○ 走り湯
○ 走り湯神社
○ 走り湯足湯
○ 役行者座像
○ 走り湯 浜浴場
○ 伊豆山神社
○ 本宮社
○ 走湯山 般若院
○ 逢初橋
○ 秋戸郷跡
「拍手をば わがくろ髪に 送るなり 童めきたる 伊豆の走り湯」
「心の遠景」(与謝野晶子 1928年5月)
<走り湯の起源> 伊豆山温泉旅館組合の「走り湯の起源」より引用(HP更新で消失)
「走り湯の起源
走湯山は湯の湧き出る場所があり、走り湯と名づけられていました。
699年(文武3年)7月1日(旧暦5月25日)に、役行者小角(えんのぎょうしゃおづぬ)は、朝廷の役人に護送され配流の地、伊豆大島に向かった。伊豆大島に配流になったがじっとしていることができないので、島を抜け出しては浜辺を歩きまわり、富士山をはじめ近辺の山々を踏破した。
あるとき、伊豆山海岸から五色(赤白黄青黒)の湯煙があがっているのを目にした小角は、海岸に上陸し走り湯の近くに草ぶきの小屋を作り、湯滝を浴び、日金山や岩戸山に登り、神仏に祈る修行をした。その際、「無垢霊湯(むくれいとう)、大悲心水(だいひしんすい)、沐浴罪滅(もくよくざいめつ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と書かれた金色の文字が霊湯と共に流れ出たと言われる。この意味は、「これは、無垢の霊場である。菩薩の大きな慈悲の水である。この場に沐浴すれば罪が滅び、六根<六識を生ずる六つの感官。眼・耳・鼻・舌・身・意の総称>が清らかになる。」となる。」
<走り湯源泉>
走り湯の洞窟に入ると、ミストサウナ状態。サウナに入ると思って眼鏡をはずします。温まりますね。
走り湯源泉のもと湧出口には、赤い鳥居があります。1964(昭和39)年源泉は枯れて、
現在の走り湯は1970(昭和45)年に新たに掘削した動力源泉です。
工事とかで電源が落ちると、送湯はストップします。現在は自然湧出ではなく人工的に見せています。
日本でも珍しい横穴式源泉との説明がありますが、栃木だと川治温泉が横穴式源泉なので、こちらも珍しいですかね。
「走湯温泉湧出口 東郷吉太郎」
東郷吉太郎は、東郷平八郎元帥の甥。海軍中将。
伊豆山神社参道の伊豆山浜から16段目に走り湯神社があります。
裏に貯湯タンク、上に櫓と源泉施設があります。
「走り湯 由来記」「伊豆山走湯大権現」(天正10年)「伊豆山温泉全図」「慶応4年の写真」
「御汲湯図」「豆相人車鉄道(明治29年〜41年)熱海と小田原間25kmを6〜8名の客を乗せて、客車を3人の車夫が押しました。
「伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿」
展示が色々あり、興味がつきないです。
<うみのホテル中田屋>
伊能忠敬測量隊が宿泊した宿ですが、2019年8月閉館、2020年6月9日破産決定。
(営業時)
(閉館後)
物見台のような階段を上がったところにある足湯です。源泉は塩辛く、苦いです。
相模湾が一望でき、与謝野晶子が訪れた初島が見えます。
雨の時は、屋根が青天井なので、ずぶ濡れになります。
傘をさしても、座るところが濡れているので、雨天時は使えませんね。
1921(大正10)年1月、与謝野晶子夫妻は、伊豆山の相模屋(現;ニューさがみや)に宿泊し、
同宿の3人と、5人で、1月6日、相模屋前から船に乗って1月6日に初島を訪れ「初島紀行」を書きました。
富士急マリンリゾート→「与謝野晶子初島紀行」
1枚目 走り湯足湯から 2枚目 伊豆山神社 本宮社から
<ニューさがみや(旧相模屋)> 熱海市伊豆山601
与謝野鉄幹・晶子一行が宿泊。
当時は「千人風呂旅館 相模屋」
玄関横に源実朝の歌碑が建てられています。
「源実朝 大海の磯もとどろによする波 われて砕けてさけて散るかも」
走り湯足湯の下に、走り湯を発見したといわれる「役行者(えんのぎょうじゃ)」の座像があります。
役行者像は、かつては伊豆山海岸のほこらに祭られていましたが、
