2020/8修正
芭蕉は元禄2(1689)年4月2日(新暦5月20日)
「宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡」(楚良随行日記)。
東照宮に参詣した翌日、裏見の瀧を見てから、ここに来ています。
茶屋が存する地番は匠町(旧板挽町)。
東照宮造営に当たりそのまま住み着いた人々により、
匠町、大工町、板挽町、石屋町などという職人の町をつくっていました。
(大工町と板挽町は匠町に統合されています)
<含満児童公園> 日光市匠町8
駐車場の横にあるのが含満児童公園。巨石を活用した表示や、水飲み場が目にとまります。
<西町太子堂>
<含満ストーンパーク>
憾満ヶ淵に向かい、児童公園を抜けると、ストーンパーク。
ストーンパークの左手に相輪塔。
<大正天皇御製歌>
大正天皇御製歌があります。
「衣手も しぶきにぬれて 大谷川 月夜涼しく 岸づたひせり」
晃海僧正が創立した寺。明治35(1902)年の洪水で流失、昭和48(1973)年に復元。
説明板が設置されました。
<慈雲寺の地蔵群>
地蔵が並びますが、まだ並び地蔵ではありません。
巨岩を利用した見たことのない手すりです。
橋を渡って、並び地蔵。
現在は74体が残っているらしいです(数えていないので)。
解説板
「並び地蔵(化け地蔵)
慈眼大師天海の弟子約百名が、「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので、
列座の奥には親地蔵が置かれていた。
霊比閣に一番近い、やや大きめの石地蔵は□(かんまん))の梵字を書いた山順僧正のものである。
明治35年(1902)の大洪水で、親地蔵と他の地蔵のいくつかが流された。
また、参詣者がこの地蔵の数を数えてみると、そのつど数が違うというところから、
化け地蔵とも呼ばれるようになった。」
新聞記事にマスクをつけたお地蔵さんの記事が記憶にあったので、久しぶりに寄ってみた。
お地蔵さまは、みなさん、マスクをとっていました。
解説板が新しくなっています。
解説板
「霊庇閣
承応3年(165)慈雲寺創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿造りの護摩壇で、
対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行った。
この2メートル余りの不動明王像は今はない。
当時の建物も流失し、礎石のみになっていたが、昭和46年に輪王寺によって復元された。」
説明板が新しくなっていました(2020年9月訪問時)。
「日光山道志留辺」小島鶴次郎 清遠山房 明20.7」の絵図には、
カンマンの大梵字と、流失した不動明王がしっかりと描かれています。
記述では、大梵字は光海僧正のものですが、
世人が光海と空海の音が似ているので弘法の投筆と誤ったものとしています。
解説板
「憾満ケ淵(含満ケ淵)(日光市指定名勝)
男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現われる霊地といわれる。
川の流れが不動 明王の真言を唱えるように響くので、
晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ケ淵と名付けたという。
晃海はこの地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立したもので、
往時は参詣や行楽の人々で賑わった。
元禄2年(1689)松尾芭蕉も、奥の細道行脚の途中立ち寄っている。
「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、
命名の由来から考えると、「かんまん」と澄んで読むのが正しい。」
解説板が新しくなっています。
大杉に囲まれた静寂な墓地です。
入口に石碑「日光山輪王寺 歴代門跡墓所 一山支院」
輪王寺支院門跡(住職)の江戸期からの墓地です。
憾満の路を進むと、大谷川にかかる吊り橋(歩道専用)。2000年10月に開通。橋桁を降りると大日堂跡。
大日橋から見た憾満ヶ淵
<あらたふと 青葉若葉の日の光里>
大日堂は明治35(1902)年9月、大谷川の大洪水で流失。
「日光山志」、「日本之名勝」(瀬川光行 史伝編纂所 明33.12)、「仁山智水帖」(光村写真部
明35.6) 掲載資料
解説板
「松尾芭蕉句碑 三
あらたふと 青葉若葉の日の光里
芭蕉に関する市内四句碑の一つ。
「奥の細道」に出てくる名句で、ここに古くから句碑があったが、
明治35年9月の大洪水で流失してしまったので、
もとの石刷りを写して再建したと書かれている。
松尾芭蕉は、江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。
桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号をもつ。
この碑が再建されたのは、流失して7年目の明治42年10月、
山門の某と建立者が刻まれている。
日光文学散策路 昭和六十一年設定 日光市
」
表面 裏面
解説板
「大日堂詩碑
日の恵み そのほとほとの 花こころ
東郷 多和羅
大日堂は、明治35年9月の大洪水で、すべてを流されてしまうまで、
美しい池のある庭園で、お堂の中に大日如来の石像が安置されていた。
風光の良さは定評があり、多くの人々がここを訪ね、
東北御巡幸の明治天皇も立ち寄られている。
漢詩は、大日堂を讃美したものだが、作者の東郷多和羅については不明。
維時文政二歳己谷春吉祥とあり、一八一九年、江戸後期の碑。
建立者光哲とあるが不明。
日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市」
「あらたふと 青葉わか葉の 日の光
芭蕉翁おくの細みち日光山吟」
(解説板)
「松尾芭蕉の句碑 二
あらたふと 青葉わか葉の 日の光
芭蕉翁おくの細みち日光山吟
松尾芭蕉は、江戸初期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。号は「はせを」と
自署するほか、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。
元禄2年(1689)4月、芭蕉が奥の細道行脚で、門人曽良を伴い、日光山に
参詣したと刻まれている。
小杉法菴の書で、昭和31年9月日光市・東照宮・輪王寺・二荒山神社が建立。
日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市」
松尾芭蕉句碑の奥に、「重要文化財 石唐門 石鳥居」があります。
場所は、移転した宝物館の移転前の場所です。
奥社の山仲に埋もれていましたが、昭和42(1967)年に発掘され、復元されました。
袖の部分のみ発見されず新造したため、葵紋が、扉にある様式と異なっています。
(解説板)
「重要文化財 石唐門 石鳥居
これは寛永十八年東照宮奥社に建てられたが天和三年震災により
破損したので奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、
当宮三百五拾年祭記念としてここに移建した。
幕府の作業方大棟梁平内氏の設計により巨石から切出されたもので
江戸初期に於ける代表的石造美術である。
東照宮社務所 」
<宝物館は移転しました>