Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 那須湯本旧蹟



殺生石
     
 

 <教傅地獄>

  教傅地獄の伝説があります。
  享保15年に建立された教傅地蔵尊があります。
  正面に座す地蔵尊の後ろが享保15年の教傅地蔵尊。
  那須町工芸振興会HPの「那須千体地蔵の歴史」に詳細が記載されています。
  http://nasu-kougei.main.jp/jizoo3.htm 
  清水屋旅館は千体地蔵にも大きくかかわっていたのですね。

      
 

 <盲蛇石>

  「昔、五左ェ門という湯守が大きな蛇に出会いました。
  大きな蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。
  五左ェ門は、これでは冬を越せないだろうと小屋を作ってあげました。
  次の年、五左ェ門は蛇をさがしましたが蛇の姿はなく、かわりに
  湯の花がありました。湯の花の作り方を教えてくれたのでした。
  村人は蛇の首に似たこの石を盲蛇石と名付け大切にしたのだそうです。」
  (案内板より短縮して抜粋しました)

     



安全祈願地蔵

 案内板「安政年間まで湯本の集落は、この先の湯川の橋から殺生石の橋にかけて6橋6槽の景をした集落でした。
 このお地蔵さんは、旧湯本の玄関口にあり集落に出入りする人達の安全祈願をしたお地蔵さんです。
 那須町商工会湯本支部」

   



山津波の碑

 案内板
 「湯本は、安政年間までは現在の「鹿の湯」を中心として集落がありましたが、
  安政5年(西暦1858年)6月14日の夜降り続いた長雨の為、
  崖崩れによる山津波が集落を襲い家屋全戸損傷又は流失し、
  18名の犠牲者がでる悲惨な災害が起こりました。
  罹災後(50年後)慰霊のため有志によりこの碑を建立したものです。那須町商工会湯本支部」

    



聖徳太子像

 案内板
 「この石像は、湯元の有志が大正の初め那須温泉神社に石の
  「神馬」を奉納いたしましたが、その時太子像も同じ石で作られ
  湯元の繁栄と湯治客の安全を願って作られたものです。
                    那須町商工会湯本支部」

    



出来穴
 藤乃稲荷神社 寂師如来 (つつうけの宮) 龍神様

 那須湯本の湯川の川岸に「出来穴(できあな)」という洞窟があります。
 上は殺傷石に、下は喰初佛(くいぞうぶつ)に通じていると伝えられています。
 稲荷神社(民宿藤の屋跡)がその場所で、
 龍神様をお祀りしている「つつうけの宮」が出来穴の入口ですが、ふさがっています。

 出来穴は蝶の精のすみかだったと伝えられ、それにまつわる伝話があります。
 「その昔、狩りをしていた須藤権守貞信(藤原資家・那須氏の祖、父は藤原道家、母は源頼信の娘である。
  藤原道長の曾孫で祖父は歌人の藤原長家になる。)が蜘蛛の糸にかかり苦しんでいる蝶を助けた。
  そこへ蝶の精の美女が現れ貞信を洞窟内に案内し助けたお礼に人の翁が現れ
  一生に一度の大事な時に使うよう2本の矢を渡された。
  1本は貞信が九尾の狐の退治に使ったとされる。
  そしてもう1本は源義経に従軍し、元暦2年(1185年)の屋島の戦いで
  平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした那須与一(貞信から7代目)が使ったとされている。」

 穴の中には出湯があり、地蔵様が祀られていたといいます。
 湯本口から高湯山へ登拝する行者は、白装束で出来穴に籠もり7日7夜の斎戒沐浴を行いました。

     
  
     
 

 <つつうけの宮>
        
 

 <龍神大神/寂師如来>
      

     



東公園(とうこうえん)

 いこいの家の裏のフェンスの切れ目が、東公園(とうこうえん)入口。

 放置状況の公園内には、立派な「東公園の由来」「那須湯本案内図」があります。
 昔は相当の賑わいだったとの説明。今は誰も来ないスポット。

    

   
 

 東公園歩道が整備されていて、東公園から老松温泉に至ります。
 誰も歩かないから、草茫々です。

    


戻る