出典:那須郷土誌
○ 扇眼(おうぎのかなめ)ー那須拾遺記ーより
○ 不動の剣で、波を切る
○ 小鳥を殺さず射止める練習
○ 与一の弓
○ 与一の矢
○ 与一奉納の矢
○ 与一の矢の産地
○ 駒立岩
○ 祈り岩
○ 道の駅 那須与一の郷 扇眼
○ 那須与一伝承館(別ページ)
○ 扇の的弓道発祥之地
○ 愛馬「鵜黒の駒」墓(別ページ)
「那須郷土誌」(明治36年)に、「那須拾遺記」が詳細に紹介されています。
那須与一の扇眼を、現代語にアレンジしてその時の模様を描写します。
厳しい条件下です。
・扇の的までの距離は、70mばかり。
・扇の的が風で揺れている(風が強い、波が高い。)
・源平両軍が注目していて、失敗は許されない。
【前編】
一艘の舟が渚に近づきます。
柳立の5ッ重に紅梅の袴の、玉虫の前が、「紅の地に日輪の扇」を竿に挟んで舟の舳頭に立置き、
源氏の陣に向いて「これを射よ」と手招きして、舟底へ入ります。
(注:那須拾遺記では、玉虫の前は舟底へ入ったとしています。)
この扇は、高倉上皇が厳島神社に奉納した3本の扇のうちの1つで、
平家が都落ちで巌島神社に参拝したとき、神主佐伯景広が、安徳天皇に献じ祝言された由緒あるものです。
(注:与一がはずしていたら、国旗は赤地に黄色の日の丸になっていたかも?)
義経 (畠山重忠を召し)「あれを射よ!」
重忠 「私、脚気でございまして。。その上、馬に振られて気分悪うございます。。手荒れてるし。。」
周りの者 (言葉巧みに辞退する重忠に対して)「まじ?断ってるよ!」と唖然。
義経 「では誰にする?進言せよ!」
重忠 「那須兄弟ならば、斯様な小物はうまく仕ります」
(なんと那須兄弟に押しつけます)
義経 (十郎を召し)「あの扇を仕れ!」
十郎 「一の谷での岩石落としで、馬が弱かったので、弓手の肘を地面についてしまいました。
治っておらず小振いしております、、、射てませぬ!」
「弟の余一は小兵ですが、飛ぶ鳥を的にして外すことはまれなんで、余一に命じて
ください。」
(なんと与一に押しつけます)
(注:与一より十郎のほうが弓の名手でしたが、怪我を理由に断ります)
義経 「下知に背くとは!本国に帰れ!」(と怒り、与一を召して)
与一 「、、、」
(与一も言い訳しようとしますが、重忠、十郎と続けざまに言い訳して人に押しつけている経緯があり)
伊勢の三郎 (与一をせかす)「つべこべ言わずに、海が暗くなったら一大事、さぁ、早く」
(注:以下諸条件から、日没直前のまだ明るい状況と推定します。
・時間は、平家物語によると、午後6時頃。
・屋島の合戦のあった日は諸説あり(大田原市HP「郷土の誉れ 那須与一」諸説
2月18日「平家物語」「玉海」「那須系図節」
2月19日「吾妻鏡」(鎌倉時代の公式記録簿)
2月20日「源平盛衰記」
2月21日「長門本平家物語」「保歴間記」
・高松(香川県)の2月18日の日の入りは17:50、2月21日だと17:53。
日没直後のどんどん暗くなっていく状況かと思いましたが、ちょっと待てよ、
和暦(太陰太陽暦)と、西暦(グレゴリオ暦)では日が対応していません。
吾妻鏡の記録、和暦1185年2月19日を西暦に当てはめると、1185年3月22日となります。
高松(香川県)の3月22日の日の入りは18:17です。)
平家の挑発の余興に、畠山重忠が言うように「斯様な小物」に
自害をかけて挑みたくもないのですが、辞することもできず、与一は決心します。
愛馬の「鵜黒の駒」を海に進め、鵜黒を「駒立岩」で安定させます。
西風(注:平家物語や源平盛衰記では北風)に吹かれて扇は少しも定まりません。
「運の極み」と悲しみ、目を閉じ
「鳩の峰正八幡別して下野国 日光山 宇都宮 那須湯泉
金丸八幡 八大龍神、須藤の家の弓矢に冥加を!
