田山花袋肖像(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
明治4年12月13日〜昭和5年5月13日(1872年1月22日〜1930年5月13日)
○ 『温泉めぐり』田山花袋
○ 「温柔郷」と「温泉郷」
○ 大町桂月
○ 大町桂月歌碑 (門前 古町)
○ 大町桂月墓 (雑司ヶ谷霊園)
○ 塩原描写(田山花袋)
○ 田山花袋文学碑(大網)
○ 西長岡温泉 (群馬)
○ 田山花袋居住地(新宿区内藤町1)
○ 田山花袋と丸善二階の棚(日本橋丸善)
○ 田山花袋終えんの地(渋谷区代々木)
○ 田山花袋之墓 (多磨霊園)
田山 花袋 1872年1月22日(明治4年12月13日)−1930年(昭和5年)5月13日)
栃木県邑楽郡館林町(群馬県館林市)出身。
初版には凡例(まえがきや序文に相当)がありました。
こう記しています。
「温泉めぐりと言ふけれども、実は温泉ばかりではなく、
温泉を中心にした日本の風景や地形や名勝の描写を心懸けたのが本書である」
また、当時の博文社の広告ではこのように記されています。
「田山花袋君著 温泉めぐり
日本の温泉を描いて、
これほど忠実に眼の前に見えるやうな本はこれが始めてです。
それに温泉ものものばかりではない、
温泉に行く途中の山や川や名勝や、
さういふものまで詳しく親切に書いてあります、
ことに著者一流のすぐれた文章の筆致は、
読者に芸術的気分の横溢せるのを感ぜずには
置かないであらうと思ひます。
温泉の静かな気分に浸りながら、
これを読んでも興味は尽きないやうな本です。
大方君子の御一読を乞わずには居られません。」
<「温泉郷」を最初に使用したのは大町桂月である>
<「温泉郷」を普及・定着させたのは田山花袋である>
「温泉郷」の表現は、田山花袋が「温泉めぐり」(博文館
大正7(1918)年)で、
塩原を温泉郷と評したことから、普及・定着しました。
実は、この9年前に、大町桂月が「行雲流水」(博文館 明治42(1909)年4月)の中で、
「吾妻一郡は、温泉郷といふべき哉」と、すでに温泉郷の表現を使っています。
田山花袋は、東山温泉を温柔郷と表現しています。
大町桂月が「一枝の筆」(大町桂月著 今古堂 明治40年9月)の「常磐の山水」の項目の中の
「八 湯本温泉」で、「温柔郷」をすでに使用しています。
「八 湯本温泉
濱街道唯一の温泉場、兼ねて唯一の温柔郷たる湯本温泉は、小山の間にある別天地也。」
ちなみに、田山花袋は明治32年、博文館に入社しています。
「書斎における著者」「庭前旅装の著者」(自然の詩趣 大町桂月 日本書院 大正7年 国立国会図書館蔵)
大町桂月の旅装は、どことなく若山牧水の旅装に似ています。
<大町佳月と塩原>
大町佳月が明治42年(1909)4月に「行雲流水」を出した時点では、塩原には3度訪れています。
3度目は、枕流閣丸屋をはじめとし、福渡はどこも客で一杯だったので、
古町の楓川楼に投宿し、塩の湯の玉屋に行き酒の歓待を受けています。
丸屋はお気にいりの宿のようでした。
短編小説「塩原新七不思議」を書いた時は、大正9年5度目の塩原訪問で和泉屋に投宿しています。
ようこそ文学散歩(塩原文学研究会)によれば、
【元湯】えびすや【門前】宮田屋(注:塩原温泉ホテル)【古町】米屋(注:ホテルおおるり)にも投宿。
「山水めぐり」(大町桂月 博文館 大正8年)も案内書のシリーズ物です。
「名にし負う箒川原にゆあみして 心のちりもはらはれにけり 桂月」
「塩原温泉文学散歩 大町桂月歌碑
名にし負う箒川原にゆあみして 心のちりもあらわれにけり
高知市桂浜に生まれ桂月と号した大町芳衛は酒と旅を愛し
全国に足跡と共に「一蓑一笠」「行雲流水」「日本の山水」等の名著を
のこされたが、特に塩原を愛好され来遊数回に及んでいる。
碑の歌は大正8年の遊詠である。
塩原町文化協会 」
「名にし負う箒川原にゆあみして 心のちりもはらわれにけり 桂月」
「昭和五十九年秋 塩原渓谷歩道完成記念」
※大町桂月の墓は、雑司ヶ谷霊園にあります(こちらで記載)。
「山へ海へ」田山花袋 春陽堂 大正6年(1917)の「塩原の谷」の項
「塩の湯も静かで好い。明賀屋といふのがあった。そこは私は好きだ。」
塩の湯の明賀屋を「私は好きだ」とストレートな表現です。
「一日の行楽」 田山花袋 博文館 大正7年(1918)
「よく行って泊まった。昔書いた「梅やの梅」といふ私の小説があるが、
これは松屋の松で、その時あつた材料をいくらか取って書いて見たものである。」
田山花袋は、福渡の松屋が大のお気に入り。
「湖のほとり」田山花袋 天佑社 大正7年(1918) 「那須と塩原」の項
田山花袋一家は、塩原軌道と馬車を利用して、塩原に向かいます。
「妻は持って来た菓子を提籠の中から出して、それを自分でも食ったり、男の児にもやったりした。」
こんな描写があるのは、妙に壺にはまります。
「温泉めぐり」田山花袋 博文館 大正7年(1918)
「七一塩原」
「塩原は有名な温泉郷である。山が美しく、渓が美しい上に、温泉が到る処に湧き出している。
福渡戸、古町、塩の湯、皆な行って浴すべしである。
