Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 塩原のジモ専めぐり(入浴できないけれども)

  【大網】【福渡】【甘湯】【塩釜】【須巻】【畑下】【門前
  【古町】【中塩原】【上塩原】【新湯】【元湯
 



<共同湯 29か所(うち22か所+7カ所)>

 塩原には源泉が160カ所以上あります(那須塩原市HPによる)。
  大網(5) 福渡(17) 塩釜(8) 畑下(10) 塩の湯(12) 門前(16)
  古町(28) 中塩原(12) 上塩原(11) 元湯(9) 新湯(5)
 地区ごとに共同湯(総数29カ所)があります。地区ごとに温泉神社もあります。

 由緒ある共同湯が多く、御所さまが入湯した御所の湯などは、
 区長さんが由来をペーパーにまとめておられ感心します。

 自家源泉使用という贅沢な地区風呂も数々あります。

 日経新聞に塩原温泉の共同湯について記事が出ていて
 「塩原には埋もれた宝が山ほどある」と渡辺喜美衆院議員がコメントしていました。

 共同湯がある温泉地は「魅力のある温泉地」の印象がありますが、
 塩原には30カ所近くも共同湯があるのですから底力を感じます。

 入浴はできませんが、地区風呂めぐりは、昔からの伝承等を地区風呂の名前に残しており、
 歴史を感じとることができ趣があります。

  ※地元民の入浴者が減り、管理も大変で、減ってきているとのことで残念です。



大網】

 大網の温泉は、昔は「助の湯」と称し、村の床屋さんが管理していましたが、
 佐藤旅館の主人が村より永久に使用権を賜りました。
 大網は行楽より湯治目的で、他の塩原の温泉地とはちょっと様子が変わっていました。
 電電公社の保養所、田中屋旅館、産業再生機構による支援を受け「湯守田中屋」。
 変遷はありますが今に至っています。
 「石間の湯」「河原の湯」として使わていたものが、源泉名そのままに「湯守田中屋」に継承されています。
 このため、大網に共同湯はありません。

     



福渡】

<池の湯>(共同湯名表記)

 池の湯と戸に記載された湯小屋は蜘蛛の巣がかかり放置されています。

    
 

<冷の湯>(共同湯名表記なし)

 使われていない池の湯のすぐ近くに、つくりのしっかりした共同湯があります。
 和泉屋のblgを見ていたら「冷の湯」のようです。
 源泉「冷の湯共同新掘」を使用していると思われ、贅沢です。

   
 

<泡の湯>

 昔の記録によると「冷の湯」川縁に源泉があるはずで、さがしてみると
 「栃木県登録源泉」の「石柱」と苔のむしている「源泉井」がありました。
 明治の記録によると、左岸に冷の湯(岩崖に湧出)、泡の湯(冷の湯から数歩)があり、
 泡の湯は炭酸ガスを多く含み肌に泡付きがあるので泡の湯と呼ばれ、
 そこから上流に薬研の湯(冷の湯、泡の湯から100m)、裸の湯(薬研の湯から10数歩)と続きます。
 冷の湯は岩崖に湧出、冷の湯から数歩のところが泡の湯(淡の湯と記載の温泉本もあり)なので、
 「栃木県登録源泉」「源泉井」は、位置的に「泡の湯」かなと思います。

  
 

<子持ちの湯(裸の湯)>

 <子持ちの湯>(過去)
  子持ち岩に、源泉と笠懸の跡は残っていますが、現存していません。
  「裸の湯」(通称「子持ちの湯」)の由来
  「湯の中に一巨石あり、俗に之を子抱石といふ。・・此石を抱て浴すれば子を孕むと傳ふ。」

    

      
 

 <子持ちの湯>(現在)(共同湯名表記なし)
  昔の場所ではありませんが、地元専用の共同浴場にその名前が残ります。
  一般の方は入浴できません。

    
 

<不動の湯(滝の湯)/岩の湯(子宝の湯)>

 ※不動の湯はお盆の時だけ限定開湯、岩の湯は再開見込みなし(安全対策予算がつかない)

 福渡の地区風呂は以上ですが、
 福渡で一般の人にも入れるのは「不動の湯(滝の湯)」(足湯もあり)と「岩の湯(子宝の湯)」があります。
 自家源泉で、昔から湯笠がかけられ賑わっていたようです。
 岩の湯には子宝明神があり、不動の湯には弘法大師の爪書き不動尊があります。
 昔の岩の湯の写真では、新聞・雑誌を読める休息所が2階にあり、立派な施設です。

