○ 森ケ崎鉱泉
○ 森ケ崎鉱泉源泉碑
○ 魄光大尊霊碑
○ 鯉塚の句碑
○ 森ケ崎自治会
○ 森ケ崎バス停
○ 森ケ崎十字路
○ 森ケ崎本通り
○ 法浄院(森ヶ崎観音堂)
○ 森ケ崎海岸公園
○ 森ケ崎公園
明治10年、干拓がおこなわれ、「大森の崎」と呼ばれていたのが森ヶ崎となったといいます。
森ケ崎鉱泉は、明治32年8月に発見された鉱泉で、戦前までは東京近郊の保養地として栄えました。
<田山花袋の描写>
「森ケ崎と大森
(冒頭略)
森ヶ崎は、京浜電車の蒲田停留場から下りて、海岸の方へ十町ほど行く。ここも矢張新しく開けたところだが、世離れているのと、海が近いのとで、静かに一夜をすごしに行くものもかなりに多い。自動車の大きな目が夜の闇を破って通って行ったりする。旅館兼料理屋が多く、大抵はつれ込を目的にしているのである。
可人舎、養生館、光遊館、盛平館、森浜館などと言ふのがある。つれ込宿としては、どつちらかと言へば、安い方で、設備なども他に比べては劣っている。」
「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7年)より引用
掲載されている森ヶ崎海岸の写真を見ると、当時は松並木があったようですね。
<多くの文士>
大正4(1915)年、出版社「博文館」専属の車屋・小沼金治郎が旅館「大金」を始めました。
大金には多くの作家が執筆のため訪れました。
森ヶ崎水再生センターの正門・本館辺り、鉱泉病院の隣りに「大金」がありました。
「魄光山 大森寺」(通称:森が崎 題目堂)の境内に、
「森ヶ崎鉱泉源泉碑」と大田区教育委員会の説明板があります。
説明板より
「大田区文化財 森ヶ崎鉱泉源泉碑
明治三十四年(一九○一)に、森ヶ崎鉱泉の発見と泉効試験を記念して建てられた石碑である。もとは立田野旅館の側にあったが、現在地に移設された。
正面には泉効をたたえた詩文が刻まれ、背面には180余名に及ぶ建立発起人の名が記録されている。これらの人々は、おそらく鉱泉の開堀を発起し尽力した大森地区の有力者であったと考えられ、森ヶ崎鉱泉開堀当時の事情を伝える資料として貴重である。
森ヶ崎鉱泉は、同三五、六年頃には鉱泉宿ができはじめ、次第に東京近郊の保養地、臨海行楽地として栄えたが、太平洋戦争を契機として転廃業した。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
(表面)
「森崎鑛泉銘
森崎之間海埠耕壟厥有霊泉
□馬始湧官試其効村驚其異
設甃起亭澡身沫臓塩滷鐵漿
百疾是廖立石源頭茲銘其由
明治三十四年冬至日
朝鮮陸鐘允書」
裏面には、発見年と試験年、発起人と寄付人の名前がびっしりと刻まれています。
<全国温泉鉱泉ニ関スル調査>
「全国温泉鉱泉ニ関スル調査」(内務省衛生局編 内務省衛生局 大正12年)によると、
東京府には、鶴ノ温泉(奥多摩)、岩倉温泉(青梅)、森ヶ崎温泉の3つが掲載されています。
浴客者数を見ると、鶴の温泉と岩倉温泉が4〜5百人に対し、森ヶ崎鉱泉は5万5千410人と桁違いに多いです。
記載によると、泉質は弱食塩泉。
普通の掘井戸より湧出する鉱泉を、浴槽に汲み込むものにして、特別の設備なし。宿屋兼料理屋16戸。
浴用の効能の他、飲用の効能の記載もあります。
源泉発見は、農民が潅漑用水と参拝者用の手洗水を得ようと、無縁堂(現大森寺)の一角に井戸を掘ったところ
鉱泉が湧いたとの経緯ですので、内務省の「普通の掘井戸」から浴室に汲む込んでいたとの記述は妙に納得します。
鶴の湯温泉と岩倉温泉は、今も営業しています。
23区内では一番古い温泉だったわけです。
「水月ホテル鴎外荘」(閉館)が都内第1号認定温泉を標榜していますが、宿の創業は1946年なので、
東京府から東京都になっての第1号と理解します。
源泉碑の左の石碑です。
海辺には遺体がよくうちあげられ、江戸時代からこの地に無縁塚がありました。
無縁塚は、慶応4年、船橋の戦に敗れて漂着した幕臣の遺骸を葬ったものと伝えられています。
魄光の魄は魂という文字の裏字で、無縁の霊の総称の意味のようです。
事前調べでは、源泉碑の右に鯉塚があるはずですが、ありません。
駐車場の片隅に移設されていました。
鯉やボラを養殖する、森ケ崎養魚場にあった碑です。
鯉塚の句碑
「擬宝珠型 総高189cm。森ヶ崎の海岸近く、現在の大森第一中学校辺りに、大きな養殖場が経営されていた。
この鯉塚の句碑は大正7年8月に、この養魚場の池畔に鯉供養をかねて建てられたものだ。
