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 檜枝岐村


○檜枝岐村/平家落人伝説

 桧枝岐村は、人口614人(平成27年)、日本一人口密度の低い村です。

 平家落人の伝えが残ります。
 「安達地方広域行政組合」が安達地方の民話を紹介していて、
 その中の「敦盛秘話」として、平家落人の伝えが記されています。

 概要は、
 「一の谷の合戦で、平敦盛は熊谷直実に首を取られました。
 ーここまでは平家物語にも記されています。ここから先が伝話です。ー

  白拍子の麗御前は、敦盛の子を身籠もっておりました。
  敦盛の死を知った麗御前が自害しようとしたところ、源氏の大将佐藤忠信の家臣小槻隆国が自害をとどめ、
  逃げ延びることをすすめました。

  その後麗御前は従者とともに、南会津の桧枝岐村まで逃げ延びて、
  敦盛の子を産み、敦盛の一宇をとつて、小敦と命名しました。

  麗御前は、小槻隆国が隣国に住んでいることを想い、村人が止めるのも聞かず、
  従者を連れて、安達の庄近くに来ました。

  安達の庄も源氏の勢カ下であることを知ると、岳街道わきに庵を作って住みました。

  安達の庄に帰った小槻隆国は、麗御前親子が来ていることを知り、親子二人の面倒を見ていました。
  しかし、鎌倉幕府の知るところとなり、討手を向けられて、三人は最期を遂げたのでした。

  里の人々は、三人の死を弔い塚を作って供養しました。」

  そして、生き残った従者がその後、檜枝岐へ戻り平野の姓を名乗り今に至るというのが言い伝えのようです。

  桧枝岐村の平野姓の方々は、平敦盛の子の平小敦の末裔ではなく、
  麗御前の従者の末裔となるので、伝説でも平家落人ではないようですね。

  一ノ谷の戦いは、壇ノ浦の戦いの前年で、
  麗御前が桧枝岐村に逃げ延びたのは、壇ノ浦の戦いの前となります。
  平貞能一行が塩原に草庵を結んだのも、壇ノ浦の戦いの前です。
  源平の戦いの真っ最中に、敵の本拠地へ逃れる行動をとっています。


燧の湯  檜枝岐村字上ノ台208-1 0241-75-2290

 檜枝岐村には農林水産省からの補助でつくられた「燧の湯」「駒の湯」の2つの公衆浴場と、
 温水プールを備えた「アルザの郷」があります。

 現在、どこでも入浴料500円に統一されています。
 (以前は、燧の湯600円→500円、駒の湯500円→500円、アルザ尾瀬の郷850円→500円)。

 「檜枝岐温泉4号泉」(アルカリ単純泉)が一番湧出量が多く、
 旅館・民宿・一般家庭に分湯と檜枝岐村での主流源泉です。

 「檜枝岐温泉5号泉」(単純硫黄泉)は、「燧の湯」のみで使用しています。
 施設オープン当初の「檜枝岐温泉2・5号混合泉」の古い木板の掲示がありますが、
 現在は、5号泉のみの使用です。

 影響を与える事項「加水、第4アンモニウムを使用することがある」
 硫黄臭がします。白い湯花が浴槽内で舞っています。良い湯です。
 
 朝6時から営業しています。
 
     

     

     

     

   


駒の湯  檜枝岐村字下ノ原839-1 0241-75-2655

 すいていて川沿いの雰囲気でのんびりできます。

 源泉名「檜枝岐4号泉」。檜枝岐温泉で使用されている主流源泉です。
 影響を与える事項「加水、加温、循環ろ過、塩素系薬剤・アンモニア塩使用」

 浴槽内湯の噴き出しがあり循環ろ過ありですが、湯口は源泉です。
 投入に見合った湯がオーバーフローしていきます。
 燧の湯と使用源泉が違い、硫黄臭は感じられない集中管理源泉です。

     

     

<露天風呂>

 露天風呂は、湯口の湯が止まって完全循環でした。

    

    


○万里姫像の柄杓の源泉  檜枝岐村下ノ原887-1

 万里姫像の柄杓の源泉が、檜枝岐村・歴史民俗資料館(観光案内所)前にあります。
 燧ヶ岳開山百年記念で、平成元年8月に建立。

 万里姫像の柄杓から檜枝岐温泉の源泉がこぼれているし、
 飲泉所だと思いこみますよ、でも分析書の掲示はありません。

 柄杓からこぼれる源泉受けに、足をつっこんで足湯にする雰囲気でもありません。

 掲示は「かつて尾瀬沼のほとりに住んだ万里姫は近くに湧く温泉で身を洗い温め雪のように白く
 モチのように柔らかな素肌美人であったと言い伝えられております。(略)
 あなたも一度つかって万里姫にあやかってみませんか」
 宣伝でした。

 檜枝岐村の民話「万里姫物語」(引用元サイト消滅)
 「鎌倉時代の始め頃、尾瀬沼を見下ろす丘の山小屋に呉作という若者が一人で暮らしていた。
 ある時呉作は公卿の亡骸を見つけ、丘の上に葬ってやった。
 しばらくして呉作は美しい姫と家来が熊に襲われているところを助けるも、
 姫をかばった家来は残念ながら亡くなり、また丘の上に葬ってやった。
 尋ね人を探しに来ていた姫は、呉作の家に身を寄せ冬を越そうとした。
 ある時呉作は、沼の近くで死んだ公卿の話をしたところ、姫は泣き崩れてしまった。
 姫は公卿の万里小路(までのこうじ)藤原秀房の娘・万里姫であった。
 傷心の姫を気づかううち、呉作は姫への思いを募らせてしまう。
 姫とはあまりに違いすぎる自分を悲しく思い、
 たまらなくなった呉作は死んでしまおうと沼に身を投げようとした。
 すると呉作の後を付いてきていた万里姫が制止したのだった。
 お互いの気持ちに気づいた二人は結ばれ、いつまでも仲睦まじく暮らしたのでした。」

     


そば処民宿・やなぎ屋  檜枝岐村字居平641 0241-75-2053 蕎麦

 裁ちそばを食べられるところは、いろいろとあって迷います。

 「まる家」は、観光客でごったがえしていたので、
 正面の「かどや」か横の「やなぎ屋」どちらにしようかと。
 「かどや」より、ぼろそうな「やなぎ屋」を選択。

 非常階段あがって2階の食堂部門へ。いろりに薪ストーブ、壁には熊の毛皮。
 裁ちそば定食(裁ちそば、山菜薬味 はっとう)を注文。

 はっとうは食べ応えがあっておいしいです。
 そばは10割なのによくつながっています、味はまぁ美味しいかな。
 寒冷な気候と短い日照時間で麦作も困難で、昔からつなぎは使えなかったのでしょう。

 「はっとう」の由来
  昔、諸国見回り役人が来村のおり、米の取れないまづしい村ではそばとはっとうくらいしかなく、
  おだししたところ、こんなうまいもの平民が食すのはもってのほかと、
  ご法度になったのが名の由来とされています。

    

    

    


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