    

     
 

 昔からあるのが子宝明神。また、昔の湯笠の土台跡が残っています。

   
 

<不明>

 箒川左岸の岩に、人工的な土台の跡と、石の階段があります。何ですかね。

    
 

御用邸源泉

 その他福渡には、御用邸内(塩原視力障害センター→更地)に2源泉が湧出。
 旧屋敷旧鉱泉と旧屋敷新鉱泉。畏れ多いので、源泉の詳細は記さないとしています。
 塩原視力障害センターの元職員に確認したところ、2源泉とも枯れ、塩釜の引き湯を利用とのことでした。

   
 

○日大研修所の源泉

 昔の温泉本には記載がないのですが、日大研修所敷地にも源泉があります。
 日大研修所の職員の方がおられたので聞くと、この源泉は湧出量が少なく、
 マンションで使っていると(固有名詞は歩いたら忘れた。。)。
 磯屋(本館と別館)が日大研修所の立地に昔あり、宿をやめてマンションをやっているらしいので、
 ここの源泉と関係あるかも。

   
 

○和泉屋の対岸の源泉

 源泉があるはずですが、確認できません。

  



甘湯】

 地区の方専用ですが個人所有のため、地区風呂には非該当と認識します。
 甘湯の伝説として、塩原7不思議のひとつに冬の桃があります。
 「此澤の辺りに桃あり、寒中花を開く依て之を冬の桃と名づく、塩原七不思議の一なりしも、
 今は枯れて跡なし。」(出典:塩原名勝旧跡の伝説)

   
  



塩釜】

<親抱の湯>

 「親抱の松」が塩湧橋の近くに昔あり、明治や大正の塩原紀行記には、たいてい記載されています。
 親抱松は「蒼々たる古松なり、枝垂れて幹を抱くの状あるより、名つけしと云ふ。」
 「親抱の松に昔のしのばれて思はずしぼる旅衣かな 品川粥二郎」
 探しましたが、そのような松は見あたりません。明治時代にすでに古松ですし。
 大根洗っていたおばあちゃんに、親抱の松はどこにあるのか尋ねてみました。
 すると、おばあちゃん、視線を空に向け、
 「親抱の松はね、ほら、あそこの電柱のところ(思わずおばあちゃんの視線を追うも電柱だ!)
 あそこにあったんだけどねぇ(過去形か。。。)
 もう枯れちゃってねぇ。親抱の湯があって、名前だけしか残ってないよ。
 親抱の湯は塩湧橋の脇からひいてるよ。万人風呂はなくなったしねぇ。
 ここは昔は2〜3軒しか家なかったのに家だけは増えてねぇ。
 (おばあちゃん古くからの住民で、八峰苑のオーナーのことを「ちゃん」呼ばわりします)。
 大根洗っていた水は小太郎ヶ淵からひいてきた湧き水だよ。小太郎ヶ淵ってしってる?
 (知ってますよ、知らないと言ったらたぶん延々と説明受けてたなぁ)
 昔は水道なかったから、水はこれだけで生活していたの。」などなど途切れることなくお話しされます。
 いろいろ教えていただきありがとうございました。
 名勝の「親抱の松」は枯れてしまったけれども、地区風呂にその名が受け継がれています。
 親抱の湯は共同湯の外で源泉に触れることができます。

    

  【塩釜湧水】

  
 

<ぢの湯>(共同湯名表記なし)

 塩原では一番大きな地区風呂と思います。
 いかにも湯小屋といった風情です。
 彩つむぎでも使用している「ぢの湯」源泉使用でしょう。
 塩釜温泉神社に隣接というか、温泉神社は集会所の中に本殿があります。

   
 

<ぢの湯廃止>

 塩釜の共同浴場「ぢの湯」が廃止となっていました(2018/5確認)。
 男女別の入り口は封鎖されています。
 源泉パイプは途中でカットされています。

     
 

<高尾の湯>(共同湯名表記なし)

 「高尾の湯」「紅葉の湯」は、塩釜に住んでいた高尾太夫に由来の湯です。
 元湯の元泉館「高尾の湯」も元湯で生まれた高尾太夫に由来しています。
 「高尾の湯」「紅葉の湯」の他、「高尾塚」がホテル明賀屋(休館)の駐車場にあります。
 「高尾塚」を管理しているのは彩つむぎ。
 弟の門太は画家となり普門と称し、普門淵に名が残り、妙雲寺に涅槃像の絵があります。

