芭蕉句碑(翁石)が那須温泉神社にあります。
「温泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉りて、両神一方に拝まれさせ給ふを、
『湯をむすぶ誓も同じ石清水』 翁」(曽良随行日記)
翁石に「湯をむすぶ誓も同じ石清水」が刻まれています。
戦前の温泉案内書には、たいてい「翁石」と紹介されています。
横から見たら、翁が座っているように見えるとのことです。
色々な角度から見て、ようやく背中を丸め、頬杖をついてたたずむ翁をみつけました。
松尾芭蕉が2泊した、「湯本五左衞門宅跡」(東和泉屋)は現在公民館が建っており、案内板があります。
「松尾芭蕉(46歳)が、弟子の河合曾良を伴い「奥の細道」の途中、
元禄2年(西暦1689)6月4日高久の里より湯元へ向かい、
湯元の五左衛門方に2泊ほどしましたが、この地が宿泊地跡です。
湯を結ぶ誓いも同じ石清水 芭蕉
那須町商工会湯本支部」(案内板)
参考「芭蕉の足湯」(休止中)
芭蕉宿泊跡地にあることから「芭蕉の足湯」と名付けられています。
湯川右岸に源泉があります(民宿ほりこしと民宿さとうの間)。
元湯親湯会が利用している源泉で、湯量は豊富ですが温度がちょっと低く
「滝の湯」の木升かぶり湯・カランに使用されています。
源泉は勾配で湧出地からそのまま下って、湯川をまたいで滝の湯へ。
滝の湯は「御所の湯」「かぶり湯源泉」使用と、ぜいたくな湯づかいです。
その滝の湯のオーバーフローが芭蕉の足湯(冬は閉鎖)で利用されています。
2011年4月に、配管や看板設置など工事があり(看板できてわかりやすくなりました)、
芭蕉の足湯はオーバーフローではなく直源泉になったようですが、休止中でカラ桶です。
「湯をむすぶ誓も同じ石清水 芭蕉」と刻まれた板が浴室に向かう階段下に祀られています。
浴室に行くとき、見落とす場所にあり、3度目の訪問で、ようやく句板に気づきました。
湯量の調整だけでまめに温度調整されているので快適に入浴できます。
清水屋のサイトには、
「当旅館は芭蕉一行が2宿したと伝えられる「和泉屋」敷地の一部であり、句の由来でもあります」
「和泉屋」「清水屋」の屋号は、「湯をむすぶ誓も同じ石清水」の清水に由来します。
HPでの記述は間違いではないものの補足が必要なので、後段で解説します。
<和泉屋>
安政の山津波後、湯宿は高台に移動しているので、正確には芭蕉宿泊地は公民館のところです。
芭蕉の泊まった五左衛門方の屋号が東和泉屋で、和泉屋の分家でした。
井伏鱒二が「奥の細道」のあとを巡る旅行記、
「奥の細道」の杖の跡(「別冊文芸春秋」30号 昭和27年10月)によると、
井伏鱒二は車の運転手に芭蕉の泊まった宿に連れて行ってくれと頼みますが、
その宿は廃絶しており、代わりに芭蕉の泊まった宿の本家の和泉屋に案内されます。
和泉屋の主人は温泉神社の神主を兼ねており、
つい2・3日前に温泉神社の倉で偶然発見した版木を刷り上げたところ
安政の山津波で20軒全滅する以前の地図だったとのことで、井伏鱒二は地図をもらいます。
その地図では、芭蕉の泊まった東和泉屋は、殺生石のある沢から流れ出た湯川の左岸の御橋たもとすぐ下手で、
対岸の差し向かいに「はりま」(和泉屋の先祖)があると記しています。
「和泉屋」は、昭和61年(1986年)に廃業、「清水屋」が買取ります。
フロントに向かって右手のL字建物が和泉屋の敷地だったところです。
明治35年発行の温泉案内書に掲載されていた、和泉屋の広告を紹介します。
明治の温泉案内図を見ると、東泉屋(東和泉屋か?)が見えます。
扇屋総本店に、まんじゅう地蔵と石板碑があります。
正面「ここ菓子処扇屋」
右面「湯をむすぶ 誓も同じ 石清水」