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 新田浴場新田神社


新田浴場  大田区矢口2-5-12 03-3758-0540 14:00-23:30 8:00-11:00(日午前) 定休水曜

 商店街にあるアートなデザインの壁の銭湯です。
 横に回ってみると、高い煙突は見当たりません。

 下足箱は木札。入り口入って右手にフロント。左手に浴室。
 奥に進むとロビー。

 浴室は1週間ごとの男女入れ替え。
 サウナは追加料金なしで利用可能です。

 黒湯の浴槽が一つあります。
 温泉登録していないので、井戸水使用の銭湯の扱いですが、真っ黒の黒湯です。
 ブクブク泡風呂、溜め湯状態ですが、
 生源泉の蛇口があったので、桶にすくって頭からかぶりました。心地よい。

 近くには、新田義興公ゆかりの「新田神社」があります。

     

     

     

    


新田神社  大田区矢口1-21-23 03-3758-1397 HP

 新田義貞の次男新田義興公が正平13(1358)、矢口の渡で謀殺され、
 村人たちが新田義興の霊を鎮めるために墳墓を築き、その前に新田明神社が創建されました。
 破魔矢の発祥の地とされます(平賀源内が矢守として考案したとされます)。
 平賀源内は福内鬼外の号名で浄瑠璃「神霊矢口渡」として戯曲化し、
 最初は人形浄瑠璃で上演され、その後、歌舞伎にもなり人気を博しました。

「江戸名所図会 新田明神社 真福寺」

 左に「新田明神社」、右に新田明神社の別当だった真福寺が描かれています。
 門前の茶店では、矢を売っているのが見えます。
 本社の裏に「義興朝臣墓」が描かれ、墳墓の左前に石柱「矢口新田神君廟碑」が見えます。

    

「江戸名所図会 矢口古事」

 矢口の渡しで謀殺され新田義興の怨霊が遠江守を祟る様子が描かれています。

  

「絵本江戸土産 新田明神社」(広重)

 挿絵には、
 「矢口村に在り むかし新田左兵衛佐義興朝臣 矢口の渡しにて亡び その霊祟りをなすによりて神とあがむ
  従者十人をもこの向ふに祀りてこれを十騎の社といふ」
 とあります。

  

「東海道五十三対 川崎」(一勇斉国芳)

 矢口渡で戦う新田義興の家来たちが描かれています。

  

「新田義興の霊怒て讐と報ふ図」(歌川芳員 ボストン美術館)

 謀殺された新田義興の霊が雷を落としています。

  

「矢口新田神社の弓矢守」(寺社境内名物集)

 江戸時代の日本各地の寺社の名物品を描いた「寺社境内名物集」に、
 新田神社の弓矢守も描かれています。

  

<現在の新田神社>

 神社の外には長大な説明が続きます。
 社号標の文字は金塗です。
 社殿は明治神宮からの下付、神灯と手水舎は伊勢神宮からの下付です。
 御守、御神札、矢守と、種類豊富です。

     

     

     

   

     

<一つ引両>

 新田氏の家紋は「一つ引両」、足利氏の家紋は「二つ引両」。一本線と二本線の違いです。
 「一つ引両」の家紋が随所に見られます。

     

      

<御神木(欅)>

 樹齢700年に及ぶ欅です。

(説明板)
「御神木(欅)
 この樹齢七百年に及ぶ欅は過去に落雷や戦災によって、幹が大きく裂けているが、毎年新緑の季節には青々とした葉を繁らせる。また古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物)」が寄生しており、早春、淡黄色の小花が咲く。
 このために、この御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の霊験があるという古老の言い伝えがある。
 この神木の加護を戴くには、左側の鳥居より中に入り、できるだけ長く神木に触れて、霊気を感じ取って下さい。
 尚、鳥居への出入りの際には御一礼下さい。」

   

<手水舎>

 昭和50(1975)年に伊勢神宮より下付。
 手水石は昭和34(1959)年に造られたもので「一つ引両」が刻まれています。

 龍の口から水が出ていないのですが、近づくと水が出ます。
 上を見るとセンサーがあり、人を感知して水が出ます。

    

<御塚>

 平賀源内が矢守(破魔矢)を考案しています。

 「御塚
   社殿後部の塚は、祭神新田義興公の御遺体を埋葬した所で、
  直径約十五メートルの円墳である。
   この中に入ると必ず祟りがあるというところから「荒山」「迷い塚」などともいう。
   また、この御塚後部には昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、
  江戸時代に平賀源内がこの篠竹で、厄除開運・邪気退散の破魔矢「矢守」を作り、
  広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。
   爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与している。」

    

<矢口新田神君之碑> 大田区文化財

 延享3(1746)年に石城国(福島県)守山藩主松平頼寛が造立した石碑「矢口新田神君之碑」です。
 篆額の字は、頼寛の自筆で、撰文は儒者服部南郭です。(参考)「服部南郭墓

(説明板)
「大田区文化財 矢口新田神君之碑
 延享三年(一七四六)に石城国(福島県)守山藩主松平頼寛が造立した碑で、新田神社の祭神新田義興公の事績と神社創建と由来を記している。
 篆額の字は、頼寛の自筆で、撰文は儒者服部南郭、書は松下烏石(葛辰)である。
 本区に数少ない江戸期の記念碑として注目される。
   昭和四十九年ニ月ニ日指定  大田区教育委員会」

   

<新田大明神道標>

 起点から目的地に移された道標のパターンです。

 「新田大明神道標
  これは現在の第二京浜国道沿いに建てられていたもので、
  文化十四年(一八一七年)四月に麻布日下窪講中によって再建された
  新田神社への道しるべである。」

     

<力石>

   

<新田大明神大鳥居由来記>

 「新田大明神大鳥居由来記
  此処に保有する石材は、かつて武蔵新田駅前通りに新田神社一之鳥居として屹立せるものにして、
  昭和45年に下水工事の際、過りて笠木部を折損、倒壊の危険を生じたるにより、やむなく解体し、
  此処にほぞんするものなり。(以下略)」

    

<石華表之記(天保三年)>

  

<うなる「狛犬」>

 「うなる「狛犬」
   謀略を企てた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社付近に来ると、
  きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。
   しかし残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。」

   

<石の卓球台>

 「ストリートピンポンの舞台としてだけでなく、近所の人々が集まる場所として愛されることを願って作られた作品です。
  毎日(午後五時まで)無料でラケットをお貸ししますので、社務所に声をかけて下さい。
  希望者が多い場合には「三十分交替」でお願い致します。」

    

<歌碑>

  貞頼・義章歌碑

  

<靖国碑>

 矢口地区の英霊を顕彰。

  

<稲荷神社>

 江戸名所図会にも「稲荷社」が描かれています。

   


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