○喜連川足利氏初代国朝墓所(レン光院)
塩原 御所の湯 ジモ専、一般入浴不可 御所の湯 源泉
喜連川藩第6代藩主の茂氏公(御所さま)が享保7(1723)年に鹿の湯(御前の湯)に入湯され、
塩原では御所の湯と呼ぶようになった由来があります。
宇都宮城主奥平美作守忠昌(御前さま)が、寛永8(1631)年に鹿の湯に入湯され、
「御前の湯」と呼ばれていました。
11万石の城主(御前さま)より、城ももたず居館住まいの5千石の喜連川公(御所さま)のほうが
塩原にとってはブランド力があったのです。
宇都宮城主奥平美作守忠昌は、家康のひ孫、将軍秀忠の甥です。
歴代の宇都宮藩主は病気療養や行楽で塩原を訪れますが、
天保6(1835)年には長期滞在で御所の湯の入湯に訪れています。
それでも御所の湯から御前の湯に戻ることはありませんでした。
茂氏公は、弓術にすぐれ強弓をひくことで知られていました。
しかし、江戸では、茂氏公は参勤交代は免除されているので、参府してもすぐ領地に帰ってしまいます。
親しく話をする機会がなく誰も茂氏公の腕前を知りません。
ひょんなことから将軍吉宗の耳に入り、
吉宗は「あの喜連川が強弓とは考えられないなぁ(実は小柄だったらしい)。
自分が直接見たいけど、そうすると迷惑かかるから、見に行って報告して」と老中に命じます。
吉宗は、その見聞を聞き「あの喜連川が強弓を引くとは考えられなかったけど、
え?、まじか!名家だけあって流石だなぁ。」と感心します。
喜連川宿について触れておきましょう。
喜連川の領民は、幕府からの賦役も税の徴収もなく、
大田原藩など近隣の領民から羨ましがられていたといわれます。
大名行列の通過の際は、庶民は土下座して行列の通過を待つのですが、
喜連川の領民はそうしなくても許されたというのには驚かされます。
喜連川は徳川家の臣下ではなく客分であり、将軍家と同格との自負が御所さまにもありました。
、御所さまの喜連川宿では、参勤交代の大名は敬意を表し、
御所様の居館(城は持っていなかった!)の前を通る時は、
大名行列は馬から下り、被りものはとって礼をし、籠の戸を開けて挨拶して通ったといいます。
仙台殿は直接挨拶に伺うことも多々だったようです。
領民が土下座するのではなく、大名行列が頭を下げる特殊な宿場でした。
ちっぽけな宿が、御所さまブランドで、奥州街道では宇都宮、白河に次いで繁盛していました。
喜連川藩では飢饉でも飢える者なく一揆は一度も起こらなかったそうです。
御所さまのエピソードが数多く残っており、事実ではないものも多いと思いますが、
領民の御所さまへの気持ちの表れということでしょう。
以下、参照しました。
「日本一小さな大大名 : たった五千石で、徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代」(山下昌也著 グラフ社 2008.10)
「小さな大大名 喜連川足利氏 その城下町の歴史と文化」(さくら市 平成22年9月)
塩原の鹿の湯(御前の湯)に入湯した茂氏ですが、
家臣の敷地の垣根が板だったのに気づいた茂氏は、
板だと腐ってお金がかかるので、「寒竹囲」と呼ばれる笹の生垣をに替えさせます。
説明版:
「寒竹囲の家 この寒竹囲いは、喜連川公方(きつれがわくぼう)6代城主茂氏公が、
藩士の宅地を囲むのに、板塀などでは制作保繕が大変なので、
笹の密植するのを利用してこれを生垣とすることを奨励しました。
この生垣を鼈甲(べっこう)垣ともいいます」
領民からは、そのお姿を見ると「ありがたさに目眩がする」と言われていたそうです。
また、茂氏が参府するときには、人々が道中に溢れたといいます。
喜連川足利氏第10代煕氏の命で1844(弘化1)年防火と農業用水確保を目的に整備されました。
御用掘とは広く使われている用語かと思っていたら、固有名詞のような用語です。
説明板:
「御用掘
喜連川藩十代藩主喜連川熙氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、
藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や
藩校「翰林館」などを開きました。
特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるよう生活用水
の確保に気を配り、一八四ニ年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)
から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水、灌漑用水・防火用水とし
て利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。
「御用堀」には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、
荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するものそして横町・本町・日野
町を貫流するものとがあります。
この「御用堀」は通称「横町堀」と呼ばれ、町民の生活用水に使われており
ますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流
し、「やすらぎの散歩道」として整備したものです。
平成三年三月 さくら市 誇れるまちづくり委員会」
本堂を見上げると、立派な紋所が屋根から威光を放っています。
足利尊氏が後醍醐天皇から下賜された「桐紋」と、両端に足利家「二つ引両紋」です。
喜連川足利氏初代国朝(くにとも)と、その母(法名:レン光院)は、ここに葬られています。
脇の塔婆に、レン光院や国朝の文字が確認できます。
墓碑に刻まれている文字を確認していくと、レン光院と刻まれた墓碑がありました。
一番右の立派な墓碑だけ、文字が読めません。国朝公の墓碑か?
住職さんに尋ねると、「一番右が国朝の墓碑だろう」とのことでした。
「だろう」というのは、墓碑に刻まれた文字が読めないのが、このひとつだけで、
国朝の墓碑は、これであろうと推測しているとのことです。
(参考)
喜連川藩祖は足利国朝ですが、江戸幕府開幕前に亡くなっています。
国朝の跡を継いだのが弟の頼氏で、喜連川を名字とし喜連川藩主となります。
国朝を歴代に挿入して数えるのと、頼氏から数えるのとがあります。
さくら市は、喜連川足利氏の表記で、国朝から数えています。