扇を静め給え! 源氏の運は極まれりというなら、矢を放つ前にこの身を海中に沈め給え!」
と一心に祈念して目を開けると扇は静まっています。
(注:扇を静めるか、自分を海に沈めるかと祈ったとは、やぶれかぶれですねぇ。
それとも扇をシズメルか、自分を海にシズメルかジョークですか?
扇を静め給えと祈ったとは、ネットでは一向に紹介されていないので、この説はここが初めてかと。
風が吹いていて、扇がゆれていたのは重要は要素と思います)
海の波が荒かったために、波切不動尊に祈ったところ波がおだやかになったとの伝承があります(後述)。
夏山の生い茂った木々の間からわずかに見える小鳥を殺さず射止めることに比べれば、
狭い扇ですが、すでに神力が添えられ簡単に思えてきます。
(注:与一の小鳥を殺さず射止める練習の場も訪問しているので後述します)
鏑矢を取り出し滋籐の弓に矢を打くわせ、
紅の地紙には日輪が描かれていて恐れ多いので、扇の要(眼)を狙います。
味方の陣からは「もう少し海に入って近づいたほうがいいよ」の進言の声があがります。
しかしその場で矢を放つと、蛇の目の少し上を射切り、扇の要は船上に落ちます。
地紙はひらめいて海へ落ちます。
「時ならぬ 花や紅葉を 見つるか哉 よしの初瀬の ふもとならねと」(玉虫の前)
(注:吉野や初瀬(長谷)のふもとでもないのに、こんな合戦の場で、桜や紅葉が舞うのを見るなんて思いもしなかったわ、感激!」)
(注:扇の的までの距離は、平家物語によれば、磯から舟まで「7、8段ばかり」、
海に1段「鵜黒の駒」を進めた「駒立岩」から「7段はかり」です。
那須拾遺記では、味方の陣から、もう少し海へ入って近づいたほうがいいよと進言があるので、
当たるかどうか微妙な距離だと味方の陣は思った距離でしょう。
当時の単位の距離が不明ですが、これをもって70mばかりと推定されているようです。)
(注:的に当てるのは無理そうで、与一は自害を覚悟しますが、距離が問題ではなく、扇が風で揺れていたのが問題でした。
風が吹いて静まっていない的を狙うのは、与一は運がなかったと悲しみますが、
扇を静め給えと祈ったところ、源氏の運が開き、扇は静まりました。
放った矢は見事に扇の要に命中します。
味方からもう少し海に入って近づいたほうがいいよとの進言を与一は無視して矢を放っており、
与一は距離は問題ではなく、扇が静まっていないことが問題だと思っていたと推定できます。)
【中編】
伊賀の平内左衛門の弟の十郎兵衛家員が、与一を称えて長刀を水車に廻して舞を踊ります。
(注:義経は、風流を理解せず、逆にキレます!)
