蓮実長氏の孫である蓮実淳夫氏が書かれた本や野間郷土誌などを参考に、
余瀬から野間へ、野間から本郷町の白湯山碑まで、芭蕉の足跡をたどってみました。
諸説あり、芭蕉のたどったルートは確定していませんが、自分なりに推定して納得できました。
「下野のおくのほそ道を歩く 芭蕉が旅した古道をゆく」蓮実淳夫
桑野正光 随想舎
「下野の細道:芭蕉の足跡をたどる」鯨清 随想舎
「野間郷土誌」郷土史を語る会 随想舎
芭蕉は黒羽滞在の最後は桃雪宅を訪問し、翌朝に余瀬の翠桃宅に帰り、曾良と合流します。
「図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。」
余瀬から案内役として弾蔵が同行し、芭蕉・曽良・馬方の4人で野間に向かいます。
「下野の細道」(随想舎)では、桃雪は家来の弾蔵を案内役にたて、
馬と馬子は余瀬の名主・蓮実伝之丞政長(蓮見桃里)が用意し
弾蔵と角左衛門(高久覚左衛門としています)は湯本で帰したと解釈しています。
(曽良随行日記によれば、湯本泊翌日の朝飯後に「図書家来角左衛門を黒羽へ戻す」とあります。
角左衛門が高久覚左衛門であれば、高久へ戻すと記していたはずでしょう。)
黒羽町誌では、図書は道案内に弾蔵を付け、馬は図書の指図により、
余瀬の問屋本陣主人・蓮実伝之丞政長(号桃里)が提供し、
馬上の芭蕉、手綱取る馬子、徒歩の曽良、案内役の弾蔵の4人としています。
図書家来角左衛門と弾蔵が同一人物なのか、別人なのかはっきりしません。
馬方は野間で帰り、案内役弾蔵が、大名主である高久覚左衛門宅に案内し、高久覚左衛門宅に泊、
高久から松子まで馬で送ってもらいます。
松子から歩きで東和泉屋の五左衛門方へ着。翌日朝、図書家来の角左衛門を黒羽へ戻します。
余瀬から関街道を北上します。
旧蜂巣小学校(廃校)の100m先の分岐点から、関街道は右に進路をとり伊王野・寒井に向かいます。
分岐点には馬頭観音があり、道標もかねています。
「右 い王うの 寒ひ 左 はんた なべかけ」と刻まれ
横には「おくのほそ道」という新しい石柱があります。
さて、芭蕉は右の関街道を進んだのか、左を進んだのか。
芭蕉は馬で送られ、しかも道案内をつけてもらっているので、遠回りとなる関街道を進まず、
余瀬から野間に一番近い真っ直ぐな道を進んだと判断して、左の道を進みます。
道標を兼ねた馬頭観音が途中にあるはずで、上の台を注意しながら進みます。
すると右に折れていく道に馬頭観音がありました。道標は確認できません。大正時代でした。
左の林に折れていく道にも馬頭観音がありました。道標は確認できません。明治時代でした。
桧木沢上の台から野原の下羽田に入る手前の林に、右に折れていく道があり、
その分岐に道標を兼ねた馬頭観音がありました。
「右 なべかけ ひだり はんだ」と刻まれています。
「下野のおくのほそ道」では「右 さぶひ 左 はんだ」と刻まれていると記されており
さぶひの文字も刻まれているのか、道標が他にもあるのか、単なる勘違いなのか、不明。
方角的には右に折れていく道は鍋掛方面です。
側面に文久元年とあるので比較的新しい道標です。
道標から直進すると、枯れすすきに出迎えを受けます。
田園の中の道を進みます。
県営圃場整備事業完成記念の碑が建っています。獣畜霊魂供養塔が脇に建っています。
下羽田交差点で棚倉街道を横切ります。
左手の木須館跡(西之内)の縁に正観音堂があり、しばし探索。
羽田村の正観音堂と十王堂は、野間村白湯山西光院が別当をしていた堂宇(野間郷土誌による)です。
・征馬之碑
正観音堂の横に、征馬之碑があります。
