那須/黒磯
鵜黒の駒の蹄跡 鵜黒の駒の蹄跡
風瀬の大石 鵜黒の駒の蹄跡
那須与一の腰掛松 与一が松に腰掛けて休んだ
からす石 「鵜黒の駒」の出生伝説
馬廻塚馬頭観音堂 「鵜黒の駒」墓
でき穴 与一の矢
那須温泉神社 与一奉納の矢
かなつぼ石 与一の妻がお歯黒
矢隠岩 矢の稽古をして矢を隠した岩
那須烏山
森田城跡 与一の兄、長男の那須光隆が築城
県道179号線の高館トンネルの真上に高舘城跡があります。
黒羽城方面から来ると、高舘トンネル入口の左に
扇の的をねらう与一のレリーフがあります。
高舘トンネル脇の旧道の反対側に、高舘城に向かう電線の支柱が続く道があります。
登口に「高舘城入口」の古い石碑があり、少し進むと左に登る階段がありました。
階段を登ったところの左右に、
甲子塔(明治20年)・馬頭観音(昭和33年)・湯殿山碑などの石碑群があります。
参道を進むと、平坦なスペースに出ますが、建物はありません。
大野氏によると、上大輪から三霞へ向かう坂道の途中から山道(参道)を登ると上大輪の熊野神社と
記載されているので、ここは熊野神社かと思います。
高舘城址の駐車場をちょっと下り、佐久山館入口の馬頭観音が道標になっていました。
なんでこんな山の上に道標?と少々驚きました。
右やまみち 左黒羽由??? 文化とかの文字が見えます。
両郷村が建てた碑と黒羽町の説明板があります。
近くに小さな祠が2つあります。
「那須の史蹟と名勝」栃木県編(大正15)や「那須郷土誌」(明治36)によれば、
与一の父資隆が高舘城を築き神田城から移ります。
与一の母は小山政光の女にして与一は神田城(那珂川町)で生まれたとしています。
大野氏の那須野の伝承調査によれば、
与一の母は長谷田次郎左衞門の娘(長谷田の地は、那須家の馬の管理場である鵜黒の柵)で
側室の母から、与一は高舘城で生まれたとしています。
高舘城は文治2(1186)年に梶原景時が3千騎を率いて攻め城陥、資隆は隠居館の福原城に移りました。
高舘城に隠れていた与一の兄たちは、信濃国諏訪に走ります。
源頼朝の命で那須家の惣領は与一が継ぎ、平家に味方した兄弟は許され、
与一は兄弟に所領を分地し那須十氏となっています(文治3(1187)年。
森田城跡(那須烏山市)は、那須太郎光隆が森田の地を分地され築城したものです。
与一の兄たちは、那須に帰ることができたのは、諏訪明神の御加護と、
各所領内に諏訪神社を分霊して祀りました。
<那須七諏訪>
田宿の諏訪神社(大田原市佐良土840)、片府田の諏訪神社(大田原市片府田)、
佐久山の諏訪神社(大田原市佐久山2043)、荻野目の諏訪神社(大田原市荻野目)、
梁瀬の諏訪神社(那須町梁瀬)等。
白米城:鎌倉勢が高舘城を攻めますが、なかなか落ちません。
高舘城では、馬の背中に白米を浴びせて、
水に困っていないことを敵にさとられまいとしたといいます。
なかなか陥ちないので、鎌倉勢は鶏に火を背負わせて放って火攻めにしたとの伝説もあり。
「下野那須温泉之栞」という温泉本に興味深い記述がありました。
梶原景時の高館城攻めは伝説の域ではありますが、
明治の「名勝旧跡案内」(栃木県発行)の高館城の項目でも記載されています。
那須では「鶏を飼うと火に祟る」として、温泉神社の氏子連は、決して鶏を飼わず今に及んでおり、
鶏肉にせよ、玉子にせよ、白河か黒磯から購入するのだそうです。
那須では風強く、雪も強く、瓦屋根ではもたないので、板屋根に板ひさし、大石を乗せた屋作りで、
火が出れば全村灰燼になりかねません。
平家に味方をした那須太郎光隆と弟が那須に潜むと鎌倉方が知るところとなり、
梶原景時は頼朝にこれを討たんとすすめ、梶原景時・景季が文治2(1186)年に出動します。
梶原景時・景季は、高館城を落とすべく、風の夜に数千羽の鶏の脚に火をくくりつけて放ち
忽ち火災がおこってさしもの城も陥ちたとのこと。
那須家の尊信する温泉神社の氏子連は、この時から決して鶏を飼わず今に及んだとのことです。
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おいしい人気の自家製ローストチキンを売っている鶏春があります。
現在の那須は、鶏を飼わない風習は感じられません。
黒羽町誌に掲載の地図を見ると、蛇王権現は、石掘虚空蔵尊北、温泉神社東に位置しています。
ここが蛇王権現でしょう。
与一の父、那須資隆が、与一の誕生に際して、蛇王権現をお遷しして祀ったと伝えられています。
また、与一が出陣の時に蛇王権現に祈願しましたが、
