金丸
那須神社(金丸八幡宮)
黒羽(別ページ)
長松院法王寺(シャン姫開基の寺)
大雄寺
・シャン姫の墓碑
・月桂院と浄法寺図書の墓碑
・徳川家康の玄孫
・増業の碑
・大関家代々墓地
・津田家墓所
白旗不動尊
芭蕉の道
浄法寺桃雪邸跡
黒羽芭蕉の館
馬上姿の芭蕉翁と曽良の像
奥の細道文学碑
東京(別頁)
大関横丁/黒羽藩大関屋敷
蜂巣
犬追物跡・犬追馬場跡
玉藻稲荷神社
狐塚之址
雲厳寺
雲厳寺
矢板市
かさねとは八重撫子の名なるべし
大田原市実取
かさねとは八重撫子の名なる可し
大田原市余瀬
かさねとは八重撫子の名なるべし
大田原市前田
かさねとは八重撫子の名成べし
余瀬は元は栗野という名で、軍兵を集めたことから寄瀬と呼び、のち余瀬と改称したと
伝わっているといいます。
この余瀬に白旗山があり、源頼義・義家父子が奥州征討の時、粟野に宿陣し、
西の丘に白旗を翻し軍勢を寄せ集め魚鱗鶴翼の備えを行ったことから
白旗山と名付けられたとの伝えがあります。
また、義経がこの丘で旗上げし与一と君臣の約を結んだので(義経塚があります)
白旗と呼ばれるとも伝えられています。
後に大関氏が城を築き白旗城と称しました。
関街道粟野宿の全盛時は戸数314戸で、相撲、人形芝居の歓楽場の跡として、
櫓下(やぐらした)や操場(あやつりば)の地名が残るとのことで、
相撲場は国技館と比すべき常設場(そうなの?)とのこと(那須郡誌)。
粟野宿は天正4年(1576)に白旗城が黒羽に移ってからはさびれます。
那須郷土誌(明36)、那須郡誌(大13)、現地説明板、現地確認よりまとめました。
「余瀬の昔 我さとは関街道の粟野宿」
白旗城の名は、源頼義・義家父子が奥州の安倍頼時を討伐に出かける際、
この山に白幡をひるがえし、軍をそろえたことにはじまります。
源義経は、治承4(1180)、藤原秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等を従え鎌倉へ参じます。
源義経も、祖先の例にならってこの山に立ち寄ったといわれています。
義経が奥州から鎌倉に上る際、那須資隆の子・為隆、宗隆(与一)と主従の契りを結び、
その時に築かれたのが義経塚と言われています。
金属製の新しい鳥居が奉納されています(平成23年11月23日建立)。
「賀茂神社のゆらい」によると、
源頼義・義家父子は本社に戦勝祈願をしました。
義経はその昔頼義父子がこの地で軍勢を揃えた事を聞き、
白旗山に旗を立てて兵を募り、為隆と与一が馳せ参じます。
義経は本社に戦勝を祈願し、白旗山の南端に塚を築き(義経塚)白旗観音を側に
創立しました。」
与一が使った矢の産地に、与一が創建した直箟神社があります。
「金丸八幡宮に一竿より二股に分かれた竹が古来より神宝として伝わっている。
金丸八幡宮の森と、向かい側の白旗山との間に、直箟という山があった。
あるとき与一に、この直箟の森に生えている二またの竹で製した弓は、
必ず一発必中で射ることができるという夢じらしがあった。
それで与一は直箟の森に行ってさがしたところ、夢の中で見た二股の
矢竹があった。扇の的を射た矢は、この二股竹で製した弓矢だと伝えられている。
直箟の森にあった直箟神社は、那須与一が屋島の合戦の後、矢竹を奉賽するために
創建したと伝えられている。」(大野氏の記述を引用)
那須郡誌(大正13)によると
「直箟の森は、川西町大字余瀬字直箟の南にあり、与一の矢箟はこの森の篠にてつくられた。
2本並んで節がそろって発生。与一は直箟神社を建立し、祠官を置いてこれを守らしむ。
この祠官は直箟氏を称した。直箟氏は現在は農を営み、直箟氏の私社に帰して衰微。
那須郡は古来から弓矢の産地のようで、正倉院御物に下毛野那須郷と記された矢束があり
余瀬の地は古くから弓矢を産し、那須郷の貢物として、朝廷に納められていたのかもしれない。」
等の記述があります。
同じく那須郡誌によると、芭蕉を金丸八幡宮へ案内する途中、直箟神社に案内し、
与一の扇の的の弓矢の産地であることを説明したが、翁の感嘆を惹くことがなかったので、
記録にとどまらなかったのだろうとしています。
【直箟神社の現況】 大田原市余瀬
現地看板地図に「本直箟明神跡」があり、直箟の森は切り開かれ田んぼになっています。