昭和12年7月28日に第20師団に動員下令された金田村大字羽田の馬の碑です。
応徴馬名と畜主名が刻されています。
徴収されてすぐの昭和12年10月20日に建てられています。
・「月山 羽黒山 湯殿山」碑
昭和63年9月に建てられた新しい碑です。
<八龍神社> 大田原市羽田846(旧地名:大田原市羽田字館ノ越)
正観音堂の脇を過ぎると、右手に森が見え、八龍神社です。
「満徳廃寺の碑」(昭和15年建立)
「吾等の祖先の寺院野間村満徳寺明治始年廃寺と為れり、、、
其の因由を後世に傳へんと建立」
満徳廃寺の碑が、ここにあるとは驚きました。
<藤形輪城跡の東を通って野間へ>
野間郷土誌に掲載されている古地図を見ると、藤形輪城跡の東を通るのが古くは野間に行く道。
圃場整備で旧道は残っていないので畦道を進むと
奥州街道に出て西野間の湯道のすぐ近くに出ます。
2体の馬頭観音があり、野間郷土誌によると、この道は羽田村に行く道で、
現地ではしっかりと読み取れなかった2体の馬頭観音に記された文字が記録されています。
古いほうは、文政4年(1821)11月に建立されたもの。
明治二十九年
馬頭観世音
四月一日
大野丑吉
馬頭観世音
文政四稔霜月吉
大野源蔵
松尾芭蕉は、この道を通って、野間に着き、野間の立場・馬宿で馬を返し、
野間からの白湯山への湯道を行ったと推定します。
蓮見氏は、芭蕉は奥州街道に出て、野間十字路まで進んで左折したと推定していますが、
西光院からの湯道をそのまま行ったほうが近いし、野間の馬宿は奥州街道沿ではなく、
奥州街道を左折して湯道の右手の脇にあったので、馬を返してから逆戻りするのは不自然。
野間十字路の手前の西野間の湯道から那須に向かったほうが自然と思います。
那須群誌(大正13)の推定では、馬方の求めに「野を〜」の句が詠まれのは糠塚としており
蜂巣からそのまま関街道を進み、桧木沢、糠塚原、関街道を別れ野間道をたどったとしています。
(蜂巣からそのまま関街道を行くと、野間まで遠回りになります。
道案内がついているのに、わざわざ遠回りして、東野間から馬宿のある西野間まで奥州街道を
戻るのは不自然。)
<補足:糠塚>
糠塚原はススキの野原で、寒井や矢組の村の草刈り場になっていたところ。
糠塚原には「糠塚」という一大古墳がある。
叩頭三拝した祭壇を有する「叩頭塚」(未確認)があり、源義家が戦勝祈願している。
「叩頭塚」(ぬかづきづか)を略して「ぬかづか」と言い、
「糠塚」と書くように至って、本義が忘れられた地名になってしまった。
(那須郡誌(大13)より概略を転記)
「野間郷土誌」では、長者平に住んでいた長者が、屋敷で米をついたときに出る糠を
山のように積んで塚にしたと伝えられているとしています。
野間郷土誌では、元禄2年当時の野間といえば西野間のことで、ここには立場や馬宿がありました。
蜂巣からそのまま関街道を進んで糠塚原から野間へ行く道は、
西野間にあった馬宿へ行くのにまわり道で難があるとしています。
(野間郷土誌の記述に、激しく同意します。)
黒羽町誌では、江戸時代の道標を線で繋いで次のように推定しています。
余瀬→蜂巣→上の台→砂の目の西→下羽田→羽田→野間
(黒羽町誌の記述に、激しく同意します。)
宿場では無かった野間村ですが、旅人や駕籠かつぎ・人足・伝馬などが休息する
「立場」といわれる掛茶屋と、伝馬の継立所や会所のあった「馬宿」がありました。
馬宿には伝馬を置いておく小屋があり、馬差や馬呼の宿場役人の詰所がありました。
(野間郷土誌より)
享保17年(1731)7月の原街道と主な道の地図を見ると(黒磯市誌)
