・塩原元湯
・那須湯本
「梶原の湯」は、文治2年(1186年)梶原景時、影季が平家に味方した那須の余一の兄達を打たんとして、
傷を負い、負傷治療の為入浴したと伝えられています。
「源頼朝の那須野に狩せる時、梶原景時の浴せしより呼びなせり」との記載もあります。
「御所の湯」は?
建久4年(1193年)に源頼朝が那須野の狩りの際に、那須湯本で入湯し「御所の湯」が残っています。
源頼朝が那須野巻狩の折り、塩原湯元で入浴したことにより「御所の湯」と名付けられたとあります。
(出典:小仙郷)
豊臣秀吉と浅野長政や宇都宮藩主も塩原元湯で入湯しており、
浅野長政は真壁城主(茨城県桜井市真壁町)で隠居し、塩原湯元で湯治中に亡くなっています。
殿様専用の浴舎「本陣」があったのですから、この他の殿様も多く入浴したと想像されます。
塩原古湯本における「御所の湯」は、源泉ではなく、湯屋であり、源泉は帯刀湯の利用です。
往時の塩原湯元は源泉が7つ湧出と源泉湯宿を守る会のサイトなどには記載されています。
明治の温泉本では6つ湧出としています。
湯屋6つと本陣であわせて7つ湯屋があり、湯屋=源泉湧出と混同していると思います。
現在の塩原元湯の「御所の湯」は昔埋もれた湯屋を源泉名として使用しています。
塩原温泉郷土史研究会では、源泉と湯屋について、古絵図等から丁寧に調べており、
正確だと思うのでまとめておきます。
源泉は「邯鄲(かんたん)湯」「千石帯刀湯」「梶原湯」の3つです。
○ 邯鄲(かんたん)湯
→ 本陣で単独使用(殿様用で湯治客は入浴できない)
○ 帯刀湯
→ 中央の広場の6つの湯屋に引湯して使用
大木戸入口から御所の湯2軒・橋本の湯・中の湯・姥の湯・川原の湯[岩中に湯船三つに引湯})
○ 梶原湯
→ 湯屋が円谷寺の隣にあり、梶原湯源泉を単独使用
「大出館」「えびすや」「元泉館」と、現在の3宿とも良い温泉です。
当時とは違いますが、
名称として源泉「御所の湯」(大出館)、源泉「梶原の湯」(えびすや)が継承されています。
大出館の混浴内湯は「御所の湯」(奥)と「平家かくれの湯」(手前)。
源氏と平氏の風呂がひとつの区切られた源平和合湯船になっている(勝手に命名)のも粋です。
大出館は墨の湯(五色の湯No.3)が有名ですが、墨の湯以外でも時折黒くなります。
元泉館の「高尾の湯」でも早い時間だと透明、時間経つと白濁、時々真っ黒になることもあります。
元泉館の「邯鄲の湯」は宿泊者のみで未湯ですが、こちらも時折黒くなるそうです。
昔は殿様専用の「本陣」のみで「邯鄲の湯」が使われていたのが、
今は宿泊すれば入浴できます(当時の源泉とは違いますが)。
○元湯古図(塩渓紀勝 奥蘭田) 大出館「御所の湯」奥
「平家かくれの湯」手前 古式湯まつり使用源泉
建久4年(1193年)に源頼朝が那須野の狩りの際に、那須湯本で入湯し「御所の湯」が残っています。
「那須湯元温泉場絵図」(明治38年発行)によると(観光協会に写があります)、
元湯の近くに滝の湯があり、そこから少々離れた場所に、
「行人の湯」「鹿の湯」「御所の湯」「滝の湯」「中の湯」「河原の湯」が順に並んでいます。
「日本鉱泉誌」(内務省衛生局編)の源泉の記載には行人の湯と鹿の湯しかなく
湯屋はすべて鹿の湯・行人の湯を使用していたことになります。
「那須七湯周遊案内記」(佐藤房之助,人見環著 常磐商店 明24.7)等の温泉本によると、
安政以前は、それぞれの湯屋でそれぞれの源泉を使用していたとあります。
「右大将(源頼朝)の浴せし温泉を御所湯と称へしと口碑に存せり」
当時は、御所の湯の源泉も現存していました。
安政5年6月14日夜、大洪水の山崩れで全戸流失の惨状となります。
このため湯屋を移転し、樋にて温泉を導きました。
現在の「御所の湯」源泉は、昔の源泉名と同名を命名したことになります。
「御所の湯」源泉は、現在「滝の湯」で使用されています。
滝の湯でオーバーフローした御所の湯は、芭蕉の足湯で再利用されていましたが、廃止で残念です。
「滝の湯」の木升かぶり湯・カランは、御所の湯ではなく、湯川右岸の別源泉を利用しており、
滝の湯は「御所の湯」「かぶり湯源泉」と、ぜいたくな湯づかいです。
御所の湯(明治) 御所の湯源泉 天然記念物指定の温泉源 滝の湯 芭蕉の足湯(廃止)
源泉は勾配で湧出地からそのまま下って、湯川をまたいで滝の湯へ。