元々は、旧大利根町の高齢者福祉センターだったので、高齢者の方々の利用が多いです。
源泉名「童謡のふる里 おおとね温泉」等張性温泉
影響を与える事項は「加水なし、加温、循環濾過なし、塩素消毒」
かけ流しかと思いましたが、塩素投入はあります。
ガス発砲がありますが、タンクでガスを抜いています。
<久伊豆大明神/騎西大明神>
「江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守であり、
騎西領48箇村の氏神でもあって、広い地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。
このことから、各地に久伊豆社と称する御分霊社が数多く建立されることともなった。」(玉敷神社ホームページより抜粋)
<騎西大明神の神湯>
「十方庵遊歴雑記 初編 巻之中」(釈敬順[他] 江戸叢書刊行会 大正5 江戸叢書
巻の3)に、
「第五十九 騎西大明神の神湯」の記載があります。
玉敷神社に「明神の湯」と称する御神湯(浴場)がかつて設けられていました(戦後まもなくまで)。
「騎西町の旅店に逗留して湯治する人少なからず」で、
神湯入湯時のきまりは、風呂の縁に腰掛けないこと、つばを吐かないこと、歌わないこと。
入浴料は賽銭で、風呂の維持に充てられました。
風呂はなくなりましたが、御神水は健在で、毎月1日がお水取りの日となっています。(毎月1日7:00-16:30)
御神水は、無味無臭で、入浴するには浴感はなさそうなので、飲用にしました。
(説明板)
「御神水のいわれ
この「御神水」は江戸時代寛文年間(1661〜1673)に掘られたと伝えられる古い井戸から汲出されています。昔から霊験あらたかな「薬水」として「お水」と呼ばれ尊重されて、近郷の多くの人々が、お茶や炊事の用に、更にはお風呂用にと、折に触れて『お水貰い』に訪れておりました。
また、戦後間もないころまでは、この「お水」を沸かした「御神湯」と称されたお風呂、入浴料が任意の「湯治場」が現在の社務所裏手に在って、持病や農作業の疲れを癒す人々で四季を通じて賑わっていました。」
<埼玉県ふるさとの森>
(説明板)
「騎西町玉敷神社社叢ふるさとの森 昭和57年3月18日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
玉敷神社は、この地方を開拓した出雲系の人々により千数百年前に建立されたと伝えられる延喜式神名帳にも載る歴史ある神社です。当地は、水田地帯に位置しているため、まとまった樹林に乏しく、この社叢は、地域住民の散策の場としてもなじみ深い鎮守の森となっています。
林相としては、主に、クスノキ・イチョウ・ケヤキ・スギなどの樹木から構成されています。
昭和58年3月 埼玉県」
<玉敷神社の社叢林と植物群落の遷移>(平成7年2月騎西町)
<一之鳥居・社号碑>
(説明板)
「玉敷神社
平安時代初期に公布された「延喜式神名帳」にその名を載せる古社である。
当社に伝わる江戸中期の記録によれば、元は正能地区にあったが、上杉謙信の関東出兵の際焼失した。その後、一時根古屋の騎西城大手門付近(現在の前玉神社)に移ったが、城内でたびたび出火するため、類焼をおそれて、この地に遷座したという。
当社はかつて、久伊豆明神とも称し、元荒川流域に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在とも言われている。
社叢は地域内の社寺林等の核的存在であり、当地方の極相林を示すカシ・スダジイを中心とする林となっており、数多くの動植物に恵まれている。」
<二之鳥居>
<三之鳥居>
三之鳥居と、手前に手水舎(寛文10(1670)年)。
<拝殿>
<狛犬>
筑波山騎太々講中奉納の狛犬(大正8(1919)年)。
<神馬社(お馬様)>
雌雄2頭の木製の神馬像があります。
<旧河野邸>
玉敷神社の宮司、文学博士、国学者で神道学者、國學院大学学長だった河野省三氏邸の跡地です。
「河野省三先生経歴板」「河野省三先生石碑」があります。
<玉敷公園>
玉敷神社神苑。現在は玉敷公園として整備。藤の名所です。