享保年間に移転したらしい直箟神社を見つけました。
白旗城跡にある義経塚の南にあります。
参道の石階段は荒れ放題で体をなしていません。参道からは来られないでしょう。
倒壊しまくりの石板がごろごろ、祠も崩れかけ傾いています。
朽ち果てていくこと必定の印象です。どうにかなりませんかね。
黒羽藩主大関政増に嫁いだシャン姫(徳川家康の娘)の自仏「木造阿弥陀如来立像」が本尊。
栃木県指定文化財です。
「重要文化財 阿弥陀如来立像」の石碑が横倒しになっていましたが、立ち直っているでしょう。
ご本尊は、長松院法王寺(シャン姫の開基)の本尊仏でしたが、長松院法王寺は
明治初年廃寺(黒羽田町西崖共同墓地に碑が残る)となり、
西教寺の本尊仏として迎えられています。
「かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良」の句碑があります。
正教寺近くに「鹿子畑翠桃邸跡の入口」の石柱があります。
黒羽町教育委員会昭和59年3月とあります。
この案内柱の細道に入ってすぐに鹿子畑氏館跡があります。
元禄2年(1689)4月、芭蕉は黒羽を訪れ、翠桃宅に5泊、桃雪邸に8泊と長期滞在します。
兄弟は、江戸に住んでいた頃、芭蕉の俳諧を学んでいました。
兄弟は親類・知人を総動員して師を厚くもてなし、郊外の寺社・名所旧跡を案内しました。
鹿子畑翠桃墓地は大田原市指定史跡となっています。
旧黒羽町説明板によると、
「鹿子畑氏はもと大田原氏に属した。
鹿子畑能登の代に高増が大田原氏から出て大関氏を継ぐに際し、
能登は少年高増の後見人として来たり、白旗城下の余瀬に居を構え子孫に伝えた。
後の代に黒羽堀之内に移住し、翠桃の邸宅跡は土塁が周り、土手の内と称された。
現在は水田と化し、この北隣に墓地のみが残る。(以下略)」
さくら市鹿子畑の鹿子畑氏館は、高増に従って鹿子畑氏も余瀬に移ったので、廃館となります。
翠桃の父高明の墓碑が並び建っているとのことですが一番右かな?
鹿子畑左内高明は、黒羽藩主増親と、その後を継いだ藩主増栄の下での家老で、
正室は月桂院(家康の娘「シャン姫」の娘)の娘です。
藩主増栄の下で、藩主の意向を受けて徹底的な検地を行い、
検地は給人に対しても容赦なく行われ、様々な改革を行います。
給人たちが反発、家老を切腹させようと図りますが失敗(寛文5年(1665))。
藩主増栄はやむなく寛文7年(1667)鹿子畑高明を追放しますが、
給人たちも翌寛文8年(1668)にそろって追放となります。
高明は兄弟を連れて江戸在住の岡備前守の臣・細野方へ寄寓し、
黒羽藩籍を没収されていたために岡と改性します。
追放を受けてから12年後の延宝7年(1679)、黒羽に戻ります。
鹿子畑高明の長男で、名は高勝。桃雪は俳号。
母(月桂院の娘)の実家である浄法寺家を継ぎ、
黒羽藩城代家老となり図書(ずしょ)と称しました。
藩主大関増恒(満1歳7か月で藩主を継ぐ)を助け、芭蕉訪問時は29歳(数え)の城代家老。
芭蕉の黒羽訪問時は、藩主は満2歳5か月(数え4歳)江戸屋敷在住で、
領地に就いたのは宝永2年(1705)でした。
図書は晩年致仕(ちし:官職を退いて引退)して随如軒と号しました。
浄法寺図書夫妻の墓碑は大雄寺にあり、側に図書の祖母である月桂院の宝篋印塔があります。
鹿子畑高明の二男で、名は豊明。翠桃は俳号。
芭蕉が黒羽を訪問した元禄2年4月の直前の1月に、鹿子畑高明は亡くなり
兄の高勝が養子となり浄法寺家を継いだため、鹿子畑家は豊明が継ぎます。
単性無縫塔(丸い石塔)が翠桃の墓碑です。
鹿子畑高明の娘で、兄弟の妹。修験光明寺津田源光に嫁ぎます。
高明の娘の墓碑も並び建っているとのことなので、右隣の墓碑かな?それとももっと右?。
<修験光明寺>
説明板などが残るのみ。元々は与一が建立。
桃雪の妹が、津田源光(修験光明寺権大僧都)の妻でした。
津田住職は芭蕉をここにお誘いしています。
明治初年に廃寺となっています。
那須郡誌によれば「修験道の光明寺(現存して津田氏と称す)」とあり
少なくとも大正時代にはまだ建物は現存し、津田氏が廃寺を守っていたようです。
大関高増 -1578 1529〜1598