その際に、藤の木の馬の鞭を逆さにさしたまま帰って、その鞭が藤の大木となり、
「与一の逆さ藤」と呼ばれるようになったとの伝えがあります。藤の木はどれだか確認できず。
蛇王権現の社殿は、昔は茅葺きの鞘堂があったとのことですが、現在は朽ち果てかけています。
狛犬は苔むしています。
境内社が2つあります。
<3つの祠>
蛇王権現の近くの藪の中に、小さな祠が3つあります。詳細不明。
明神と書かれ、線刻の男根の石碑があります。
比較的新しく明治5年とあります。
大輪に温泉神社がもう一つありました。
新しい鳥居(平成20年4月建立)には弓座さんのお名前もあります。
大輪では仏式の庚申で、桜田は神式の庚申のようです。
馬頭観世音が数基あります。
お地蔵さんや石碑があります。
<矢剪石(しせんせき)>
かつては福原城内にあったという矢剪石と呼ばれる巨石です。
与一が屋島で扇の的を射抜いた時、この矢剪石に亀裂が走ったといわれます。
矢剪石のかたわらに「鏡ヶ池」があります。
<那須氏墓碑七基(与一の墓)> 大田原市福原322
玄性寺境内にある那須氏墓碑(七基)。玄性寺と所在の番地は異なります。
与一のものと伝えられている古碑や、那須家歴代の合祀碑など7基あります。
左から2番目が父資隆の碑、3番目が与一の碑。
<「那須与一公を讃える」碑>
那須与一公顕彰会が建てた碑(昭和63年)があります。
図解入りでわかりやすい碑です。
<一心堂>
「一発必中 絵馬」が数多く奉納されています。
一発必中の与一にあやかろうと、受験生の人気を集めています。
<弓道場と餅つき唄>
毎年9月には与一の墓前祭が行われ、餅つき唄が奉納されます。
併せて弓道大会も開かれます。
福原の餅つき唄は、大田原市指定無形文化財。
那須与一が源義経に従い平家追討の出陣の際、
福原の領民が力餅をついて祝ったのを由来とするものです。
1 那須の与一公は色白で、おとこ美男で旗頭
1 福原の温泉林の八重桜、八重につぼんで九重に咲く
1 九重が十二ひとえに咲くならば 温泉林は花でかがやく
1 友達がたまにきたのになにもない 天上とぶ鳥がんの巻物
1 巻物をといてのばして酒肴 ひとつおあがり菊の玉酒
1 白河の天守やぐらのはねつるべ こんどよく見なあがりさがりを
1 このもちはいくらついたと聞いたなら ニ石三石八おけ八かます
観音堂に十一面観音が存しますが、那須与一が亡き母の冥福のため、
鎌倉の長谷観音を模して刻し、常に敬持していました。
与一の死後、観音堂を建て、これを安置したと伝わっています。
堂内に観音像があり、持ち歩けない大きさと思ったら、その奥にも観音像。
那須郡誌では、手法は極めて長谷観音に類似しているが、
伝承以外に徴するものがないのは残念としています。
観音堂の脇に「十一面観音像と那須与一公」(那須与一公顕彰会建之 平成4年11月11日)碑が建っています。
観音堂の傍に水流があり瀑布となっていたのが小滝山の所以となっています。
平地にあっては珍しい大きな滝で、小滝城の所以でもありますが、
農業用水に分水されたり、池に水は落ちていますが、現状は滝とは呼べない規模です。
清水の池の傍らに道標「右?、左?」があります。
小滝城の初代から第4代までの小滝氏の菩提寺で、繁興しましたが
小滝氏の衰微とともに妙徳寺の寺運も傾いたと伝わっています。
小滝氏5代増信は福原永興寺に葬られ、6代信定より福原玄性寺に葬られ、
妙徳寺には小滝氏の墳墓は現在しません。
「諸寺の創建が大同2年とするものが多いのは、
「大同2年8月云々」と念仏を唱えるので、
これを以て、縁起が不明なのはだいたい大同2年創建になっている」と那須郡誌。
以上、大野氏記述、那須郡誌(大13)、現地確認による。
与一が扇の的の成功を謝して創建さたとされます。
杉の大木と切り株があります。
「老杉」の説明より
推定樹齢八百十数年の老杉の切り株。明治25年(1892年)6月の雷火で焼失。
推定樹齢五百十数年の老杉。
<足尾山大神>
文治3(1187)年、那須与一の兄である長男の那須光隆が、この地を分知され、森田城を築いて居住し、
森田氏を名乗ります。
長男の那須光隆は平家側についたので、本家は源氏側についた那須与一が継いでいます。
芳朝寺に「森田・大田原氏の墓碑」案内板があり歩を進めます。
石段は角がとれ苔むし、歴史を感じます。
「森田・大田原氏の墓碑」は、立派な墓碑群です。
その上にある歴代住職の墓碑群も劣らず立派です。
墓碑を抜けてさらに登り頂上へ、森田城跡です。