陸に戻った与一に伊勢の三郎が伝えます。
伊勢の三郎 (家員を指して)「御命令だ、あれも射よ!」
与一は手綱を引き返し海に入り征矢で射殺します。
(注:鏑矢は儀式用の矢で、征矢は戦闘用の矢です。最初の矢は殺意のない鏑矢で、余興だったのが、
殺意のある征矢を出したことで状況が一変、戦闘モード突入です。)
義経は、源平多数の目前で、2度の大手柄と大いに感激し、
当座の褒美として与一に土佐の荘園を与えます。
源氏勢の中から「情けない!」という声も多く出ますが、
義経はひとりでも多くの敵を倒すのが使命と考えていたのでした。
【後編】
怒った平家は再攻に転じ、義経は海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて戻ります。
「こんなに弱い弓を敵に拾われたらこれが大将の弓かと嘲られるから」と語ります。
(注:那須拾遺記では、現場のドタバタが詳しく描かれていて、義経のダメっぷりが目立ちます。
義経の命令を2人が断り、与一は周りが断る暇を与えませんでした。
大将の命令を断る部下達、、佐藤継信は忠死しており、忠君の話はひとりだけ。
与一を称えて長刀を水車に廻して舞を踊ってるのを射させたり、弓流ししちゃったり、
大将の「情けない!」様が描かれている場面です。)
<二ツ滝波切不動尊> 大田原市桧木沢
鵜黒の駒伝説の駒込池、牛居淵の対岸に「二ッ滝波切不動尊」があります。
与一が屋島で扇の的を射たとき、海の波が荒かったために、波切不動尊に祈ったところ
波がおだやかになりました。このため与一がお堂を建立したとの伝承があります。
通常、不動尊は右手は剣を立てていますが、
波切不動尊は右手に持った剣を下に向けて立っています。
不動の剣で、波を切っているお姿であると言い伝えられているとのことです。
不動尊は2つあり、台風で那珂川に落ちた本尊が、後年出て来たからとのこと。
二ッ滝波切不動堂は高岩山密蔵院明王寺が管轄しているお堂で、
明王寺来歴によると、二ッ滝波切不動尊は、那須与一がお堂を建立しましたが、
大関高増が黒羽城を築城したとき、城の南西にあたる高台にこの波切不動を移し、
木造の波切不動尊を持って行き、高岩波切不動尊と称したとのこと。
しかし、二ッ滝の地元の桧木沢村では、石造の波切不動尊を安置し
波切不動尊を絶やさなかったとのことです。
堂の裏には小川が流れ、那珂川へ滝となって落ちています。
<高岩波切不動尊> 大田原市黒羽向町
殿様(高増)が木造波切不動尊を黒羽城に近い高岩に移したのが、こちらの高岩波切不動尊です。
高岩神社から、さらに那珂川に近づくと波切不動尊があります。
木造波切不動尊は祠に納められ拝めませんが、奉納物が色々とあります。
<法師峠の加茂神社> 大田原市湯津上(所在番地不明)
「夏山の生い茂った木々の間からわずかに見える小鳥を殺さず射止めることに比べれば、
狭い扇ですが既に神力が添えられ簡単に思えてきます。」(那須拾遺記)との記述がありますが、
鳥の蹴爪を狙って殺さずに射止める練習を法師峠で行った伝承があります。
伝承話とはいえ、伝承話の内容がきちんとつながっているのは興味深いところです。
与一が弓の訓練をした場所に、矢隠し岩の他、ホーシャ峠と呼ばれる法師峠があります。
法師峠のある道は、那須氏の本城のあった福原と支城の黒羽城を結ぶ重要な道で
この道筋には那須氏ゆかりの寺社が点在します。
法師峠の頂上付近に鳴神山があり、そこに鎮座する加茂神社もそのひとつ。
主祭神は別雷神。那須与一の崇敬した神社と伝えられています。
那須与一は、この峠に家来ともに来ては、鶉(うずら)や雲雀(ひばり)を射て
弓の訓練をしていました。
ある日、1人の法師が通りかかり、しばらく与一の弓の訓練をながめていましたが
「弓の腕前は大層なものだが、雲雀を殺さず、ただ蹴爪を射よ」と教えました。
その法師は与一が雲雀の蹴爪を射ているうちに姿が見えなくなりました。
法師にお礼を言うのを忘れた与一は家来にその姿をさがさせますが、
とうとう法師の姿を見つけることができず、法師の身に付けていた衣が金丸八幡の境内に掛かっており、
与一は、弓を教えた法師が金丸八幡の化身であることを知ったということです。