    
 

<紅葉の湯>(共同湯名表記)

 高尾太夫は紅葉を好みました。京都高尾にあるモミジを服章に用いていました。
 「いろは紅葉は塩原高尾笑顔かよわす紋所」(泉漾太郎)
 辞世の句「寒風にもろくも朽る紅葉かな」
 高尾太夫は異説異耳多く「塩原名勝旧跡の伝説」では伝説が15個も紹介されています。
 浄瑠璃が伝説になってしまい伊達候も迷惑といった話や勘違いが伝説になっている話も多いようです。

    
 

【塩釜の源泉】

 塩釜の源泉について触れておきます。
 箒川の塩湧橋の八峰苑側(右岸)と指湯側(左岸)に源泉施設があります。
 前者は福渡に送湯されています。
 岩の割れ目からの高温湧出で、明治の頃は「熱の湯」と呼ばれ、
 福渡まで1kmの道程でも湯温下がらず高温です。
 派手に蒸気だしている小屋の他にも2〜3源泉施設らしきものが見えます。
 「福渡区源泉」の他の「塩釜区(右岸)」源泉や「親抱の湯」源泉でしょう。

   

   
 

 昔の温泉本では、
 ・熱の湯 南岸(右岸)
  沸騰して浴するを得ず、福渡戸へ引き内湯とす。
 ・坂下の湯 北岸(左岸)
  小屋を設けられない地理で湯が熱く、蒸湯としていたが廃止されて民家の雑用に供されていた。
  明治時代は地形的に小屋を設けられない、熱すぎるという状況だったようで、
  宿も小梅屋の1軒のみといった状況でした。

 江戸時代は「川原の湯」「橋本の湯」として湯笠がかけられていたようです。
 江戸時代、明賀屋に泊まって、塩釜の蒸湯に通うという記載もあるので、
 これも蒸湯だったかもしれません。
 湯笠があったに違いないと確信して、よく探すと、
 人工的にあけられたと思われる四角い穴が岩に開けられています。
 
  
 

蓬莱山(ホウライ岩)】
 やしおつつじの見所。昔の絵はがきによく登場する蓬莱山です。

   
 

 塩釜は魅力的で、足湯(七ツ岩園地)や指湯があります。
 指湯は、塩釜地区のまちづくり団体「塩湧会」メンバーの手作りです。
 また、野鳥の観察スポットで、箒川の流れが平穏になるので、野鳥が多くみることができます。
 蛍も見ることができます(見ていませんが)。



須巻】根本屋

 地区風呂ではありませんが、昔の温泉案内書には必ず出てくるので言及します。

 歴史は古く、江戸時代、寛文(1661-1672)年間、家綱の時代発見。
 宿の裏の山から、湯舟に源泉「滝の湯」を滝のように落としており、源泉投入量は塩原で一番多く、
 入浴客は湯しぶきがかかるので、みなブリキのカブトをかぶって入浴、異様な光景だったようです。

 戦中は疎開児童に対応、戦後は修学旅行生で賑わいましたが、
 オイルショック後、別荘開発の温泉ボーリングにより、温泉枯渇、たちいかなくなり廃業しています。

 夏目漱石は大正元年(1912年)、避暑のため、満鉄総裁中村是公等とともに、塩原を訪問。
 8月21日「龍化の滝の帰途、須巻の滝に行。三本の湯瀧。カブト被る。」
 漱石もカブト被って入浴したんだと思うと、なんか笑ってしまいます。
 「胸をうたして死んだ人ある由にて、ある婦人突然来り胸をうたすのは御止しなさいといふ。」と、
 漱石はご同浴のご婦人に注意されています。

 団子と蕎麦が名物で、根本屋でも宿泊できたのですが、塩原の他の温泉地に宿泊の日帰り客が多く、
 団子と食事を出すのに手間取り、客の回転悪くかなり混雑していたようです。

 団子は食べないのに、金とられるとか(団子代が入浴料がわりだった)、
 蕎麦を注文したら出てくるまで客多すぎで2時間も待たされた、
 近いと思ったのに山道で歩くのに疲れたなど、温泉案内書には不満の記載もちらほら。