句は、おそらく森ヶ崎鉱泉宿に遊んだ俳人が、養魚場の池の鯉の飛び跳ねる雄大な姿を句に詠んだものだろう。」
上記は、以下のサイトに全く同じ文が掲載されており、それの引用です。
デジカメ散策「大田区の史跡・歴史」 大田区の地名の由来
色々と句が刻まれていますが、判読できない。
森ケ崎鉱泉が存在したのは、現在の大森南5丁目です。
森ケ崎自治会と、自治会には名称が残っています。
バスの終点「森ケ崎」には、東京労災病院(大田区大森南4-13-21)と森ケ崎水再生センター(大田区大森南5-2-25)があります。
終点が東京労災病院なので、バスの往来が激しいです。
東京労災病院の職員宿舎が、戦前の旧鉱泉病院です。
十字路角に、「ゆで太郎 大森南店」(旧旅館華嬢館)があります。
信号渡った角にあるのが旅館「盛平館」のご子孫がそば屋を営んでおられたようですが、現在は、高齢者の在宅介護事業所です。
隣りの旅館「平盛館」のご子孫が営んでおられた米屋は閉店しています。
いつまで営業していたのか、コーヒーショップがあります。
バスの往来が多いです。
森ケ崎十字路から法浄院(森ヶ崎観音堂)の前を通る通りです。
かつては両端に旅館が並んでいたのでしょうが、昔の面影はありません。
「森ヶ崎観音 法浄院由来
大正の頃までは現在より北方の海岸近くの葦原の中に鎮座していた浪除観音堂であった。
森ヶ崎が保養地として栄えるに及んで森ヶ崎八景の中の一つと云われていた。
ニッ池のある公園の中に、昭和初期に有志の人々によって移築整備されて八重椿に囲まれた
二間四面の観音堂となった。この境内には、享保十九年(1734)の石佛(浄観世音)が祀られてあった。
その後昭和十三年八月二十日莉ヶ崎上空に於て旅客機と練習機の接触によって、八十五名の
遭難者の出た大事故が起り、その慰霊の為の地蔵尊及び位牌が当院に安置された。
しかし無住であった為に戦中戦後と荒廃してしまった。(以下略)」
<戦前最大の航空機墜落事故と森ヶ崎の観音>
以下、法浄院のサイトの「寺社にみる大田の民衆史」
からの引用の引用です。
「1938年(昭和13年)8月24日午前8時55分、日本航空輸送(株)のフォッカー機と、日本飛行学校のアンリオ機が森ヶ崎の上空で空中接触、フォッカー機は大森9丁目(現在の大森南3丁目、第四小学校付近)の山本ラッシュ(ネジ)製作所に墜落。一方のアンリオ機は森が崎(現在の大森南5丁目、森ヶ崎水処理センター付近)の民家の屋根に墜落した。両機の搭乗員は合わせて5名でしたが、救出しようとかけつけた工場従業員50名と住民数十名が機体に近づいた瞬間に飛行機のガソリンタンクが爆発。付近一帯は炎の海と化し、焼死体が続出しました。
この事故は最終的に死者85名、負傷者76名に達する大惨事となったのです。犠牲者のほとんどが巻き添えをくった地域住民でした。その後、墜落現場に近い森ヶ崎観音堂(法浄院)に「飛行機墜落死者大菩提也」と刻まれた慰霊の地蔵尊が建立されました。そして今でも8月24日には、観音講の人々によって供養が行われています。」
森ケ崎海岸に沿って、細長い森ケ崎海岸公園があります。
<水再生センター側入口>
ここはかつて森ヶ崎海水浴場があった場所です。
森ケ崎海岸は、高速道路とモノレールの橋脚の下となっています。
<大田区立大森第一中学校側入口> 大田区大森南5-6-5
ここはかつて森ヶ崎養魚場があった場所です。
<森ヶ崎養魚池>
昭和初期の温泉案内本に養魚場の写真が掲載されていました。
「療養本位温泉案内」(温泉調査会編 白揚社 昭昭12年)
<羽田可動橋> 大田区羽田空港1丁目
海岸公園を少し進むと、旋回構造の橋梁が見えます。
羽田可動橋は海老取川河口に架かる首都高速道路羽田線の旋回構造の橋梁です。
1990年4月羽田可動橋使用開始、1998年4月使用停止。
<下水放流口>
暗渠の川かと思ったら、水再生センターからの下水の放流口です。
森ヶ崎公園の下が、下水処理施設です。
<呑川河口>
森ヶ崎海岸公園の終端からは、呑川上流へ呑川緑道が続きます。
ここは、呑川が海老取川へ注ぐ、呑川河口です。
<藤兵衛橋>
藤兵衛橋から河口方面を見る。
東蒲中学校付近からの旧呑川は埋め立て、公園化され、
そこから糀谷地区の田畑に掘られていた藤兵衛堀と合流させ、呑川はほぼ直線の川となっています。
森ケ崎水再生センターの上部スペースを利用した区立公園です。
<下水再生水>
公園沿の道路にあるのが、下水再生水施設。井戸水のポンプがありますが、下水再生水で、飲めませんの表示。