○夏目漱石と塩原温泉
○夏目漱石文学碑 湯っ歩の里
○夏目漱石漢詩碑 妙雲寺
○夏目漱石の句碑 妙雲寺
「夏目漱石」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
慶応3年1月5日〜大正5年12月9日(1867年2月9日〜1916年12月9日)
夏目漱石は大正元年(1912年)、避暑のため、満鉄総裁中村是公等とともに、塩原を訪問。
漱石は、8月17日から23日まで6泊7日で塩原に滞在します。
西那須野から塩原軌道で、関谷からは人力車に乗り換えての塩原訪問でした。
漱石の日記には「車を雇う」とあり、馬車ではなく人力車使用ですね。
8月17日 古町の米屋別館に宿泊、米屋に入浴に行きます。
8月18日 「宝の湯」(現:ホテルニューもみぢ)へ行き入浴。
その後、東京から到着の2人と塩の湯の玉屋へ入浴に出かけます。
是公は、ここに泊まると言いだし、薬を宿に置いてきた漱石は、一人古町に戻ります。
8月21日 「龍化の滝の帰途、須巻の滝に行。三本の湯瀧。カブト被る。」
※解説
漱石もカブト被って入浴したんだと思うと、なんか笑ってしまいます。
須巻の根本屋では、入浴客は、みなブリキのカブトをかぶって入浴、異様な光景だったようです。
オイルショック後、別荘開発の温泉ボーリングにより、温泉枯渇、たちいかなくなり廃業しています。
須巻の「滝の湯」の源泉を使っていたのが根本屋です。
歴史は古く、江戸時代、寛文(1661-1672)年間、家綱の時代発見。
宿の裏の山から、湯舟に源泉を滝のように落としており、源泉投入量は塩原で一番多く、
入浴客は湯しぶきがかかるので、ブリキのカブトをかぶって入浴していました。
「胸をうたして死んだ人ある由にて、ある婦人突然来り胸をうたすのは御止しなさいといふ。」と、
漱石はご同浴のご婦人に注意されています。
団子と蕎麦が名物で、根本屋でも宿泊できたのですが、塩原の他の温泉地に宿泊の日帰り客が多く、
団子と食事を出すのに手間取り、客の回転悪くかなり混雑していたようです。
団子は食べないのに、金とられるとか(団子代が入浴料がわりだった)、
蕎麦を注文したら出てくるまで客多すぎで2時間も待たされた、
近いと思ったのに山道で歩くのに疲れたなど、温泉案内書には不満の記載もちらほら。
夏目漱石も、日記で宿の対応を書いています。
「御出なさいとも、入らっしやいとも云はず、帳場に人が居ても知らぬ顔をしている。
さっき2人連れが来た筈だがと云ふと分からないと云ふ。白い團子。」
2枚目宝の湯 3枚目根本屋
宝の湯の場所は、ホテルニューもみぢ
8月22日 妙雲寺に参詣しています。
この時は、古町の真田家別荘(現民宿本陣)を宿としていたので、
途中で真田家別荘に宿を変えたようです。
<民宿本陣>
100年経った建物(真田幸村の子孫真田伯爵別邸)をとりこわし、復元新築工事した宿。
源泉名「紀州鉄道塩原温泉」かけ流し。
湯口から源泉がものすごい勢いで注がれています。
湯使いは、浴室から眼下に見える「紀州鉄道那須塩原ホテル」より良い。
クアホテル寿苑の「紀州鉄道塩原源泉および金録源泉混合泉」より良い。
湯舟が小さいので身を沈めると大量の湯がオーバーフローしていき楽しい。
※塩原もの語り館、漱石の日記展示の以下部分をピックアップ。
「湯っ歩の里」遊歩道内に「漱石文学碑」があります。
「漱石日記 大正元年八月十七日
西那須へ下車 軽便鉄道の特等へ乗る
関谷で下車 車を雇う
いい路なり蘇格土蘭土を思い出す
松、山、谷 青藍の水
塩原行より」
イギリス留学中に旅したスコットランドの情景と塩原の景観を重ねています。
楽の滝から少し奥に入ったところに、夏目漱石の漢詩碑があります。
「妙雲寺に瀑を観る
蕭条たる古刹崔嵬に倚る 渓口僧の石苔に坐する無し
山上の白雲明月の夜 直ちに銀蟒となりて仏前に来たる」
漱石は大正元年8月17日に満鉄総裁中村是公とともに、塩原に避暑にきました。
古町の真田家別荘(現民宿本陣)を宿とし、8月22日に妙雲寺に参詣しています。
妙雲寺の住職に依頼されて漢詩を詠んでいます。
境内にある常楽の滝の様子を詠んだもので、この漢詩は、帰京後、9月17日に書簡と共に送られたもの。
自筆の書簡は 漢詩と共に妙雲寺に所蔵されています。
次の本を参照しました(文学碑について詳述していて価値があります)
「塩原温泉文学散歩」(編著者 泉漾太郎 発行人塩原町文化協会 1984.5)
碑は立入禁止のところに建っているので、カメラのズームで近寄りました。
<塩原もの語り館レプリカ>
塩原もの語り館にレプリカがあり、こちらは近寄れます。
「湯壺から 首丈出せば 野菊哉」
塩釜の小梅屋が昭和57年秋、妙運寺に寄進した句碑です。
「塩原温泉文学散歩」(編著者 泉漾太郎 発行人塩原町文化協会 1984.5)を参照しました。