 夏目漱石も、日記で宿の対応を書いています。
 「御出なさいとも、入らっしやいとも云はず、帳場に人が居ても知らぬ顔をしている。
 さっき2人連れが来た筈だがと云ふと分からないと云ふ。白い團子。」

 



畑下】

<鳩の湯>(共同湯名表記)

 鳩の湯は存在がわかりやすいので、ネットでもよく画像出ています。
 はとや旅館(廃業)の浴室と並んでいます。
 鳩の湯の由来:
 「鳩の湯は、畑下戸なる四カ所温泉中の一にして、同地の入口なる坂下にある湯である。
  むかし一羽の鳩が猟士のために羽を傷つけられた時、まだ此の湯が草中なる巌間から湧き出でたる際、
  来たりて湯あみして、其の傷口を癒したるが故に鳩の湯と唱えり。」(出典:塩原名勝旧跡の伝説)

    

 
<清琴楼前の共同湯>(共同湯名表記なし)

 排湯がないので、現役では使用されていない印象を強く受けます。
 名前だけでも知りたいところ。

    
 

<狢の湯>

 畑下温泉の狢の湯。朽ち果てているとはいえ、現存しているのは奇跡的と思います。

   
 

<下(しも)の湯>(共同湯名前表記なし)

 「古式湯まつり」2011/9/9で、ジモ専2カ所(畑下「下の湯」、古町「平成の湯」)開放されました。
 どなたのご尽力か存じませんが、画期的なことと思います。
 この日のためだけに立派な「名湯 下の湯」のポスターが貼られており感激しました。
 入湯してさらに感激が増しました。
 鍵がかかっていたので、ぬりやの若旦那に開けていただきました。
 一番乗りでした。入浴後、湯荘白樺の若旦那が来られました。
 他所を訪問して、再度、下の湯を訪問すると、ぬりやの大旦那が掃除されていました。
 なんでもパイプをつけかえて、析出物がすごいので落ち葉等をすくっていました。
 いい湯だよ、どうぞとのことでしたが、もう入ったということで
 しばし雑談、次々とぶつけるマニアックな質問にすべて即答・氷解、お世話になりました。
 ・未使用源泉が下の湯の裏から湧出しており、下の湯の横で捨て湯。
  熱くてさわれないと思うよとのことですが 果敢に指を突っ込むと激しく熱かった。
 ・畑下でメインに使用している源泉は、河岸から湧出し、上の道路脇に揚げて
  各旅館や共同湯に配湯しているとのこと。
 ・塩原で一番熱い源泉で77℃あるとのこと
  塩釜の温泉病院も熱いけどミシュランの源泉一覧で確認するとその通りでした。
 ・ぬりやは会津出身で、元湯で営業していたけれども地震で壊滅したので畑下に移ってきたとのこと。
  なるほど、それで、会津塗りの職人の常宿となり塗屋となったのですね。
 ・ぬりやの横の道が旧会津道(塩原道)!とのこと。
  こんな細い道が!はとや旅館の前の道では?と聞くと、そっちは違うとのこと。
  昔は馬が通れれば良かったので細くてもこれで充分だったとのこと。
 ・狢の湯は、川沿いの朽ち果てた露天風呂がそれで、
  横の共同湯は旅館買った方の所有で手出しできず放置中とのこと。
 ・下の湯はぬりやの大旦那が管理。
  まだまだ元気なので、これからもしっかりと維持していくとのこと。
 ・大旦那にお世話になったので、若旦那にお礼を述べに行くと、
  うちの父がなにか粗相でもされましたか的な表情をされたので、
  そうではなくて色々と畑下のこと教えていただいたとお礼を述べると
  にこにこ、さらにお礼を述べました。
 ・塩原のジモ専は、旅館は風呂があるので旅館の方々も利用できないのですが、
  下の湯は地元民としてぬりやの大旦那さんが維持管理責任者であるため、
  下の湯が開放されたのは、ぬりやの大旦那のご尽力が大きかったのだろうと思いました。
 ・鳩の湯の利用者は多いそうですが、こちらは利用者が2家族と極めて少なく、維持管理が大変なようです。

    
 

<下田の湯>(共同湯名表記なし)

 湧出地は箒川河原のマンホールで自家源泉。
 マンホール近辺の川縁からも泡がぽこぽこ出ています。
 共同湯から箒川へオーバーフローしていきます。自家源泉使用とは贅沢です。

