Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 大関横丁/黒羽藩大関屋敷

  ○ 大関横丁由来之碑
  ○ 大関横町説明板
  ○ 第3三河島ガード壁画
  ○ 大関屋敷跡
  ○ 大関屋敷跡界隈


大関横丁由来之碑 荒川区南千住1-1

 大関増業の偉業を称えた碑が小学校の脇にあります。

(刻文)
「大関横丁由来之碑
下野国黒羽藩大関増業公は智徳兼備の英傑にして藩政を行ふに教育を以てし自一千余巻の書を著しているが特に黒羽藩日本書紀三十巻同文字錯乱備考三巻より六吏兵随二十三巻を経て止才枢要五百二十九巻に主たるものを体系の根巻とした中でも止才枢要は百七十六巻を伝記資料篇三百五十三巻を本文とする科学的編慕法による構想雄大内容充実世界に誇るべき不朽の名著と云はれる在職十三年にして病の為引退して此処箕輪の別邸乗化亭に住み括嚢齋と号し奇方歌道茶道等に精通し人心救済に盡力したが弘化二年(一八四五)三月十九日六十五歳の生涯を終った大正十三年(一九ニ四)三月十一日特旨を以て正四位を贈られた世人大関公の偉徳を讃えて此処を呼ぶに大関横丁と稱へた
  昭和三十九年十月 大関横丁吏蹟保存会」

    
 

大関横町説明板 荒川区南千住1-6

 大関横町とありますが、横丁の間違いですかね。
 明治通りと常磐線の交差の歩道にあります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 大関横町
 大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住一丁目一〜八番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川一丁目三十六〜三十八番付近)があった。
 明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約四メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。
  荒川区教育委員会」

   
 

○常磐線第3三河島ガード

<南千住側> 荒川区南千住1-8

 大関増業のストーリーが再現されています。
 増業が研究した織物(染色法)や甲冑が配置されています。
 平成25(2013)年の制作です。

   

   
 

大関屋敷跡 荒川区南千住1-13-20

 説明板は、荒川区社会福祉協議会の建物の前にあります。
 屋敷があったのは、説明板の反対側となるヨークフーズのところです。
 大関家の菩提寺である大雄寺のホームページに、
 「黒羽藩主第31代大関増裕「夫婦して江戸の町々を乗りあるき 異国の真似する馬鹿の大関」と評判となった。
 陸軍奉行、海軍奉行さらに若年寄まで昇進した。」とあります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 大関屋敷跡
 下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(一六六一)、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は、現在の南千住一丁目一〜八番・十・十一番の一部の辺りと推定される。
面積は抱屋敷を含めて八千百坪(約ニ万六千七百平方メートル)であった。
 黒羽藩二十七代の増業は、膨大な図書の編纂と藩政改革で知られる。文政七年(一八ニ四)の隠居後、この下屋敷に閑居した。
 また、十五代の増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活躍している。
  荒川区教育委員会」

    
 

「江戸切絵図」

 江戸切絵図に「大関信濃守」屋敷が見えます。

  


大関屋敷跡界隈

<極楽荘> 荒川区南千住1-13-21

 瓦屋根の上に動かない鳩が2羽います。
 玄関の奥に観音様が祀られています。

    
 

<稲荷大明神> 荒川区南千住1-13-21

 極楽荘の手前スペースに、稲荷大明神、お地蔵さまがまつられています。

     


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