高久へ通じる道は、堀越宿からの湯街道、鍋掛宿からの鍋掛道、野間からの野間道、
市野沢からの市野沢道がのっており、
鍋掛道、野間道、市野沢道は、原街道手前の白湯山碑周辺で合流しています。
当時の道は、現代のように固有名称は決まっていなかったとのことで、
呼称は土地それぞれでした。
野間〜下黒磯間を野間街道、野間〜黒羽間は黒羽街道と称され、
一方では湯街道ともよばれていたとのことで、
湯街道・湯道とも呼ばれる道は、多数存在しています。
西野間の馬宿の脇に「湯道」と呼ばれる道があります。
この湯道は温泉神社の東側を通って大水久保を抜け、原街道を横切って
那須の湯本へ通じる道でした。野間村の行人が白湯山へ梵天を上げる時は、
この湯道を登って行きました。
野間と鍋掛の間の樋沢から、糠塚原や羽田に通じる「じゅうが道」がありました。
「じゅうが道」について大野氏が記述しており適度に縮めて紹介しておきます。
「鍋掛を通る旧奥州街道から別れた山道を西の方に行った樋沢の山の中に番太屋敷跡がある。
江戸時代、町の木戸に専従の木戸番を置くことが義務づけられていた。
この木戸の見張り番や警備をしていた者を番太と称した。
番太は木戸番ばかりではなく、刑場の見張り、処刑された者を埋葬する墓穴掘り、
行き倒れて変死した者の始末、弊死した牛馬の解体、宿内の道路の掃除などを行った。
番太屋敷の前には首切り場と言われる芝原があった。
清川地蔵の前に首さらし場といわれる場所があり、重罪を犯した者の首を切って
さらした場所と伝えられている。
番太は鍋掛宿や樋沢村などの近辺の村からこうした仕事の報酬として
いくばくかの給料をもらっていたが薄給であった。
番太は鍋掛宿内に住むことが許されず、村はずれに小屋掛けして住んでいた。
警察の制度ができたとき、職を失った番太は村から出て行ったと言われている。
県道から番太屋敷に通じる山道は「じゅうが道」と呼ばれ、
「じゅう番太の通る道」から付いたと言われている。
現在も道は残っているが通ることはできない。
重罪を犯した者がこの道を首切場へ引かれて行ったとの伝えがある。
「じゅうが道」は樋沢から羽田や糠塚原の方に通じていたと言われるが
今は道は無くなってしまった。」
野間郷土誌の古地図を見ると、樋沢からの「じゅうが道」は、鍋掛からの鍋掛道と合流し、
さらに野間からの「野間道」と合流し糠塚原へ向かっています。
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(芭蕉直筆)
常念寺に、ほぼ芭蕉直筆と鑑定される句碑があります。
句碑は、浄法寺桃雪建立との伝承があります。
余瀬から野間への道中、馬方が芭蕉に句を所望します。
案内役で弾蔵が同行していて、弾蔵は城代家老図書の家来で、それなりの身分でしょう。、
馬方が弾蔵を前にして、芭蕉に句を所望するというのは相当な度胸です。
句を所望したのは、実際には弾蔵の可能性もあるかと思います。
文学作品上、馬方が所望したほうが、絵になります。
馬方にせよ、弾蔵にせよ、芭蕉直筆の句の短冊を得て、浄法寺桃雪に報告し、
桃雪が石に刻ませたと考えると、常念寺にある芭蕉句碑が芭蕉直筆と鑑定されるのも自然です。
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(那須郡誌の解説)
那須郡誌(大13)に芭蕉句碑の経緯が記されていたので(推測でしょう)紹介しますと、
芭蕉一行は鍋掛の茶亭に寄ります。馬子は芭蕉直筆の句の短冊を得て上機嫌です。