私の考えでは、箱根、塩原、この二つが都会の人たちの行って浴するのに最も適したものであろうと思う。
無論、設備や交通の便に於いては、これ、彼に及ばないこと遠しと言わなければならないけれども、
早川と箒川とを比べては前者は決して後者の匹敵ではなかった。」
「湯沢噴泉塔」塩原ではありませんが、マニアックです。今でも温泉マニアしか行かないでしょ。
「これらの山奥の温泉、冬は全く戸を閉めて浴客もないような温泉、
そのまた更に山奥に処々に散在している温泉を私はおりおり頭に描いた。
岩代の五色温泉なども確かにその一つである。日光の裏山の川俣温泉
などもその一つである。つづいて私は嘗て晩秋に行ったことのある
栗山の奥の湯沢の小さな谷を創造した。あのめずらしい湧泉はどうしているであろうか。
湯が石灰質を多分に持っているので、吹き出す穴がいつともなく細長い管になって、
運が好いと、それが二、三尺の高さになったところから湯の吹き出している
奇観を見ることが出来るのであるが、私の行って見た時にも一尺ほどの
高さを持っていたのであるが、今は、冬はどうなっているであろうか。
こう思うと、深い深い山の雪が歴々と私の眼に映って来るようにな気がした。
熊の跡のボツボツと黒く印せられる山の雪が、または猟師が積雪を去って幸いとして
山の峰から峯へとそうした獣の跡をたずねて行くというような
世離れた光景が・・・・・。」
「田山花袋紀行集第3号」(田山花袋 博文館 大正12年(1923))「海と山と」中「日光と塩原」の項
田山花袋は、昔、小説「梅屋の梅」を書いた福渡の松屋に泊まるつもりでしたが
馬車の他の乗客が塩の湯に行くので、一緒に塩の湯に行き、止やむを得ず一夜を過ごすと記しています。
明賀屋はお気に入りで、塩の湯に4,5日泊まったことがあると記しています。
「東京に近く、好い温泉をきかれた時、一番先に、先づ箱根と答へた、
次に塩原と答へた。そしてその次に伊香保と答へた」
「塩原の谷は始めて訪ねて行ったものを驚かさずには置かなかった。
単に渓谷としては日光の大谷の谷もこれに及ばず、箱根の早川の谷もまたこれに及ばず、
木曽の峡谷もまたこれに及ばず、耶馬の渓もまたこれに及ばず、球磨、富士、天龍、
それは舟かぢを通ずると通ぜざるとの別はあるにしても、矢張りこの塩原の箒川の谷には
及ぶべしとも思はれなかった。」
この文は、田山花袋文学碑(大網)に刻まれています。
「塩原渓谷歩道やしおコース」入口となっている箒川ダム園地に、
塩原街道開通百年を記念して建てられた「田山花袋文学碑」があります。
「田山花袋紀行集第3号」(博文館 大正12年(1923年))「海と山と」中「日光と塩原」の項が、
文学碑に刻されています。
「塩原の谷は始めて訪ねて行ったものを驚かさずには置かなかった。
単に渓谷としては日光の大谷の谷もこれに及ばず、箱根の早川の谷もまたこれに及ばず、
木曽の峡谷もまたこれに及ばず、耶馬の渓もまたこれに及ばず、球磨、富士、天龍、
それは舟かぢを通ずると通ぜざるとの別はあるにしても、矢張りこの塩原の箒川の谷には
及ぶべしとも思はれなかった。
「日光と塩原」 より。」
田山花袋は、
温泉としては先ず箱根、次に塩原としています「日光と塩原」。
「東京に近く、好い温泉をきかれた時、一番先に、先づ箱根と答へた、
次に塩原と答へた。そしてその次に伊香保と答へた」
渓谷としては箱根の早川より、塩原の箒川を第一としています「温泉めぐり」。
「早川と箒川とを比べては前者は決して後者の匹敵ではなかった。」
○西長岡温泉跡 北長岡地区集会所(太田市西長岡町1425)の北
田山花袋は、温泉めぐりで西長岡温泉を推奨しています。
「温泉周遊.東の巻」(田山花袋著[他] 金星堂 1922)では、
冒頭から4ページにわたって西長岡温泉について記載しています。
「夕日影 長くさし入る 山合の 春のいで湯は のどけかりけり」と歌も詠んでいます。
「三府及近郊名所名物案内」(日本名所案内社大正7年)の「西長岡鉱泉と長生館」の項目によると、
明治21年に内務省が島田技師を派遣し、源泉調査の結果、学術上良好な成績を証明、
四季の温浴に適すると発表したとのこと。
西長岡温泉について色々な本に記載がありますが、
「上毛の温泉 群馬県衛生協会、 群馬県温泉振興調査会
編 慶文堂 大正15」
が分析も掲載され詳しかったです。
田山花袋は、明治39(1906)年に当地に移り住み、昭和5(1930)年に60歳でこの地で亡くなりました。
<標柱>
「田山花袋終えんの地」「平成二十五年度渋谷区教育委員会」
(説明文)
「田山花袋は明治四年(一八七一)十二月に群馬県館林で生まれました。本名を録弥といい、同三十九年十二月にここに移り住みました。昭和五年(一九三○)五月に六十歳で亡くなるまでの間に、「布団」「田舎教師」をはじめ多くの作品を残しました。」
※田山花袋が生まれた時は、群馬県館林ではなく、栃木県館林町でした。
宇都宮県と統合する前の旧栃木県は、現在の群馬県の一部を含んでいました。
田山花袋の墓は、東京都の多磨霊園にあります。
薄ピンクの墓石に、島崎藤村筆「田山花袋墓」と刻まれています。
裏面は田山花袋の戒名が刻まれているようですが読みとれません。
墓所左側に「田山家之墓」が建っています。