    
 

<高砂の湯>(共同湯名表記)

 湧出地は箒川左岸で源泉小屋がすぐ下にあります。
 自家源泉使用とは贅沢。
 共同湯の外で激熱源泉に触れることができます。

     
 

<青葉の湯>

 一般の人が入れる「青葉の湯」がありましたが、旅館の楓の湯となり、一般入浴不可となりました。

    

   
 

【町営畑下源泉】

 「町営畑下源泉」の湧出地454は「ぬりや」の住所に当たります。
 ぬりやでは「畑下元湯共有源泉」の分析書を掲示していましたが、現在は「町営畑下源泉」を使用。
 那須塩原市の市営温泉事業条例では、畑下源泉の記載がありません。
 給湯している市有源泉は
 「門前1・2・3・4号源泉」(門前、古町に給湯)、
 「中塩原温泉」(中塩原、古町に給湯)、「刈子の湯」(塩の湯に給湯)、
 「福渡1号・2号」(福渡に給湯)、「古町御所の湯」(御所の湯に給湯)、
 「鹿股2号源泉」(塩の湯、塩釜、福渡に給湯)となっています。(上・中塩原は別のシステム)
 那須塩原市は、現在「町営畑下源泉」には関知していないことになります。
 源泉所在地のぬりやが管理しているかもです。
 「ぬりや」は会津塗の職人がよく立ち寄ったことから昔は「塗屋」でした。
 湧花庵(旧神谷)は昔「紙屋」でした。清琴楼は「佐野屋」
 鳩の湯の近くに旧塩原町の町章入りマンホールがありますが源泉かどうかは不明。
 「町営畑下源泉」は、はとや旅館(閉館)、大和屋旅館(閉館)、ぬりや(現在)、共同湯で使用と思われます。

    
 

【畑下元湯共有源泉】

 「畑下元湯共有源泉」の湧出地451-2は「湧花庵」(旧神谷)の住所の枝番です。
 以前の状況では、ぬりやと福久寿苑、大和屋旅館(閉館)の一部で使用。現状は不明。
 湧花庵は「畑下元湯神谷源泉」(湧出地446-3)も所有しています。
 昔の記録をみると、内湯を設けていた宿は「紙屋」(元湯使用)だけだったようです。
 鳩の湯、狢の湯、河原の湯は河岸湧出の源泉に対し、
 元の湯と冷の湯は畑下温泉入り口の背後の丘下より湧出の源泉です。

   
 

【その他】

    



門前】

<翁の湯>(共同湯名表記)

 翁の湯は川沿いでその存在がわかりやすく、ネットでもよく画像出ています。
 湧出地は共同湯のすぐ横です。
 「翁」とは特定の個人ではなく、健康長寿の意味で名付けたと聞いているとのことです。

    
 

<姫の湯>(共同湯名表記なし)

 妙雲寺のすぐ近くの地区風呂。
 自家源泉「姫の湯」を使用している姫の湯。姫とは誰ですかね。

    
 

寺の湯>

 寺の湯(別名:我浄泉)は地区の人もだれも入れないとのことです。
 

<寺の湯源泉>

 モーター音が聞こえてくる小屋があり、温泉源泉標識が掲示してあり、寺の湯源泉でした。
 源泉名「寺の湯」。 湧出地 塩原町下塩原 番地の3
 動力許可 昭和42年12月 151.5m掘削 動力引揚
 「妙雲寺源泉棟 木の葉化石園 寄付」ともあります。
 自然湧出ではなく動力引揚です。

   

      
 

<河原の湯>辺り

 門前地区の箒川沿のほぼ川面レベルに源泉小屋があります。
 ゆっぽの里からよく見えます。すごいところにあるもんです。
 昔の源泉の記載によると、
 門前には「自楽坊の湯」「下の湯」「三島の湯」「寺の湯」「河原の湯」があります。
 湧出地の記載(箒川の北岸、道路より低き所にあり)から、昔の「河原の湯」あたりかと思われます。
 現在の源泉名はわかりません。

   

 ※ 門前の地区風呂は以上ですが、昔は蓬莱橋を渡ったら古町の整理だったので、その分類に従っていますが、
  古町の地区風呂で門前の源泉を使っているところもあり、
  古町地区ではなく門前地区の整理になっている地区風呂もあるかもしれません。
 