(注:野間で馬を返すと記載した曽良の日記は、大正13年の時点では発見されていない。)
馬方は、茶亭の亭主に「野を横に〜」の短冊を見せて「すごいでしょ」とご披露、ご自慢。
すると亭主はすぐに硯を出して「この句いただきたい!」と乞います。
常念寺と清川地蔵尊の傍らにこの句が石に刻まれているのはそのためと記しています。
(鍋掛の句碑は、清川地蔵尊→(県道建設)→鍋掛神社→(景観形成)→八坂神社と移動してきた。
那須塩原市では、1808年鍋掛宿の俳人菊池某ほか数名で建てたものとしています。)
芭蕉の野間から高久へのルートを考証します。
野間から高久までは、芭蕉も曽良も口をつぐんでしまい記録のない空白の行程です。
そのため那珂川をどこで渡ったのか可能性として2説あります(鍋掛宿から渡る、黒磯から渡る)
芭蕉は越堀宿をたどったとネットでは当然のように書かれていますが、この推測には無理があります。
越掘宿には寄らず、野間にある馬宿の脇を通る湯道または野間十文字からの湯街道を行ったと推察します。
「那須郡誌」(大正13)では越堀宿へは行かず、鍋掛から北上したとしています。
当時は曽良の日記は発見されていない中での推定です。
「下野のおくのほそ道を歩く 芭蕉が旅した古道をゆく」(蓮実淳夫
桑野正光 随想舎)では、
野間十文字から北上するコースを紹介しています。
「野間郷土誌」では、野間にある馬宿の脇を通る湯道と、野間十文字からの湯街道(野間道)と
執筆者によって2説あります。
@野間→鍋掛→(那珂川)→越堀→北上して高久
このルートは、各郷土誌では採用されていないルートですがネットでは定説なのが不思議です。
曽良の野間から高久への距離の記載に基づくと、この説は却下です。
A西野間から北上し(鍋掛は通らず、那珂川渡らず)旧黒磯で那珂川を渡って高久
野間村の名主大野六左衛門又は宋海は、延宝元年(1673)8月、黒羽藩に白湯山大権現を拝所とする
行山の許可を願い出て許され、白湯山への登拝が始められています。
野間の白湯山西光院(白湯山講の中心の行寺)の西から北上する湯道は、
那須湯本、板室温泉(塩沢)、白湯山へのメインルートのひとつ。
梵天かついでわっせわっせと野間村や近隣の村人が大勢で湯道を行く賑わった道。
芭蕉は修験光明寺では句を詠んでおり、野間に入り(1689年)、西光院に関心を示すはずでしょう。
元禄2年当時の野間といえば西野間のことで、ここには立場や馬宿、西光院がありました。
野間から、湯殿山信仰を勧請した白湯山信仰の「湯道を行く」のが理にかなっています。
湯殿山信仰は、現地の月山で触れることを構想していたとすれば、
ここで先に触れると作品上よろしくないですね、語られぬ湯殿山です。
野間から高久まで芭蕉も曽良も口をつぐんで、曽良が野間から高久まで1里半余(6kmちょっと)と
記録したのみです。
また、曽良の日記からも、鍋掛から那珂川を渡っていないと推測できます。
「翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。
及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。
高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。」
・曽良が記した距離
徒歩での距離を調べると、
野間の立場・馬宿から高久覚左衛門宅へ鍋掛宿・越堀宿を通ると8.6km。
野間の立場・馬宿から高久覚左衛門宅へ湯道を行くと7.0Km。
曽良の野間から高久まで1里半余(6kmちょっと)との記載から推定すると、
