下は、かすかに見えるだけ。
 流れ落ちていく始点は見えるので、滝としては見えます。
 寒川上流の「龍化の滝」のほうが見応えあり。

    

○「澄鮮橋」と「蛟鬚(きゅうす)の滝」
 白雲堂跡入口の「寒凄橋」のひとつ下流の「澄鮮橋」からの光景。垂直な崖です。
 「蛟鬚の滝」が落ちていきます。ここが稚児ヶ淵。
 「蛟鬚の滝」は、垂直な崖なので、橋上から下は見えないです。
 見えない滝なので、今は誰も見向きもしないと思います。
 滝の名前は、昔の案内書に「蛟鬚瀑」と記載。旧名を立岩沢としています。
 蛟鬚とは、竜のように巻いたひげの意味とのこと。

     

○苦言

 「竜化の滝遊歩道案内板」の案内が間違っています。
 澄鮮橋と寒凄橋の記載が逆!になっています。
 「抛雪の滝」は、寒凄橋のところにあるのに、
 みなさん、澄鮮橋のところにあると間違って紹介しています。
 古いほうの案内図は、正しく表記されていますけれども。
 塩原温泉旅館協同組合のホームページには「寒凄橋」とあり安心したけど。

   
   × 間違い         ○ 正しい


左靫の桟橋

 「図中の橋は即ち寒凄橋にして、白雲堂の入口に当れる橋である。
 又た其の左手に行儀よく板を横たへたる桟敷のやうな所は、即ち
 左靱の険所であるが、今也其の板は崩れ朽ち果てて所々にに散乱し居りて、
 雑草生い茂り、徒に文人墨客をして、古戦場の昔を偲ばしむ。」

 当時でさえ、桟橋は崩れ落ちていたので、これは貴重な写真でしょう。
 「靱すら左におひし山みちもくるまゆきかふ世となりにけり」田中頼庸

    


左靫の桟橋の現在

 昔の写真と同じアングルで撮った画像です。
 旧道の桟橋は、現在では踊り場しか残っていません。
 白雲洞が壊され山が削られていますが、全体的には、ほぼ当時の左靱の戦いのままでしょう。

  


左靫の険からの旧塩原道 通常の道幅

 塩原旧道は、昔本の記載通り、幅一間(1.8m)程で広いです。
 写真は、左靱を過ぎた直後の通常の道幅です。この先は桟橋がなくなっており、崖です。
 桟橋を通らず、回り込んでくる道、左靱の後半は、昔本記載のとおり、
 ほんとに道幅30cmほど、絶体絶命的に危険、危険、危険を感じます。

     


(記者)まちめぐりツアーのあとはどこか見に行くんですか?
(自分)(意地悪して、記者が知らないスポットを答えてみた)左靫でも見に行こうかな。
(記者)左靫って?あなた知っている?と観光協会の人に聞いていた。
 観光協会の人は、すらすら記者に説明していた。
 マスコミの方々は、左靫を知らなくても、地元の人は、知っています。

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