蓬莱橋の欅>

 塩原の箒川沿にけやきの巨木が多いのは、川岸の水の当たりの強いところに根を広く張るケヤキを植え、
 水害対策としていたことによるものです。
 蓬莱橋の脇の2本のケヤキの老樹は、床屋の宅跡でした(明治・大正の頃)。
 かつて宇都宮候が入浴する時は、この床屋の家を宿としたそうです。

     



古町】

     
 

<御所の湯>(共同湯名表記)

 御所の湯を管理していた宿屋「米屋」細井家に跡継ぎなく廃業、御所の湯は現在地区風呂となっています。

 「塩原の家忠公が猟に出でたる時(渡辺七左右衛門という名主が猟に出た時と説明する書も多い)
 薮原の中の湯に、12股の角生えし鹿の、この温泉に浴せるを認め、射て之を斃したるより、鹿の湯と名づく、
 後喜連川候、此の湯に入浴せられしより、御所の湯と改めたりと云ふ。」(出典:塩原名勝旧跡の伝説)

 喜連川候(御所さま)が入浴され御所の湯と改名していますがそれまでは鹿の湯でした。
 藩主(御前さま)が入湯し、「御前の湯」と呼ばれた時もあったようです。
 宇都宮城主が入浴されても、5千石の喜連川城主が7万7800石の宇都宮城主よりも格上で、
 御所の湯のままです。

    
 

<吐月の湯>

 妙雲寺の裏の山の別名が「吐月峰」です。
 源氏との戦いで都落ちする平氏ですが、かつて平清盛の腹心であった平貞能だけは、
 京での主戦を唱え、私は暇をもらってついていかず、ここで戦うと京に留まります。
 平貞能は、重盛様が源氏の馬の蹄に掛かるのは耐えられないと、京の平重盛の墓から遺骨を取り出し、
 東へ向かいます。

 貞能は重盛夫人(得律禅尼)を伴って常陸に行き(平家にゆかりのある地)、
 小松内府重盛の遺骨は茨城県城里町の小松寺に埋葬します。小松寺に重盛夫人を託します。
 江戸時代、水戸藩では重盛の墓として認識し手厚く保護します。

 常陸を離れ、平重盛の遺品である釈迦如来立像(宋の皇帝孝宗から贈られたものと妙雲寺縁起に記載)を背負い、
 母方の血縁の宇都宮朝綱を頼って、妙雲禅尼(平重盛夫人の妹)を伴い下野に姿を現します。

 宇都宮朝綱は2人を預かることを源頼朝に許可を願い出ます。1185年。
 たくらみがあるに違いないと平貞能を恐れて許否の返事をしない頼朝ですが、
 平貞能が反逆することがあれば朝綱の子孫は断絶していただいて結構とまで言って認められます。
 吾妻鏡にやりとりの記録が残るほどの人物です。

 宇都宮朝綱は領地の塩原に案内(月夜川)。
 釈迦ヶ岳は、平重盛の遺品である釈迦像が安置されたことから名がついたと言われます。
 妙雲禅尼は、月夜川の庵から、毎夜、月を見ては京の都を懐かしみ、
 妙雲寺の裏山の上から月が出てくるので、この山を「吐月峰」と言ったと伝わっています。

 その後、奥地の妙雲寺に庵を結びます(当時は門前のほうが山奥)。
 塩原平家獅子舞は、栃木県の文化財に指定されており、栃木県の説明によると、
 「かつて栄光をもたらした獅子舞を平重盛の霊前に奉納しました。
  この獅子舞が現在まで伝えられたと言われています。」

 貞能は、妙雲禅尼の没後、九輪の石塔を建て塩原を離れ、
 大平山(益子の芳賀富士)に安善寺を建立し、各地を巡礼したようです。

 「吐月の湯」にはそのような由来があります。

   
 

<八汐の湯>

 八汐は塩原では色々なところで、この名前が使われています。
 共同湯の近くの住宅地の中に源泉施設があります。余り湯がどかどか捨てられています。
 住民の方に確認すると、源泉は共同湯(八汐の湯)で使われているとのこと。
 「町営門前4号源泉」と思います。門前1・4号混合のパターンが多いのですが
 門前4号源泉は共同湯以外では塩原山荘で単独使用しています。

    

 門前4号源泉
    

 門前1号源泉
   
 