清増1578-1587 1565(高増の次男)〜1587
晴増1587-1596 1560(高増の長男)〜1596
大関資増1596-1605 1576(高増の三男)〜1607 関ヶ原の戦い後、家康より加増され大名となる。
大関政増1605-1616 1591(晴増の長男)〜1616.7.13 正室はシャン姫(1593〜1662)
子は、高増(長男)、増広(次男)、娘(那須資重継室)、娘(浄法寺茂明室:月桂院)
大関高増1616-1646 1611(政増の長男)〜1646.9.30 母はシャン姫。娘(浄法寺高政室)等。
大関増親1646-1662 1635(高増の長男)〜1662.4.1 嗣子無く早世。
大関増栄1662-1688 1639(高増の次男)〜1688.12.13 兄増親に実子なく弟の増栄が継ぐ。
大関増恒1688-1738 1686.11.19〜1759 増栄の孫、父増茂が早世(1688.10.22)のため継ぐ。
江戸在住で領地に就いたのは宝永2年(1705)。
松尾芭蕉1689年4月 黒羽訪問
本殿と楼門は国重要文化財に指定。
手水舟は文化財となっています。
寛永19年(1642)黒羽城主大関土佐守高増が、氏神である那須神社に祈願成就処として奉納したもの。
源頼義、義家親子が、戦勝祈願したと伝えられます。
<楼門>
<境内社>
那須神社境内案内図によると、右から高良社、淡島社、足尾社。
しかしながら、足尾社とされている社には、わらじの奉納なく、
高良社とされている社に、わらじが奉納されています。
もしかして足尾社は一番右の可能性ありですかね?
<拝殿/本殿>
本殿は、国の重文指定です。
<金丸塚>
金丸塚の南が南金丸、北が北金丸となります。
金丸塚の案内板が新しくなっていて、古い板は横に放置されていました。
放置されていた案内板 以前の案内板
<境内社>
金丸塚の右に神明社、左に愛宕社。
くらしの館からの道沿い。
作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祭った社。
石の鳥居にも、いわれなどが記されています。
碑が2つあります。
「秣負おふ 人を枝折の 夏野哉 芭蕉」芭蕉句碑(昭和33年(1935)建立)
「武士の矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる那須の篠原」源実朝歌碑
<鏡が池・狐塚祠>
玉藻伝説のある鏡が池です。狐塚祠の鳥居と狐塚祠があります。
「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。」(おくのほそ道)
「古墳」は、神社の1kmほど北東の旧大田原市との境の県道際、「篠原境」バス停留所の近くにあります。
「狐塚之址」(昭和21年)の40センチほどの小さい石碑(昭和21年)があります。
那須郡誌によれば、元々は「古塚」だったのを、九尾の狐の伝説の篠原にあるから狐塚と書くようになり、
隣村との境界論に大岡裁きに篠原の勝訴となります。
「川西町(黒羽町)大字蜂巣の西北隅、金田村(大田原市)大字小滝との境界線に
狐塚(又きつね塚)と称する円墳がある。
蓋し本義は古塚(こづか)であるのを、九尾の狐の伝説を生んだ篠原地内にあるので、
狐塚と書し、やがて「きつね塚」と訛ったのである。
併し古き絵図面には狐塚とある為め、小滝村方と秣場境界論に、
尾多賀村(蜂巣)に属する塚だと主張して、
大岡裁きに勝訴となったのは或は嘘から出た誠ではなかろうか」(那須郡誌より)
芭蕉が黒羽滞在時に訪れた地です。
芭蕉「木啄も庵は破らず夏木立」
仏頂和尚「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」
の句碑があります。
「かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良」
矢板から県道52号を進み、三叉路交差点を左手の栃木県立那須学園に沿って左折。
箒川にかかる「かさね橋」の橋の両端にブロンズ製の碑があります。
薄葉からなんじゃもんじゃ通に入る直前に、曽良の「かさねとは〜」句碑があります。
昭和51年建立(那須野文学散歩会)。