○ 天海大僧正銅像 日光市上鉢石町 ○ 勝道上人像 日光市山内
○ 天海墓所「慈眼堂」 日光市山内 ○ 勝道上人墓所/開山堂 日光市瀧尾
○ 天海僧正毛髪塔 台東区上野公園
○ 開山堂(両大師) 台東区上野公園
○ 天海影前燈籠 台東区松が谷
○ 天海大僧正像 川越市喜多院
○ 会津高田に残る天海大僧正の史跡
・慈眼大師御誕生地の碑
・天海大僧正石像
・護法石
・天海大僧正両親の墓(龍興寺)
・天海大僧正御手植檜
「家康天海対座図」(東京府史行政篇 第1巻 東京府 昭和10年)
狩野探幽の画による「家康天海対座図」です。
寛永寺子院青龍院が所蔵していましたが、戦災で焼失しています。
「磐裂霊水」(いわさけれいすい)の場所に、天海大僧正銅像があります。
(案内板より)
「天海大僧正(慈眼大師)銅像
天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。
当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。
家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、
東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。
天海は、寛永20年(1643)108歳で大往生した。
この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。」
輪王寺の表参道を行くと、輪王寺三仏堂(保存修理中)を背景にして、
日光山の開祖、勝道上人の銅像が立っています。
台座の黒がらす石の重量は32tもあります。
天海の墓所「慈眼堂」(輪王寺境内)を目指します。
3代将軍・家光廟「大猷院」(たいゆういん)の受付にて、300円を用意し
「天海の墓所の慈眼堂に参拝したいんですけど」と告げると
「現在立ち入り禁止となっています」との申し訳なさそうな返答。
大震災後、個人の参拝はできなくなりました。
大猷院
寛永寺清水観音堂の裏に、本覚院跡があります。案内標識が英語です。
本覚院住職晃海僧正 (初代寛永寺執当) が天海の供養塔を、後に義海が毛髪を納めて供養。
台東区教育委員会の説明板によると、本覚院伝来の毛髪と記載されています。
英文の説明だと、
天海の供養塔が建てられ、後に、天海の髪の束を納めるため2つ目の供養塔を建てたとあります。
天海の髪の束って、いつ頃の髪なんでしょうね。
A pagoda to commemorate him was built at this site,
and later, priest of Hongakuin buit a second pagoda
in order to house a lock of his hair.
毛髪塔の後ろに、立派な供養塔があります。
【説明板】
「天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)
台東区上野公園1番
天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。
天文5年(1536)に奥州会津群高田郷(福島県)で生まれた。
11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、
さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。
のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、
徳川家康の知遇を受けた。
元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、
合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。
その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、
江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。
寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。
遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。
後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。
平成15年3月 台東区教育委員会」
<開門>
普段は鉄柵が施錠されていますが、正月に寄ったら開門されていました。
中に入って石燈籠等を確認。鉄柵は松坂屋が寄進されたようです。
石燈籠2基は、「厳有院殿 尊前 延宝九年五月八日」「慈眼大師毛髪等寶前」と刻まれています。
徳川家綱霊廟に奉献された石燈籠が転用されています。
天海僧正の像を安置する堂として建立。「開山堂」または「慈眼堂」と称しました。
その後、慈恵大師良源の像も安置したため、一般には「両大師」と呼ばれるようになりました。
使われていない手水に、天海が用いた「二引き両」「輪宝紋」が並んでいます。
二引き両が、灯籠、手水、瓦、柱、鰐口(賽銭箱のところの平たい鈴)など
至るところに「これでもか!」というぐらいあります。
葵の紋のある銅灯籠ですが、ここにも二引き両があります。
銅灯籠は、大猷院(家光公)霊廟に奉納されていたものです。
(なぜ二引き両が刻まれているの?)
本堂の屋根には菊の紋もあります。
開山堂(両大師)の参拝は16時まで。時間になると閉門します。
(参考)二つ引両
天海は「二つ引両」「輪宝紋」の家紋を使用。
「二つ引両」から一般的にイメージするのは足利氏であり、
天海存命中から、足利氏系の人物ではとの風説がありました。
<木造天海僧正座像>
平成元(1989)年9月4日午前3時頃、開山堂の本堂から出火、本堂北側にある奥ノ院など約650平方メートルを全焼しました。この火災で奥ノ院に安置されていた「木造天海僧正坐像」(江戸初期の作品、東京都指定有形文化財)を焼失しました。
上野消防署は、消防車両45台で対応と記録されている大火災でした。
天海僧正座像は、東京都の文化財の指定は解除され、記録は見当たりませんが、
「東京市史稿 市街篇第四」(東京市 昭和3(1928)年 国会図書館所蔵)に貴重な写真が掲載されていました。
喜多院山門右手に、「天海大僧正像」があります。
会津美里町観光協会のサイト、現地教育委員会説明板からまとめました。
会津みどり農業協同組合高田総合支店の場所に、天海の生家である舟木家の屋敷があったとされ、
JAの駐車場に「慈眼大師御誕生地」石標が建立(大正13年)されています。
輪王寺門跡大照円朗大僧正の筆による刻字。
斜め向かいの公民館前庭に天海大僧正石像が見えます。
生誕地の斜め向かい、会津美里町公民館の前庭に立つ天海大僧正の石像。
ライオンズクラブにより建立(昭和53年)。
舟木景光夫妻が子の生誕を喜び、屋敷地内に祀ったといいます。
天海大僧正が太陽を拝んだ石とも伝えられ、「天一」の陰刻が残ります。
2011年6月に屋根が設けられています。
舟木兵太郎(天海大僧正)は、天文5年(1536)元旦に生まれました。
8歳(11歳の記載もあり)の時、高田城の筆頭家老である父が暗殺され、
仏門の道へと飛び込み、その際に出家したのが、龍興寺であるといわれています。
11歳の時に出家し『随風(ずいふう)』と法名を与えられました。
(54歳の時に『天海』と名を改めるまで、随風という法名で活動)
14歳のときに諸国に修行に出て、
下野国宇都宮の粉河寺では僧正皇舜(こうしゅん)を師として教えを受けました。
1560年には足利学校に入り、4年間学びます。
龍興寺本堂の前に「浮身観音八葉堂」が建てられています。
「永禄2年(1559)に船木兵太郎(後の天海大僧正)が12歳の時、
霊夢によって浮目というところの水田より土仏観音像を発見。
後にこの土仏を模して木造の観音像をつくり、胎内に土仏を納め祀ったとされています。
御詠歌「浮き身をば 助け給へや観世音 みちびき給へ みだの浄土へ」」
(会津美里町HPより引用)
<天海大僧正両親の墓> 会津美里町字龍興寺北甲2222-3(龍興寺内)
「天海僧正両親の墓」町指定史跡(昭和43年2月22日指定)。
「墓地内に五輪塔2基がある。大正4年に黒板、辻両博士の調査で発見確認された。
当寺は天海縁の寺であり、また天海誕生地と伝えられる場所も近くにある。」(説明板より)
2基の五輪塔と、その間に、後に建てられた「慈眼大師両親墓」など2本の石柱があります。
五輪塔には「景光」の名が微かに残るとありますが、読みとれませんでした。
<舜幸法印の墓>
龍興寺境内、八葉堂の南側にある歴代住職の墓域です。
5基並ぶ宝筐印塔の中央が、天海大僧正を得度させた第29世弁誉舜幸法印の宝筐印塔。
伊佐須美神社本殿の東側に、天海大僧正が永禄元年(1558)に植えたと伝えられる
「天海大僧正御手植檜」があります。