○ 小菅御殿
○ 小菅御殿変遷
○ 松原通り(御成道)
○ 小菅稲荷神社
○ 小菅銭座跡
○ 水戸街道
○ 水戸橋跡地
○ 小菅八幡社
○ 観音院 (半僧坊)
○ 小菅万葉公園
○ 裏門堰親水水路/一茶と小菅
○ 西綾瀬稲荷神社(屋敷稲荷)
○ 五反野親水緑道/下山国鉄総裁追憶碑
東京拘置所の場所にかつて小菅御殿(千住御殿)がありました。
赤山街道が増田橋で日光街道に合流しての終点が小菅御殿です。
正門の横、電話ボックスの後ろの柵の中に、
「千住御殿遺物」標柱と、旧小菅御殿石燈籠があります。
(説明板)
「区登録有形民俗文化財
旧小菅御殿石燈籠 所 在 地 葛飾区小菅一丁目35番
登録年月日 平成元年(1989)3月20日
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元文元年(1736)7月、井奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。
寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確でありません。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました。
葛飾区教育委員会」
元文元年(1736)8代将軍徳川吉宗の命により、鷹狩の際の休憩所として小菅御殿が設けられました。
家重の養生所としても利用されました(将軍後継をめぐっての幽閉との説もあります)。
江戸城から小菅御殿へ向かう時は「小菅丸」で隅田川から綾瀬川へ上がり、水戸橋で水戸佐倉道に上陸し、
松原通りを通って御殿に入るのが通例であったと考えれています。
(小菅御殿へは、水路で行くことができるため、途中に多くのトイレを設ける必要がなく、
家重にとっては水路は楽な行程だったと思います。)
御殿は寛保2(1742)年に失火で焼失しますが翌年再建されます。
その後御膳所に格下げされ、寛政4(1792)年、伊奈氏の改易に伴い、寛政6年(1794)に取り壊されました。
跡地には文化4(1807)年に幕府籾御蔵が、天保3(1832)年に江戸町会所の籾蔵が建てられました。
安政6(1859)年には小菅銭座が設置され、慶応3(1867)年まで鉄銭を鋳造していました。
明治2(1869)年に小菅県の県庁が置かれます。明治4(1871)年小菅県が廃止されます。
明治5(1872)年、日本で最初の洋式煉瓦製造所「盛煉社」が設立されました。
英国人技師ウオートルスの指導により、良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、
小菅の煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元となりました。
銀座煉瓦街が明治10(1877)年に完成し煉瓦需要が減少し、「盛煉社」は経営困難となり、
政府は明治11(1878)年集治監用地として買い上げました。
明治12(1879)年4月、内務省直轄の東京集治監が開設され、収容者が煉瓦製造に当たりました。
刻印には桜のマークが使用されていました。
その後、小菅監獄、小菅刑務所、東京拘置所と変遷しました。
所管も内務省→司法省→法務省と変遷しました。
江戸期に関東郡代伊奈氏の郡代屋敷、鷹狩の小菅御殿(千住御殿)、小菅御籾蔵と小菅銭座、
明治期に小菅県庁、小菅煉瓦製造所、小菅監獄と変遷してきました。
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」
(説明板)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四〜一六四三)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟の御膳所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾蔵が建てられました。その目的は、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は、三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。」(誤植は修正しました)
「東京拘置所と煉瓦工場」
(説明板)
「東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾蔵施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国最初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座、築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。
明治五年十二月、東京府は川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し、生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と
命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ヶ関の女王である煉瓦建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ、近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです。」
小菅稲荷神社と松原児童遊園の間の道が、松原通り(御成道)です。
松原児童遊園の横に、説明板があります。
(説明板)
「松原通り(御成道)の由来
関東郡代伊那忠治が小菅村の御用地に構えた屋敷に、度々鷹狩りで立ち寄った二代将軍秀忠は、屋敷の庭から見える富士山に松が似合うと江戸城から一本の若松を持参し、伊奈家の庭に自ら鍬を取って植えました。
しかし、曇り空で富士山が見えません。そこで、植えたばかりの松の枝に手にしていた白扇を広げ、逆さに飾り富士山と見立てました。それ以来、この松を「末広がりの松」と名付け伊奈家の手で大切に育てられました。
この由来と育成を知った八代将軍吉宗から褒美に銀五十枚を賜った伊那忠達は、水戸佐倉道から小菅御殿まで数百本の松を植え、立派な道を造りました。
それから将軍権が御成りになる時は、必ずこの松並木を通り「末広がりの松」を見ながら御殿に入るのが慣わしとなりました。
この松並木は昭和の時代まで残りましたが、戦争になり松根油を飛行機の燃料にするため、殆どが切り倒され、今では「松原通り」の名前だけが残りました。」
平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部
松原通りには、お地蔵さまがおられます。
東京拘置所の面会所の正面に小菅稲荷神社があります。
社殿の後ろに本殿があります。
本殿の裏には、小菅御殿から将軍の地下の逃げ道が繋がっているとのこと。
本殿には立ち入り出来ないので、確認できず。
(説明板)
「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」
