須巻に「滝の湯」がありました。その源泉を使っていたのが根本屋です。
宿の裏の山から、湯舟に源泉を滝のように落としており、源泉投入量は塩原で一番多く、
入浴客は湯しぶきがかかるので、みな頭巾みたいのをかぶって入浴しており、
異様な光景だったようです。
夏目漱石の日記でも「滝の湯」に言及されています。
大正元年(1912年)8月21日
「龍化の滝の帰途、須巻の滝に行。三本の湯瀧。カブト被る。」
漱石もカブト被って入浴したんだなぁと思うと、なんか笑ってしまいます。
また、「胸をうたして死んだ人ある由にて、ある婦人突然来り胸をうたすのは御止しなさいといふ。」と、
漱石はご婦人に注意されています。
歴史は古く、江戸時代、寛文(1661-1672)年間、家綱の時代発見。
団子と蕎麦が名物で、根本屋でも宿泊できたのですが、
塩原の他の温泉地に宿泊の日帰り客も多く、宿泊満杯かつ日帰り客多く、
団子と食事を出すのに手間取り、客の回転悪くかなり混雑していたようです。
団子は食べないのに、金とられるとか(団子代が入浴料がわりだった)、
蕎麦を注文したら出てくるまで客多すぎで2時間も待たされた、
近いと思ったのに山道で歩くのに疲れたなど、温泉案内書には不満の記載もちらほら。
夏目漱石も、日記で宿の対応を書いています。
「御出なさいとも、入らっしやいとも云はず、帳場に人が居ても知らぬ顔をしている。
さっき2人連れが来た筈だがと云ふと分からないと云ふ。白い團子。」
根本屋は文字としての記録はたくさん残っています。
広告は出さなくても、口こみで客は来ている印象を受けます。
「大湯瀧 須巻旅館」伊豆の温泉案内本に広告が出ていました
夏目漱石もかぶった兜ですが、防災頭巾のようなものをイメージしていましたが、全く違っていました。
兜は、ブリキのバケツです。
「極楽めぐり:漫画漫文」(近藤浩一路 磯部甲陽堂 大正8)の中で、図入で紹介されています。
「飛沫除のために案出した兜様のヘンテコなものを備えている」と。
当時からヘンテコなものとの認識は共通していたようです。
さて、その兜ですが、材料はトタン(ブリキ)でできていて、
目だしの穴があいているバケツを、逆さに被るといったところ。
図を見ると、兜の上部分は円錐で、目出しの上にひさしがついています。
男子用と女子用で大きさが異なり、
女子用の兜は、丸髷でも庇髪でもスッポリ被れるよう馬鹿に大きかった。
湯瀧の浴客は、まるで海底の潜水夫そっくり。
兜はトタンでできているので、四方八方から兜に当たってくる飛沫で、
ガンガンバラバラ素敵にやかましかったそうです。
須巻の日拓不動産別荘跡地にありました。
古い石組みがあるので、そこが根本屋の跡なのでしょう。
戦時中は、疎開児童に対応、戦後は修学旅行生で賑わいました。
自然湧出「滝の湯」を六条の筧で滝のように大量に落としていましたが、
近くのボーリングの影響で、「滝の湯」がほとんど出なくなったこともあり
たちいかなくなったとのことです。(近隣の方の話)
玉乃屋旅館の女将さんによると、須巻温泉根本屋は、とっても賑わっており、
何本もの木管から滝のように温泉を湯舟に落として、すごかったのよ。
塩原もの語館に、須巻温泉の根本屋の写真があり、おぉ!。
(お孫さんが塩原支所にお勤めだそうで)
※近くの野湯は、ブルーシート付けたり勝手なことをする人がいて、別荘地の管理人が2006年7月に立ち入り禁止としました。
がりつうさんが、畑下の庚申塔が道標になっていると発見。
誰も気づいていなかったので、第一発見者ですね、よく気がつくもんだと感心します。
畑下から須巻に行く道があったということですね。
須巻温泉の歴史は古く、江戸時代、寛文(1661-1672)年間、家綱の時代発見なので、
江戸時代から、畑下から須巻にいく湯治客で賑わったことと思います。
内湯の湯舟の中で、舟を浮かべています! すごい光景です。
(出典:「塩原温泉案内」戸丸国三郎編 日本温泉協会代理部 大正11)
「塩原名勝旧跡の伝説」(大正10年発行)に万人風呂の記載があります。
内湯が広いと書いてあっても、これほどとは驚きます。
「明治17年道路開通の当時、役人の勧めにより、古町なる米屋に内湯を設けたるを、内湯の始めなりとす。
(なお米屋は絶家にて消滅し現存せず)(途中略)爾来各館競ふて内湯を設くるに至れり、
殊に袖ヶ澤には、近頃萬人風呂と称せる内湯の広きものが出来たり。」
他の案内本では、700人入浴可とあります。
○袖ヶ沢(袖の澤)温泉
大田原銀行塩原支店長の大橋義雄氏が銀行を辞して始めた会社が塩原遊園地株式会社です。
塩原袖ヶ沢温泉「万人風呂 霞上館」を運営していました。
万人風呂へ向かう「遊園道」を自力で建設し、箒川にかかる遊園橋にその名が残ります。
遊園橋の当時は木橋で、流され架け替えられています。