この法師の教えによって、与一が蹴爪ばかり射切ったために、
法師峠あたりの雲雀(ひばり)には、蹴爪がないと伝えられています。
加茂神社のすぐ横はゴルフコースでプレイ中。
ゴルフボールが飛んできそうですが、境内にゴルフボールは転がっていません。
法師峠はこの先、那須野ヶ原CCの金子山の南へ通じているようです。
<関街道(東山道)> ※追記しました。
加茂神社は大田原市湯津上にありますが狭原で祭祀している神社です。
ゴルフ場の東側を南北に走る道から、西に向かう坂道で、ゴルフ場の中を通って(ゴルフ場入口にゲート)
金子山へ繋がるのが関街道(東山道)です。
その途中に法師峠、鳴神山と加茂神社があります。
大田原市と旧湯津上村の境界となっている広い道は新しい道で古道ではありません。
ゴルフ場入口で古道と合流し、金子山へ向かいます。
鳴神山と加茂神社には、境界の広い道からは行けません。鳴神山の真横を通る古道から行きます。
関街道(東山道)の途中、ゴルフ場ゲート少々手前に南東部地区簡易水道施設が左手にあり、
フェンス手前を左にフェンスに沿って上ります。
ゴルフ場コースに近づくと、その手前右手に加茂神社はあります。
国土地理院の地図で見ると、加茂神社はこの辺りで一番高いところにあります(鳴神山)。
故大野信一氏(元大田原市文化財保護審議会委員)が「JAなすの」に連載した記事で、
「法師峠の加茂神社」の記事を参照させていただきました。
金子山、法師峠は、関街道の目印でしょうが、加茂神社も含めて、現地には説明板とか一切ないです。
ネットで画像検索しても自分の画像ばかりヒットします。知っている人がわずかなのだと思います。
金子山はゴルフ場の中にありますが、法師峠・鳴神山・加茂神社はゴルフ場の外にあり
(ゴルフ場の所有地なのかまでは不明)、普通に行くことができます。
近くに新しい広い道路ができているため、法師峠のある関街道(東山道)は通る人もいない寂れた道です。
那須与一の伝説に由来する峠と加茂神社は、訪れる人もいない中、神秘的様相を保っています。
(左手に鳴神山 法師峠を下って振り返る)
(ゴルフ場のゲート内から法師峠を振り返る 関街道(東山道)はゴルフ場の中を通って金子山へ)
子供のころの那須与一が、弓でヒバリを射落とそうとしている姿を、
宇都宮大教授で彫刻家の日原公大氏が製作。
与一は弱い弓を使っていたとの伝承があります。
大野氏の那須野の民話の記述によると
(大野氏はお亡くなりになり、JAなすので連載は終了、HPから削除。御冥福を御祈りいたします。)
高舘城周辺には弓座の名字があり、弓を作っていたのが弓座家。
大輪の弓座家に、昔、那須与一の弓と呼ばれる弓が伝えられていたそうです。
(過去形なので、今はないということでしょう)
その弓は剛弓ではなく、普通の人でも引きしぼることができる易しい弓だったことから
女弓と言われていたとのこと。
矢のほうですが、那須拾遺記では、須藤の家との記載があります。
出来穴伝説(那須)では須藤氏(那須氏の始祖)が蝶の妖精から2本の矢を得て、
九尾の狐の退治と扇の的にそれぞれ使われたとの伝承があります。
また、蜂の恩返し伝説(那須烏山市)では、2本の鏑矢を得ています。
扇の的を射た場面では、鏑矢1本と征矢1本の計2本使用しています。
与一は那須温泉神社に、本殿増築、鳥居、矢、檜扇を奉納しています。
井伏鱒二がこの矢について「奥の細道」の杖の跡(「別冊文芸春秋」30号
昭和27年10月)で言及しています。
井伏鱒二が泊まった和泉屋の主人から、芭蕉の拝観した那須温泉神社の宝物の絵葉画をみせてもらい、
次のように記述しています。
「与一が奉納した三種類の矢(征矢、鏑矢、蟇目矢)
征矢は、すんなりとした直線美。。。
鏑矢は矢の根が二股に分れ。。。
蟇目矢は、敵や獲物を無疵で生捕りにする武器。。。
檜扇は、曾良が「金の絵也」と書いているが、今では、着色のあとが極めてわづか残つているだけで、
絵の薄板の骨も満足な形を残しているのは三枚しかない。かなめから外づれ落ちているものもある。
この檜扇は、與一が平家の女官から一首の和歌の添状と共に贈られたものださうである。