小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り、現在の地に移されたと伝えられています。稲荷神社の「使い」狐がご神体の両脇を固めています。狐が穀物の神様である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名を「御饌津神(みけつ)神」であったことから、ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され、誤って「三狐神」と書かれたためといわれています。そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害獣を食べて子狐を養う。)が古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の神の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる「神のお使い」として人々に定まっていきます。日本の各地に「神の使い」狐の伝説がのこされています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。
本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。
小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったといいます。
この抜け道を明治時代に入り不要なものとしてふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に、一匹の白狐が現れ「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められで大変に難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消え都ました。
そこで速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています。」
平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部
西小菅小学校校門脇に説明板「小菅銭座跡」があります。
小菅御籾蔵の一角に、小菅銭座が設けられていました。
(説明板)
「葛飾区指定史跡
小菅銭座跡
所 在 地 葛飾区小菅一丁目25番1号
西小菅小学校
指定年月日 昭和58年2月21日
小菅銭座は寛政6年(1859)8月江戸金座の直轄で、幕末の財政窮乏と銅相場高騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は江戸時代初期には伊奈氏の下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷をたどった一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1840)12月には、前例のない鐚銭といわれる粗悪鐚銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1807)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残ってはいませんが、昭和25年(1950)5月までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の史跡として今に伝えています。 葛飾区教育委員会」
○銭座橋(ぜんざばし)親柱 葛飾区小菅1-22-4
西小菅小学校の北東に銭座橋(ぜんざばし)親柱があります。
○ぜんざ橋児童遊園 葛飾区小菅1-35-13
銭座橋(ぜんざばし)親柱に面して西に「ぜんざ橋児童遊園」があります。
当初の水戸街道は、荒川放水路の掘削で分断されています。
水戸街道から路地に入ると、立派な宮造りの銭湯「草津湯」があります(葛飾区小菅1-17-3 03-3602-4005)。
火曜〜土曜日の16:30-17:30しか営業していない銭湯です。
※銭湯「草津湯」は、2024年6月29日に閉館、今後取り壊し予定です。
Googleに草津湯による説明が記載されています。
「高齢に伴う体力の限界により、2024年6月いっぱいをもって、銭湯の営業を終了することにいたしました。残り1ヶ月程度となりましたが、頑張って営業を続ける予定です。長い間、ご愛顧いただき、ありがとうございました。※廃業後は、建物を取り壊し、土地を地主へ返却する予定です。」
はす向かいに風情のある駄菓子屋「高橋商店」がありましたが、2020年に閉店しています。
東に進むとレトロな魚屋「魚米」があります。
<水戸橋>
水戸橋は平成4年5月竣工。綾瀬川下流に新水戸橋が見えます。
旧水戸街道の水戸橋の橋台の石組が遺されています。
(説明板)
「水戸橋跡地
【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な機として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1624〜1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。
【橋名:みとはしの由来】
地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光関)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした理でした。子理が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。その事実を知った光園は、後の世まで平穏となる」ようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。
また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります。
【水戸佐倉道】
前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。
この街道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。
享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。
監修 葛飾区小菅西自治会 葛飾区」
水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されています。
(説明板)
「八幡社とタブの木の大樹について
小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和三十年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡やしろ」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬川のふちに在って舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。
由緒などは不明ですが「水戸佐倉道分間延絵図」に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(一七○○)五月三日第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿囲内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(一七四○年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