<蛍の湯>

 ホタルが乱舞する名所として昔は名高かった「蛍ヶ谷(ほたるがや)」に近いので、
 それに因んでの命名と思います。
 昔の温泉本には「蛍ヶ谷」は名所として紹介されています。
 今の状況は、蛍が乱舞するような印象はありません。

    
 

<平成の湯>(弁天の湯)

 年に1回、温泉ふるまいの時に開放されます。
 公民館にある地区風呂です。かつての西川集会所みたいです。
 共同湯名から想像していたのと大きく予想を裏切られ良いです。
 湯舟は大きく、湯量が半端なく大量で、湯舟の縁から溢れ出しが豪快!
 蛇口も温泉使用です。加水はなく、完全掛け流しです。
 ここでもまたまた湯荘白樺の若旦那さんが来られて、若旦那さんも予想外の湯舟に驚いておられました。
 名だたる他の共同湯の実力のほどが推察されます。

 当番の地元の方々がおられたので、話を聞くことができました。
 むかしからある古い共同浴場で、以前は「弁天の湯」の名だったそうです。

    

     
 

<旭の湯>

 かつて、温泉ふるまいで開放された時がありました。
 男女別の共同浴場。古地図にも掲載されている湯です。
 塩原の共同湯は混浴が多い中、ここは男女別湯舟です。
 源泉熱く、山の水の加水はありますが、良い湯です。
 汗がなかなかひきませんでした。
 旅館のご主人2名もご入浴。がりつうさんもご登場。

   

     
 

<もみじの湯>

 一般の人も入れるもみじの湯があります。

     
 

<宝の湯>

 「宝の湯」跡は、現在「ホテルニューもみぢ」となっています。夏目漱石もここで入浴。

     
  



中塩原】

 中塩原の共同湯はシラン沢の近辺にあり、シラン沢は鉄分や石灰分が多く魚が住めないので、
 精進川と呼ばれ塩原7不思議のひとつです。岩が所々で茶色になっています。
 大根や布を川にさらすと白くなるとも昔の書物に記載もあります。
 また片方にしか葉をつけない片葉の葦も塩原7不思議のひとつです。
 共同湯近くには、鉄鉱泉の分析書が掲げられた廃屋があったりします。

<シラン沢右岸の共同湯>(共同湯名表記なし)
 
  
 

<シラン沢左岸の共同湯>(共同湯名表記なし)

   
 

【塩原温泉(源泉名 鉄鉱泉)】

 箒川の支流シラン沢が箒川に合流する手前に廃墟の旅館。
 塩原温泉(源泉名 鉄鉱泉)の分析書が掲示されています。

   



上塩原】

<宮島西共同浴場>

 上塩原は、那須塩原市の条例に集中配湯施設の配湯先として「宮島西共同浴場」が記載されているのですが、
 使用されておらず現役を退いていました。男女別の浴室があります。
 公式名ではなく通称を知りたかったのですが、記載の板がはずされたような印象でした。

    
 

<いさきの湯>

 閉鎖されて更地になっています。

  



奥塩原新湯】

 明治の頃には「上の湯」「中の湯」「寺の湯」「むじなの湯」がありました。

 上の湯と中の湯はともに造成泉を使用。
 上の湯は現存しません。「上の湯」は「御所の湯」とも言ったようです(なぜだか気になります)。

 寺の湯とむじなの湯は自然湧出。

 「むじなの湯」の別名が「下の湯」です。
 「狢(むじな)の湯」は、
 「傷ついた狢が、その当時の領主の奥方に化けて入浴して全治した故に、狢の湯と名付けた。」
 との伝説を温泉案内書で紹介しています。
 

<中の湯>

      
 

<寺の湯>

  廃寺となった円谷寺の寺湯が由来です。

  湯元にあった円谷寺も、新湯に移転してきました。
  円谷寺のご本尊の阿弥陀如来は、
  源満仲(源義家の祖父)の持佛だったといわれ(塩原郷土史研究会)源氏ゆかりの地なんですね。
  「塩渓紀勝」(奥蘭田)に記載されている元湯古図を見ると、
  梶原湯の北に、「湯本山円学院円谷寺」の文字が見えます。

   

     
 

むじなの湯>

 2002年7月7日 仕切り工事後、男女別。
 2010年8月   二宮尊徳が湯治していたという解説板が設置されました。
         掲示は9月吉日とありますが。

 向かって右浴室、奥底の岩盤から自然湧出。足下湧出の自然湧出泉で、はずせないでしょう。
 湧出量は少ないと思いきや、小屋から流れ去っていくオーバーフローはそれなりです。