熱海ビーチライン(1965年開通)工事の際、当時のホテル水葉亭の経営者が敷地内に移し、保存してきました。
2017年5月14日に、現在地に移設され除幕式が行われています。
歩くなら伊豆山神社の参道を下りていきます。
逢初坂(あいぞめざか)の曲がりくねった坂道を下りていくと走り湯。
車なら国道135号線の赤い逢初橋の先にあるエッソSSを左折し、坂をぐるりと降りていきます。
熱海ビーチラインの赤い伊豆山橋が右手に見え、走湯橋を渡ると、走り湯の看板があるところに出ます。
熱海ビーチラインを利用すると、料金所で料金支払ってから、伊豆山港出口です。
伊東方面からですと、出口には料金所はないので無料です。
参道173段目が宮下・市道。173段目からちょっと上に「走り湯
浜浴場」があります。
参道220段目が国道135号。220段目からちょっと下が浜浴場。
源泉名「第二走り湯(伊豆山78号泉)」74.8℃ 成分総計10.72gの高張泉です。
塩辛く、苦みが強いです。総ヒ素が0.08mgとあったので、味見程度にとどめました。
影響を与える事項「加水、塩素」。
塩素消毒の掲示はありますが、浴室に入っても塩素臭はしませんし、
泉口、浴槽内も塩素臭はしないので、湯づかいは良いと思います。
シャンプーとボディーソープの貸出(無料)があります。
11番のロッカーは壊れていて、脱衣かごが入っています。
お近くの熱海偕楽園は、2017年3月31日、閉館しています。
伊豆山神社については、神社のHPを参照。
立派な赤鳥居は、小泉今日子さん奉納(2010年4月15日)。
鳥居は参道ではなく、車道にあります。
鳥居をくぐると本殿横に無料駐車場があります。
<温泉の守護神>
赤白二龍
説明板抜粋:
「赤白二龍は御祭神天忍穂耳尊の随神であり、赤は火を表し白は水を表す、
火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神であります。」
(説明板)
「赤白ニ龍の由来
伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」(鎌倉期に成立)に拠れば、当伊豆山神社の地底に赤白ニ龍交和して臥す。
其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り、温泉の沸く所は此の龍の両眼二耳並びに鼻穴口中なり(走り湯)。
ニ龍精気を吐き、赤白海水に交わる。二色浦(熱海錦が浦の名の由来)は此を謂ふなり。
赤白ニ龍は御祭神天忍穂耳尊の随神であり、赤は火を表し白は水を表す、火と水のちからでお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神であります。」
<龍神池>
龍神池補修寄付者の板があります。
頼朝と政子が愛を誓ったという腰掛け石です。
(説明板)
「頼朝・政子腰掛け石
伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝侯は、当伊豆山神社を崇敬した。
当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、当社でニ人はむすばれ、伊豆山の神様のカにより鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せました。
伊豆山神社」
(説明板)
「頼朝と政子の伊豆山参詣
霊湯「走り湯」を掌り、開運擁護の霊神として名高い伊豆山権現は、走湯大権現とも称する男体神と女体神の夫婦神である。その神前に夫婦で参詣し、莫大な利生を戴いた代表的人物に、鎌倉将軍源頼朝と北条政子がいる。