婦人用の檜扇は三十九枚の板敷にきまつている。
温泉神社の檜扇は、板が散佚して十八枚しかないが
絵を書いてあつたあとが見えるので婦人用の扇に違ひない。」
出典:那須郷土誌(明治36)に掲載の矢
□与一の矢の産地 「直箟(すぐの)神社」
与一が使った矢の産地に、与一が創建した直箟神社があります。
「金丸八幡宮に一竿より二股に分かれた竹が古来より神宝として伝わっている。
金丸八幡宮の森と、向かい側の白旗山との間に、直箟という山があった。
あるとき与一に、この直箟の森に生えている二またの竹で製した弓は、
必ず一発必中で射ることができるという夢じらしがあった。
それで与一は直箟の森に行ってさがしたところ、夢の中で見た二股の
矢竹があった。扇の的を射た矢は、この二股竹で製した弓矢だと伝えられている。
直箟の森にあった直箟神社は、那須与一が屋島の合戦の後、矢竹を奉賽するために
創建したと伝えられている。」(大野氏の記述を引用)
那須郡誌(大正13)によると
「直箟の森は、川西町大字余瀬字直箟の南にあり、与一の矢箟はこの森の篠にてつくられた。
2本並んで節がそろって発生。与一は直箟神社を建立し、祠官を置いてこれを守らしむ。
この祠官は直箟氏を称した。直箟氏は現在は農を営み、直箟氏の私社に帰して衰微。
那須郡は古来から弓矢の産地のようで、正倉院御物に下毛野那須郷と記された矢束があり
余瀬の地は古くから弓矢を産し、那須郷の貢物として、朝廷に納められていたのかもしれない。」
等の記述があります。
同じく那須郡誌によると、芭蕉を金丸八幡宮へ案内する途中、直箟神社に案内し、
与一の扇の的の弓矢の産地であることを説明したが、翁の感嘆を惹くことがなかったので、
記録にとどまらなかったのだろうとしています。
【直箟神社の現況】 大田原市余瀬
現地看板地図に「本直箟明神跡」があり、直箟の森は切り開かれ田んぼになっています。
享保年間に移転したらしい直箟神社を見つけました。
白旗城跡にある義経塚の南にあります。
参道の石階段は荒れ放題で体をなしていません。参道からは来られないでしょう。
倒壊しまくりの石板がごろごろ、祠も崩れかけ傾いています。
朽ち果てていくこと必定の印象です。どうにかなりませんかね。
那須与一宗高が扇の的を射るとき、海の中、この岩上で駒を止めたといわれる巨岩。
潮が満ちると水面に没するので、事前に潮位を確認して行きました。
与一橋に扇の石のモニュメントがありますが、ここは扇の的の位置ではありません。
駒立岩橋の水門あたりが扇の的の位置で、ポンプ電源設備に扇の的の絵が描かれています。
黄印が駒立岩・赤印が扇の的 駒立岩 扇の眼
与一が弓を射る際に祈った岩 レプリカが駒立岩のすぐ近くにあります。
義経に従い佐藤継信が忠死を遂げた屋島「射落畠」。
栃木県の寒井にある五輪塔(後記)は、ここに据えられていたはずのもの。
佐藤継信は飯坂大島城の出身であり、昭和60年に800年の時を経て、
出身地の福島飯坂ライオンズクラブが、佐藤継信の顕彰碑を建立しています。
射落畠説明板 右下が顕彰碑 顕彰碑 飯坂(福島)大鳥城
その他
○総門 ○洲崎寺 ○景清錣引
ことでんの車体に描かれた、的を狙うイルカの与一
ことでんのイルカはうどんをすすります
道の駅の与一像です。
駒立岩から的を狙うアングルの写真とったら、扇の的が見えます。
これまでまったく気がつかなったので驚きました。
扇は赤色で、黄色の日輪です。
いつのまにやら、扇の形が変わっています。扇の的らしくなりました。
与一像から扇までの距離は、屋島の駒立岩から的までと同じぐらいの距離?
ちょっと遠い気がします。
屋根は扇となっています。
中宮祠境内右手に、扇形の「扇の的弓道発祥之地」石碑があります。
昭和三十七年に、栃木県弓道連盟主催による扇の的弓道大会が開催されてより、
四十周年を迎え、大会関係者の業績を顕彰し記念の碑を建立したものです。
(平成13年8月)
日光山内の宝物殿の脇にも、同じ碑があります。
那須与一の故事にちなんで、中禅寺湖上に浮かんだ船の上の扇を的とした
弓道大会は、毎年約1,500人が参加し、1日の大会としては全国一の規模です。