このあたりは、「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年九月の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。
平成二十二年吉日」
半増坊のほうが先に祀られていたところに観音院が移転してきたので、半僧さんと呼ばれているようです。
「半僧坊大権現」の多くの幟がはためています。
東京拘置所の西側、古隅田川の流路跡が小菅万葉公園として整備されています。
四阿があり、「小菅御殿跡」と銭貨を鋳造した「小菅銭座跡」の説明板があります(文字の劣化で読みにくい)。
また「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」の説明板があります。
<小菅御殿跡>
小菅御殿、小菅御籾蔵、小菅県県庁、小菅煉瓦製造所、小菅監獄、東京拘置所と変遷してきました。
(説明板)
「小菅御殿跡
小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千余坪にのぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736)八代将軍吉宗の命によりその屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。さらに小菅籾蔵には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれて行きます。」
<小菅銭座跡>
(説明板)
「小菅銭座跡
小菅御殿跡の南側(現在の小菅小学校)には安政6年(1859)から慶応3年(1867)にかけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。文久3年(1863)5月の調べでは鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く、京都・大阪にも回送されました。昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「ぜんざ(銭座)橋」と刻んだ石柱が残っています。銭を鋳造する鉄材は、この橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれたということです。」
(安政年間小菅銭座の図掲示)
<古隅田川(足立・葛飾区)総合案内>
(説明板)
「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内
<概要>
古隅田川はかつて利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、
中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。
現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。
また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。
そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川、古隅田川」をテーマに、失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。
<位置>
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。
また、古隅田川に隣接して5つ公園があり、河添公園、下河原公園は足立区に、袋橋公園、白鷺公園、小菅万葉公園は葛飾区に位置しています。
<延長>
古隅田川 約5,450m
裏門堰 約1,100m
足立区・葛飾区」
裏門堰は、古隅田川ではなく、旧綾瀬川流路です。
現在は、綾瀬川から裏門堰親水水路に取水し、五反野親水緑道の下に設置された浄化槽で浄化し緑道に供給し、
再び綾瀬川に戻し河川浄化の一助としています。
万葉公園から歩いてきて、新古川橋を渡って少し東へ行くと、
説明板「一茶と小菅」があります。
小林一茶は小菅御籾蔵の句を詠んでいます。
「遠水鶏 小菅の御門 しまりけり」
(閉まろうとする小菅御籾蔵の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。)
また、合歓の花の句を詠んでいます。「古舟も そよそよ合歓の もようかな」
(説明板)
「一茶と小菅
江戸時代の俳人小林一茶は足立や葛飾あたりの風物を詠んだ秀句を多く残しています。その中から、特に小菅に由緒の深い句をとり出して紹介します。
(小菅籾蔵)
遠水鶏 小菅の御門 しまりけり
閉まろうとする小菅籾倉の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。
(合歓の花)
古舟も そよそよ合歓の もようかな
一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり。」とあり、続いて右の句が記されています。小菅川とは、綾瀬川下流の別称です。歌川広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所花暦にも、次のように紹介されています。
「合歓の木」綾瀬川・・・・花又村(今の足立区花畑)の川筋、小菅御殿の跡の辺、いにしえはおほかりしが、いまはここかしこにあり・・・。
現在の東京拘置所付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所であったようです。綾瀬川の合歓木は江戸の人々にも花名所として知られていたようです。
初夏に小枝の先にうす紅色の長い糸のような可憐な花をつけます。この花をたずねて、風雅を愛する人々が訪れたことでしょう。
(葛西ばやし)
けいこ笛 田はことごとく 青みたり
今年も豊年。秋祭りももうすぐだ。葛西ばやしは葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつです。かつて小菅に下屋敷のあった関東郡代、伊奈半十郎忠辰は、天下泰平、五穀豊穣、さらには一家の和合と非行防止、余暇善導を目的として、おおいに葛西ばやしを奨励しました。毎年各町村で葛西ばやし代表者推薦会を催し、選ばれた者を代官自ら神田明神の将軍上覧祭りに参加を推薦したので、一層流行し、農業の余暇にお囃子を習う若者が続出したといわれます。
(蚊)
かつしかの 宿の藪蚊は かつえべし
蚊もまた葛飾の名物だったようです。」
<裏門堰親水水路は改修整備中>
改修は終わりました。
<裏門堰> 足立区立郷土博物館に保存
裏門堰が足立区立郷土博物館に保存されています。
「裏門堰」「大正四年三月竣工」と刻まれています。
説明板がないので、詳細はよくわかりません。
「小菅御殿絵図」には、「裏門」のところに稲荷社が記されているようです。
この場所は、柳沢吉保→伊奈氏屋敷、小菅御殿→小菅籾蔵と変遷した諸施設の鬼門に当たり、
それら施設の守り神としての性格をもっていたことが推測されます。現在も同じ場所にある稲荷神社です。
扁額は「屋敷稲荷」が掲げられています。
新古川橋に北から五反野親水緑道が合流しています。
五反野親水緑道の常磐線ガード手前に「下山国鉄総裁追憶碑」があります。