とりわけ政子にとり、伊豆山は頼朝への誠の愛を貫き夫のために祈り続けた聖なる地であった。『香妻鏡』には、それを政子自身が頼朝に向かって語る場面がある。それは、囚われの身となった静御前が、鶴岡八幡宮の神前で「しづやしづ…」と義経を慕う歌を詠じ舞いを舞ったときのこと。静御前の行為に激怒した頼朝を、政子はその場で次のように語って諫めた。「あなたがまだ流人として伊豆の国にいらっしゃったころ、あなたとの契りを知った父(北条時政)は、平家を怖れ、わたくしを閉じ込めてしまいました。でも、わたくしは闇夜を抜けだして、雨風を凌ぎつつあなたのもとへ参りました。石橋山の合戦の時には、伊豆山で、とりあなたを思い、生きた心地がしませんでした。あのころの私の愁いと、いまの静御前の心は同じですー」
政子の語る「愛の逃避行」は、真名本『曽我物語』に詳しい。それによると、闇夜をさまよい伊豆山に逃れた政子は、頼朝に支を使わして喜びの再会を果たした。二人はそろって精進潔斎し、伊豆山権現に詣で祈願を立てる。政子は頼朝にも増して熱心に、夫の宿願が叶うよう祈りを捧げた。その甲斐あって、やがて権現から、未来において頼朝は日本国の大将軍となり、政子も頼朝の後を継ぎ後家として日本国を知行するという夢告を授かる。
この頼朝と政子の「逃避行」は、じつは伊豆山権現への参詣と深く結びついた出来事であった。頼朝を慕う政子の心が伊豆山参詣という縁をつくり出し、二人で心をこめた祈願を立てたからこそ、ともに大いなる功徳を得ることができたのである。鎌倉時代に伊豆山権現の由緒を著した『走湯山縁起』には、伊豆山に参詣するものはだれでも、一切の災いからまぬがれ、福徳を得て極楽往生が叶うと約束されている。
頼朝と政子は伊豆山権現を介して、箱根権現や三島大明神、さらには富士の神々の加護を得て、夫婦二人三脚て東国の地からあらたな歴史を切り開いた。二人にとって伊豆山は、まさしく新たな時代への「出発の地」であった。そして頼朝の亡きあとには、政子は落髪して出家し、夢告の通り「尼将軍」となって頼朝が築いた幕府の礎を支え続けた。
伊豆山神社には、政子が頼朝の一周忌の供養のために、自らの髪を編み込んだ法華曼荼羅が、いまも遺されている。
文 阿部美香」
<こころむすび>
<白山社遥拝所>
ここから先に「白山神社」(20分)、「結 明神社」(20分)、「本宮社」(15分)
<源泉施設>
ハイキングコース入口に、源泉施設がありました。
<参道>
本殿前に説明板があります。
(説明板)
「伊豆山神社参道について
当、伊豆山神社はその参道のほとんどが階段であることから「歴史の証人になりませんか」の呼びかけで多数の参加者により平成二十二年二月十四日に神社参道階段の段数調査が行われました。
記
一、神社参道を、伊豆山浜から神社本殿前までとする。
ー、踊場の長短かかわりなく一段、段の高低にかかわらづ段のあるところは一段とする。
ー、宮下で横断する市道の段差は、階段としない
伊豆山浜 中継ポンプ場横階段踊場(起点)
走り湯神社 16段
宮下・市道 173段
国道 220段
市道 648段 バス停
宿の平 駐車場
鳥居前 657段
本殿前 837段 現地
調査参加団体
伊豆山神社宮司、伊豆山神社総代会、伊豆山連合町内会
熱海市議会議員有志、熱海市観光課・建設課、伊豆山漁業会
伊豆山勢奥会、伊豆山をおもしろくする実行委員会
伊豆山湯〜遊〜バスボランティアガイド有志
伊山温泉観光協会、伊豆山温泉旅館組合、伊豆山温泉組合
総勢三十名」
(887段目の本殿前の説明板)
「この階段を八百三十七段下ると当神社の御祭神が湧き出させている走り湯があります。
走り湯では、約七十度の源泉が洞窟の中で沸いている様子が間近で見られます。」
<伊豆山神社参道>プレート
階段数(全段数837段)
神社本殿から下り 189段目
伊豆山浜から上り 648段目
657段目が「宿の平」で、伊豆山神社の無料駐車場があります。
下りの参道には、湯導管が脇を通っています。
説明板によると、伊豆権現は、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏に組したため、豊臣秀吉によって全山焼き討ちとなっています。
栃木県の湯西川の僧兵も北条氏についたため、湯西川は全村焼き討ち、日光山は寺領没収となっています。
<サイの神様(道祖神)>
<大黒様の石象>
