万治2年の震災で、元湯は壊滅、梶原の湯だけがかろうじて残ったとされています。
「小仙郷 塩原温泉紀勝」など明治の書物には、
「源頼朝の那須野に狩せる時、梶原景時の浴せしより呼びなせり」と記載されています。
※「梶原の湯」は、文治2(1186)年、梶原景時が、那須太郎光隆以下九人の兄弟(那須与一の兄達)を
討たんとして傷を負い入浴したともネットでは見かけます。巻狩の時の入浴説のほうが信頼度高そう。
「梶原景時の高館城攻め」は、別途記載。
「野州塩原温泉案内」(下野新聞社 明治38.7)によれば、
塩原湯元には、高尾屋という温泉宿があり、
浴舎から20間(36m)のところに梶原の湯が湧出し、梶原湯は無色透明と記載。
さらに続けて、
「近頃更に一泉を掘り浴槽を設けたり。未だ其名を詳にせず。
泉質は梶原湯に類似するも少く不透明なり。又温度効能は梶原湯と大差なし。」と記載。
「塩原名勝旧跡の伝説」(大正10)によれば、
「由来のある梶原湯は、先つる頃、其傍に住せる一翁が徒に巌石を動かせるが為に、
湧出にはかに止まりて今では空しく廃泉となりしこそ残念なれ、
其の傍に何だか知れぬ温泉ありしが予は腹立紛れに入浴を見合わせたりき。」
(著者は元泉館に入浴して満足したそうで)
梶原の湯の分析書は動力揚湯で、なぜ自然湧出ではないのか不思議でした。
(梶原の湯が掘削15m、弘法の湯が掘削100m)
昔の自然湧出の梶原の湯は泉温15度で、
寒さに耐え入浴しなければならないとの記述が明治の記録では散見されます。
当時の梶原の湯は枯れてしまったけれども、現在はポンプアップできるので、
掘削・動力揚湯により、今は温かい梶原の湯が復活していると考えられます。
湯脈は同じでしょうから、歴史的な湯であることには違いないでしょう。
塩原元湯の裏山にちらばっていた碑を、元泉館の君島館主が妙運寺に祀りました。
「湯本村絵図」も妙雲寺が蔵しています。
元湯古碑塔の裏には、
「元湯山中に放置しありたるを もって この地に移転安置し、永く供養するものなり。
昭和61年12月吉日 元湯温泉 元泉館主」
と記銘されています。
<普請奉行(勧解由)萩野与兵衛の墓碑>
信男信女の大きな板碑があり、請奉行(勧解由)萩野与兵衛の墓碑です。
現地には、解説板がないので、塩原温泉郷土史研究会の記述によると、
寛永年間には、日光東照宮の大改装で全国から大名が続々と訪れ、
宇都宮城主奥平美作守(大膳大夫)忠昌は、保養の場として湯本湯治場を提供。
宿場の整備に家臣の萩野与兵衛を湯本村へ普請奉行勘解由として派遣し、
元湯千軒と言われるほどの宿場を整備します。
万治2年(1659)4月21日の地震で、裏山が地すべりを起し、萩野与兵衛は亡くなります。
妻は夫の死を弔い万治二年五月十五日、板碑を菩提寺である浄土宗湯本山円谷寺の墓地に建立しました。
(その後、板碑は元湯から塩原妙雲寺に移転)
板碑には、「為根誉善与信男菩提也・逆修為覚誉妙本信女菩提也・万治二年五月十五日」と刻され、
戒名には、普請奉行の萩野与兵衛の与の字があります。
(※記述があちこちに散らばっているので、内容を損ねない範囲で適度にまとめました。)
信男信女の供養碑ですが、信女のほうは、生きている時に供養する逆修の文字があるので、
萩野与兵衛の妻は助かって、妻は夫と自分の供養のため夫婦一緒の墓碑を建てたと伺えます。
※ 奥平美作守忠昌
父は、奥平(大膳大夫)家昌。家昌の母は、徳川家康の長女・亀姫。
家昌は家康にとって最年長の男孫であったこと(叔父・秀忠よりも年長)から、家康に重用されました。
元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗りました。
奥平忠昌は家昌の長男。大叔父・秀忠から偏諱を受けて忠昌と名乗りました。
(ウィキペディアを参照しました)
湯本村へ派遣され、湯治場の整備を行った宇都宮城主奥平忠昌家臣の萩野与兵衛の石碑があります。
船型石仏で「宝暦九巳卯年四月吉祥日塩原村中総願主敬白」とあり、
宝歴9(1759)年は、萩野与兵衛が湯本地滑りで亡くなってから百年忌に当たります。
新湯高原道の往来の安全を祈願し赤川橋付近の山腹に建立されましたが、
昭和十年頃、日塩道路工事の際現在の場所に移されました。
(現地解説板がないので、塩原郷土史研究会の記述を参照し、概要まとめました)
よ〜く見ると、お地蔵様の頭に「湯殿山」の文字が刻まれています。
湯殿山供養塔も兼ねていますね。
ハンターマウンテンスキー場の中では、鹿が多く闊歩しているのが、入口から見えます。
鶏頂開拓には鹿が侵入できないよう柵が設けられていますが、こんなに鹿がいるのでは、納得。