Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 佐藤兄弟の墓碑/角折坂


○栃木における屋島の戦いの史蹟 大田原市寒井

 佐藤継信の墓は、
 ・高松市牟礼町洲崎寺(継信と太夫黒の墓)と、
 ・菩提寺である医王寺(石塔)にありますが、
 佐藤兄弟の五輪塔の墓石は栃木にあるのです。

 知られていない史蹟ですが、歴史的スポットとしてメジャーな史蹟と感じます。

 源平合戦で義経を助けて佐藤兄弟は亡くなります。
 その佐藤継信・忠信を弔う五輪塔2基が、那珂川橋の旧道脇にあります。
 案内板が旧道よりたいぶ上にあるので、気づきにくいです。

 次々と息子を失い悲しむ兄弟の母・乙和のため、妻たちは武装して兄弟の凱旋を演じてみせ、
 義母をなぐさめたといわれています。

 母・乙和は、兄継信が戦死した屋島と弟忠信が自害した京都に墓碑を建てようと
 奥州信夫から五輪塔2基を牛に引かせ西へ向かいました。

 那珂川を渡り寒井(佐武居)につき、
 牛は坂の途中で躓いて倒れ、角を折って死んでしまいました。

 侍者は替わりの牛を捜しますが付近には替わりの牛はいませんでした。
 この場所も何かの縁と、五輪塔をここに建立しました。
 この坂を「角折坂(つのおれざか)」、この地を「五輪平」、
 死んだ牛を棄てた場所を「牛淵」(現在:黒川発電所)と呼ぶようになりました。

 2基の石塔のほかに法名が並べて刻された塔があります。
 「吉祥院殿入過次信大居士」元暦元年(1184)3月18日
 「清光院殿?勝忠信大居士」文治2年(1186)3月13日
 傍らに「宥安法師位」正徳三己天正月十八日と刻まれた石塔。
 近くには馬頭観世音がいくつも並んでいます。

  ※「角折坂(つのおれざか)」
   寒井(大田原市)と稲沢(那須町)の間を流れる那珂川に那珂川橋が完成したのは昭和35年6月。
   橋の欄干には「昭和35年6月渡功」とあります。
   それまでは民宿の鮎楽荘(那須町大字稲沢8-9)のところに渡船場がありました。
   稲沢から来て船越しをした人が通るのが折れ曲がった急な角折坂でした。

 (大野氏記述、那須郷土誌、現地確認からまとめました。)

     

    


大鳥城跡 福島市飯坂町字館の山

 信夫庄司・佐藤氏の居城。舘の山公園となっており、車で行けます。
 文治5(1189)年義経追討軍に攻められ落城しました。

<大鳥城跡>説明板

  「大鳥城跡
    大鳥城(鵬城)は、西に連なる尾根を切断して、空隍とし土塁を築き、山腹に清水
   井戸を掘り構築された典型的な山城で、白鳥を埋めて守護神としたことから生じた名
   である。
    12世紀の初め、藤原氏が奥州を支配し平泉に都城を構え、その一族の佐藤氏が信夫
   荘の荘司(湯の荘司とも称さる)となりここに居館を構えた。親族の西行法師が陸奥
   を旅しこの地に安らぎを求めた頃は小平泉を呈し賑わいをみせていたといわれている。
    城主元治の子継信・忠信は源義経に従って出陣、継信は屋島にて義経の身代わりに
   戦死、忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕われて京都にて自刃、城主もまた分治5
   年8月、義経追討の鎌倉勢を石廊坂に迎撃し戦死、同月13日落城。今は館跡をはじ
   め城戸・矢庫・空豪・一二三の取出・清水井戸等の跡に往時を偲ぶのみである。
    城主一族の墓所は、対岸(鯖野)の医王寺にあり俳聖芭蕉の句碑がある。
      笈も太刀も5月に飾れ紙幟
      昭和57年                  福島飯坂ライオンズクラブ」

<大鳥城誌>石碑
  吉川英治氏の撰文で、昭和33年11月に建立。

<祭神佐藤佐藤元治侯 継信侯 忠信侯>木碑

<大鳥神社>木碑

<大鳥神社石祠>
 佐藤元治侯と、息子の佐藤継信侯、佐藤忠信侯が御祭神です。

<佐藤基治一族追善供養塔>木碑

    

   

     

   


医王寺 福島市飯坂町平野寺前45 

 信夫荘司佐藤一族の菩提寺です。

 松尾芭蕉が訪れています。

  「おくのほそ道
   かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。
   女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ。
   堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、
   爰に義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。

    笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟
 
   五月朔日の事也」

  


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