白山社遥拝所に掲示されていた本宮社までの参拝路の案内図によると片道55分かかります。
往復すると2時間かかるので、本宮へはぐるっと回って、クルマで行きました。
自動車学校のところを左折し七尾団地を左折、その先で右折し坂を上がると
本宮社の裏に着きます。
登ってこなかった参道が、海へ向かって続いています。
相模湾が一望できます。初島が見えます。
伊豆山浜からここまで歩いてくるのは、しんどそう。いつかはチャレンジする気は少々あるかな。
熊はいないから、鈴は必要なく安心して歩けるかな。
般若院は伊豆山神社の別当だった寺院で、明治の神仏分離によって、伊豆山神社内から現在地に移りました。
<般若院 足湯>
般若院寺務所入口にある足湯。
般若院共同浴場が取り壊され、足湯となっています。
足ふきのタオルが無料で用意されています。
<源泉>
「セーフティー温泉管理」が管理する源泉施設です。
法人(企業の研修所や保養所)に温泉を供給していると思われます。
※ 2021年7月3日午前10時半頃、逢初川沿いで、大量の土砂が斜面を海に向かって約2キロにわたり流れ落ち、
大規模な土石流が発生しました。被災された皆様にお見舞いを、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
国道135号に架けられた朱塗りの逢初橋は、1880年(明治13年)に建設されたもの。
逢初橋のたもとには北条政子が建てたという逢初地蔵堂があります。
<逢初地蔵堂> 熱海市伊豆山
国道135号にかかる逢初橋の手前の左の急な坂道に逢初地蔵堂(あいぞめじぞうどう)。
逢初地蔵堂は、源頼朝の長女大姫の延命祈願のために、政子が1184(元暦元)年に、建立したと伝えられています。
<太鼓橋(逢初橋)>
般若院足湯の前の消防団第4分団からの古道を下りていくと太鼓橋(逢初橋)があります。
(説明板)
「逢初橋の由来
治承二年(一一七八年)の夏、北条政子は親の定めた山木判官兼隆との縁談を嫌い、婚礼の夜に頼朝を慕って宴席を抜き出し、ここ伊豆山に逃れ、足川の地に隠れました。
当時、伊豆山の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝はその日伊豆山密厳院の院主で頼朝の師匠であった阿闍梨覚淵の坊にいましたが、知らせを受けて頼朝と政子が劇的な対面をしたのが逢初橋と言われています。
一般的には、伊豆山温泉入り口の国道一三五号線に架かる朱色の橋が逢初橋となっていますが、本当の逢初橋はここ御岳社の森に架かっている橋であるといわれています。
伊豆山温泉観光協会」
国道135号沿、ホテル水葉亭所有地内です。
「北条政子・源頼朝ゆかりの地」碑があります。
(国道反対側には馬頭観音がありました)
(説明板)
「秋戸郷(あきとのごう)
この地は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所で、秋戸郷と言われています。
治承四年(一一八○)八月ニ三日、源頼朝は石橋山合戦に挙兵しましたが、戦に敗れて阿波に逃れました。この間政子は、走湯山に身をひそめて頼朝の安否を気づかっていました。
九月ニ日、政子は、政子は伊豆山権現の別当文陽房覚淵(かくえん)の計らいで密かに熱海の秋戸郷(阿伎戸郷とも書く)に移されました。
秋戸郷は足川を南の境とする走湯山の神域東南隅にあり、浜の方からしか入れないうえ、船着場も近く、神域を後ろ楯に覚淵の保護も行き届き、平氏方の捜査をくらませることができました。
その日のうちに土肥実平の子遠平が、頼朝が安房に逃れるまでの経過を知らされたが、頼朝が船に乗ってからの事は分からないので、その夜の秋戸郷には喜びも悲しみも出る道がなかったのでしょう。
この年の十月七日、頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷をたった政子は、十ニ日、頼朝との再会を喜びあったと思われます。
「吾妻鏡」「熱海市史」ほかより 熱海伊豆山温泉 ホテル水葉亭所有地内」