 1年ごとに男女入れ替えです(5月ぐらいの印象)。
 源泉たまっている湯箱に、犬小屋みたいなのがかけられました。

     

    

    

    
 



古湯本】

 「梶原の湯」は、文治2年(1186年)梶原景時、影季が平家に味方した那須の余一の兄達を打たんとして、
 傷を負い、負傷治療の為入浴したと伝えられています。
 「源頼朝の那須野に狩せる時、梶原景時の浴せしより呼びなせり」との記載もあります。

 「御所の湯」は?
 建久4年(1193年)に源頼朝が那須野の狩りの際に、那須湯本で入湯し「御所の湯」が残っています。
 源頼朝が那須野巻狩の折り、塩原湯元で入浴したことにより「御所の湯」と名付けられたとあります。
 (出典:小仙郷)

 豊臣秀吉と浅野長政や宇都宮藩主も塩原元湯で入湯しており、
 浅野長政は真壁城主(茨城県桜井市真壁町)で隠居し、塩原湯元で湯治中に亡くなっています。
 殿様専用の浴舎「本陣」があったのですから、この他の殿様も多く入浴したと想像されます。

 塩原古湯本における「御所の湯」は、源泉ではなく、湯屋であり、源泉は帯刀湯の利用です。

 往時の塩原湯元は源泉が7つ湧出と源泉湯宿を守る会のサイトなどには記載されています。
 明治の温泉本では6つ湧出としています。
 湯屋6つと本陣であわせて7つ湯屋があり、湯屋=源泉湧出と混同していると思います。

 現在の塩原元湯の「御所の湯」は昔埋もれた湯屋を源泉名として使用しています。

 塩原温泉郷土史研究会では、源泉と湯屋について、古絵図等から丁寧に調べており、
 正確だと思うのでまとめておきます。

 源泉は「邯鄲(かんたん)湯」「千石帯刀湯」「梶原湯」の3つです。

  ○ 邯鄲(かんたん)湯
     → 本陣で単独使用(殿様用で湯治客は入浴できない)
  ○ 帯刀湯
     → 中央の広場の6つの湯屋に引湯して使用
       大木戸入口から御所の湯2軒・橋本の湯・中の湯・姥の湯・川原の湯[岩中に湯船三つに引湯})
  ○ 梶原湯
     → 湯屋が円谷寺の隣にあり、梶原湯源泉を単独使用

 「大出館」「えびすや」「元泉館」と、現在の3宿とも良い温泉です。
 当時とは違いますが、
 名称として源泉「御所の湯」(大出館)、源泉「梶原の湯」(えびすや)が継承されています。
 大出館の混浴内湯は「御所の湯」(奥)と「平家かくれの湯」(手前)。
 源氏と平氏の風呂がひとつの区切られた源平和合湯船になっている(勝手に命名)のも粋です。

 大出館は墨の湯(五色の湯No.3)が有名ですが、墨の湯以外でも時折黒くなります。
 元泉館の「高尾の湯」でも早い時間だと透明、時間経つと白濁、時々真っ黒になることもあります。
 元泉館の「邯鄲の湯」は宿泊者のみで未湯ですが、こちらも時折黒くなるそうです。
 昔は殿様専用の「本陣」のみで「邯鄲の湯」が使われていたのが、
 今は宿泊すれば入浴できます(当時の源泉とは違いますが)。

    
  ○元湯古図(塩渓紀勝 奥蘭田)              大出館「御所の湯」奥 「平家かくれの湯」手前      古式湯まつり使用源泉



以下、参考・参照した。
「塩渓紀勝」奥三郎兵衛(奥蘭田) 明23.6
「下野鉱泉誌」佐藤房之助編  内山港三郎 明24.9
「小仙郷 塩原温泉紀勝」佐藤一誠(桜哉) 進運社 明32.7
「野州塩原温泉案内」下野新聞社 明38.7
「塩原温泉誌」田代近三編集 宝来社 明38.8.6(編者は福渡牧野屋館主)
「旅館要録」東京人事興信所 明44
「山水名勝避暑案内」 大浜六郎著 弘学館書店 明治44
「塩原名勝旧跡の伝説」塩渓探勝会編 大正10
「塩原温泉名所図絵」吉田初三郎 大正名所図絵社 大正11


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