遠回りとなる鍋掛宿・越掘宿には寄らず、野間から北上する湯道を行ったと考えるのが自然です。
また、越堀宿を通ったら、距離にこだわる曽良は記録するはずです。
・曽良が記した出発時間
余瀬を昼に出たと曽良が記録しており、余瀬から野間に出て、野間から湯道を行けば、
最短距離で時間はさほどかからず、越堀宿に寄らないのであれば昼に出発して十分です。
・案内人の存在
曽良によれば、湯本泊翌日の朝飯後に「図書家来角左衛門を黒羽へ戻す」と記しています。
また、弾蔵が案内役で同行したと各郷土誌は記載しています。
芭蕉には図書が道案内をつけていたので、旅人が使うわかりやすい道を遠回りして行く必要はなく、
道案内人は、黒羽藩領の領民が使っている道を行くはずでしょう。
・鍋掛は天領である
曽良は高久覚左衛門への紹介状に触れていますが、高久も湯本も黒羽藩領です。
黒羽藩の城代家老図書の、湯本までの行程への心遣いが丁重です。
代官支配の鍋掛にわざわざ寄る必要はないし、代官へ紹介状を書くのも面倒でしょう。
B野間(馬を返す)→野間十文字から湯道へ出る→旧黒磯で那珂川を渡って高久
曽良が日記に付け足した野間の位置記載に
「野間ハ大田原ヨリ三里ノ内、鍋カケヨリ五六丁西」とあります。
芭蕉と曽良は、大田原から野間に直接たどってはいないので、
野間のどこかで、奥州街道における野間の位置の情報を得たと思われます。
野間は鍋掛から5、6丁(545m、654m)西との記載ですが、
野間の馬宿のある中心地から5、6丁東は野間十文字で、野間村と樋沢村の境です。
野間から鍋掛宿の湯街道交差点まで2.1kmあります。
(なお当時は鍋掛十文字を横切る道は存在していません)
野間十文字からだと五六丁東は鍋掛宿の入口の樋沢に番太小屋があります。
古地図を見ると、番太小屋は樋沢村ですが、番太小屋の北は天領です。
野間十文字から天領まで5、6丁です。
曽良が野間の位置情報を西野間で聞いたのではなく、野間十文字で聞いたと考えると、
野間十文字から北上し野間道(湯街道)を行った可能性も考えられます。
鍋掛宿に実際に行っていれば、野間からの距離を「鍋カケヨリ五六丁西」などではなく
曽良は正確に「鍋カケヨリ半里余西」と記録していたはずでしょう。
C鍋掛の茶亭に寄る(休憩中に馬子は馬を返す)→鍋掛宿から湯街道を北上
→旧黒磯で那珂川を渡って高久
「那須郡誌(大13)」では、鍋掛の茶亭で休憩し、
高久まで一里半余と聞いて徒歩にて出立したとしています。
曽良の日記が発見されていない当時に、野間で馬を返すという情報がない中、
余瀬から鍋掛まで馬、鍋掛から高久まで一里半余と聞いて徒歩にて出立したとしているのは
感心するほどの鋭い推論です。
鍋掛宿から北上して湯街道を行くと高久まで6.8kmです。
那珂川の晩翠橋を渡ってすぐに左折するのが今の湯本道ですが、
昔の道は高久村に入り、宿の中程から左折します。
当時の角左衞門の家は、現在の高久氏の家より西方の水田を隔てた高所にあり
古屋敷と云うと那須郡誌は記載しています。
那須郡誌では鍋掛から越掘宿には寄らずに那須湯本へ向かう湯街道を行ったと推測しています。
○那須湯本での曽良の温泉探索
曽良は源泉の泉温やら湧出状態を記録しています。温泉マニアですね。
「以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。
ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、湯也ノ由、所ノ云也。」
6湯とは、行人の湯、鹿の湯、御所の湯、滝の湯、中の湯、河原の湯です。