遊園橋から、万人風呂へ向かう道は、現在は市道袖ケ沢線となっています。
袖ケ沢からは、市道門前・須巻線と繋がっています。
八峰苑(閉館)は、万人風呂の源泉(大橋秀夫、鹿の湯)をひいていました。
ニュー憩(閉館)は、八峰苑の弟さん運営で、万人風呂の源泉を使っていました。
源泉所在地が知られると不測のこともあり得るとのことで、
これまでお見せしたことはないとのことでしたが、八峰苑のオーナーに案内され、
ネットに写真出さないでねとのことで、流れ星さんに随行して見せていただいてから、
もうだいぶ経ちました。(流れ星さん日記)。
「塩原袖の澤温泉案内」(塩原遊園地株式会社)と、表記は、
「袖ヶ沢」と「袖の澤」の2つあります。
がりつう(gari2)さん(スゴイ人で尊敬)が、入手された、
「塩原袖ケ澤温泉案内」(塩原遊園地株式会社)のしおりの内容を元に、
万人風呂を詳しく紹介しています。(がりつうしん > 塩原袖ヶ澤温泉にようこそ)
これをみると源泉名は「塩原袖ノ澤温泉」(大正11年3月分析結果)。
源泉名「塩原袖ノ澤温泉」で申請したが、温泉地の公式名は「塩原袖ヶ沢温泉」としていたようです。
○万人風呂 霞上館
霞上館は山津波で何度かつぶれています。
戦後もしばらく存在しており、八峰苑のオーナーのお母さんが、万人風呂に入っていたとのこと。
建物は現存していませんが、建物は自然に朽ち果てたのではなく、
閉館して、業者が柱から何まで解体して持ち去ったからとのこと。
現代の鉄筋コンクリートでは、廃業旅館の放置廃墟が多いですね。
○万人風呂の痕跡
・「遊園橋」
万人風呂へ通じる「遊園橋」は、当時の木造橋ではありませんが、昔ながらに名前を留めます。
・「遊園道」
市道袖ケ沢線となっています。
・「上水道万人風呂配水池」
万人風呂の名前を留めます。
・浅間神社灯篭
万人風呂脇にあった浅間神社は、山津波でつぶれて現存しないとのこと。
江戸時代の灯籠が残ります。
・万人風呂 霞上館 池の跡
建物は残っていませんが、池は残っています。
・袖ケ沢から流れ落ちる吉井の滝
万人風呂 霞上館が存在していた塩原袖ケ沢温泉。
その袖ケ澤から箒川に流れ落ちるのが吉井の滝です。
吉井の滝は別名「芳袖(ほうしゅう)瀑」といい、
吉井伯の別邸の前にあったので、吉井の滝と命名されています。
ついでですが「塩渓紀勝」を記した奥蘭田の別荘「静寄軒」(焼失し現存せず)が
清琴楼の隣にあったと、明治の温泉案内本に記載されていました。
金色夜叉(尾崎紅葉)の一節で、清琴楼の説明の中で吉井の滝が言及されています。
「袖の澤を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、素繍を垂れたる如き吉井滝あり。」
田山花袋も吉井の滝に言及していますが
「日光の滝を目にしたものには、この位の滝では心を動かすには足りない」
と手厳しいです。
国道400号のバイパスができているので邪魔となり、清琴楼の露天風呂から今は見えません。
国道400号バイパスの弁天橋から、袖ヶ沢を流れ落ちる吉井の滝を見ることができます。
※ 八峰苑(閉館)の故大橋氏から聞いた話、玉乃屋旅館(閉館)のご主人、直系のお孫さんから
聞いた話を中心にまとめた。故大橋氏のご冥福をお祈りいたします。
八峰苑は、震災後も営業していましたが、平成22年1月に競売に付されました。
平成22年10月14日の開札で350万円で個人に売却されました。
苑主は体長不良で入院中でした。
平成23年5月に閉館しました。
八峰苑社長の大橋哲夫さんがお亡くなりになられ、平成25年10月27日、妙雲寺で葬儀がおこなわれました。
平成29年、八峰苑は更地となりました。
塩釜に2か所ある「指湯」(国道沿の指湯のみ残っている)は、八峰苑のご主人が作成されたもので
指湯を清掃されている時に、通りがかりに立ち話をしたのが最後となってしまいました。
塩原・ひかる会の副会長としても活動されていました。
栗の木をくり抜いた木管と、玉子湯。
箒川と甘湯沢の合流点に位置していた八峰苑
塩釜温泉バス停前と塩湧橋下の2カ所にあり、
立ったまま利用するタイプと、木製のベンチに座って利用するタイプ。
2005年10月に「塩湧会」のボランティアによる手作りで設置。
木をくり抜いた指湯は八峰苑のオーナーが作成。
箒川沿い指湯は、2015年9月、消失しました。
門前の須巻坂から、市道門前・須巻線を進むと、袖ケ沢で、市道袖ケ沢線と繋がり、遊園橋に至ります。
須巻坂の始点の薬師如来の説明に「万人風呂」の名前が出てきます。
「かつて須巻には通称「万人風呂」と呼ばれた遊技場や釣り堀を備えた大浴場があり、
塩原を代表する行楽地でした。」(塩原温泉「十三石仏巡り」パンフより)
須巻坂を進むと左手に、閉館した「寿満喜荘」がひっそりと佇んでいます。