○ 華厳の滝
○ 龍頭の滝
○ 湯滝
○ 霧降の滝
○ 方等滝/般若滝
○ 裏見の滝
○ 寂光の滝
○ 白糸の滝
○ 素麺の滝
奥日光三名瀑「華厳の滝」
岩盤の中を一気に100m降りる華厳滝エレベーターで、滝正面の観瀑台へ。
<県営華厳滝観瀑台>
昭和54年に整備された、無料の県営華厳滝観瀑台からの眺め
<発電所>
華厳の滝の反対側の下を見ると、行くことができない古河日光発電の小屋が見えます。
華厳の滝エレベーターの右手に、明治天皇が立ち寄られた碑があります。
<明智平展望台>
明智平(標高1,274m)から、ロープウエイで、明智平展望台(標高1,373m)へ。
<白雲滝/鵲橋>
現在は行くことができなくなった白雲滝と鵲橋が見えます。
明治時代後半の案内書にはここへ行く華厳瀧壺道が必ず言及されているほど有名でした。
「左 華厳瀧壺 白雲瀧 涅槃滝 道」
「明治三十三年十月開鑿竣工 星野五郎平」
いろは坂下り、一方通行が始まるところに、今は失われた華厳瀧壺への道の道標だけ残っています。
奥日光三名瀑「龍頭の滝」
紅葉の時期は、大渋滞します。
暗いうちに出て、渋滞する前に帰ってくると渋滞を避けられます。
奥日光三名瀑「湯瀧」
湯ノ湖湖尻は、湯ノ湖から湯滝となって流れ落ちるビュースポットです。
また、連山が望めるナイスビュースポットでもあります。
湯ノ湖湖尻より連山を望む
いろは坂下りの剣が峰展望所から、遠方ですが2滝が見えます。
左:方等滝 右:般若滝
方等滝は、砂防堰堤の下なので、ちょっと風情がそがれます。
<古道>
日光山志に掲載されている方等滝/般若滝を見ると、江戸時代の中禅寺湖への古道は、
方等滝/般若滝の滝壺下を通っていたようです。
桟橋から間近に滝を見物できたようで、観瀑台も描かれています。
<古道>(田山花袋の描写)
「東京近郊一日の行楽 中禅寺行き」(田山花袋 博文館 大正12)
方等滝/般若滝に、滝見茶屋があり、ここから長い坂が始まります。
「新道を行けばそう大して苦しいこともないが、一里以上も遠いから、
何うしても、旧道のほうを歩いて行くということになる。」
「方等般若の茶屋附近から仰ぐと、中の茶屋は非常に高く、あんなところまで〜」
「山水小記」(田山花袋 富田文陽堂 大正6)
「電車が馬返まで通じたので、大平おほたひらまで上つて行く嶮しい舊道は、
今は都會の人達に取つて丁度好い山路になつた。
かれ等は袒はだぬぎになつたり、尻端折りをしたりして面白がつて登る。
女も「はア」などと呼吸をつきつき登つて行く。
女學生の團體では、「まだ中々でせうかね」などと言つて立留つて喘いでゐる。
中の茶屋から見た谷は頗る好い、やがて不動坂を上り盡すと、
大平のさびしい林が來る。山毛欅ぶなや榛はんや白樺の幹の林立してゐるさまも見事である。
つゞいて華嚴の休茶屋が來る。すさまじい瀑は然だうぜんとして深い谷に向つて瀉下してゐる。」
裏から滝を見ることができた場所に、荒沢不動明王。
説明板に「寛永元年(一六二四)奥州の出羽三山より羽黒山荒澤不動明王が、この地に勧進されました。」とあります。
松尾芭蕉も、この滝を見ています。
「日光山志」(植田孟縉 文政7[1824]年)に掲載の「裏見ヶ瀧」及び
「日光山道志留辺」(小島鶴次郎 清遠山房 明20.7)に記載の「裏見瀧」です。
裏から見る道筋が、明瞭に描かれています。
<六十余州名所図会 下野 日光山裏見ノ滝(広重)>
広重が描いた裏見ノ滝です。
<日本名勝図会 裏見ヶ瀧>(小林清親 明治29年)
小林清親が裏見瀧を描いています。左手に荒沢不動明王も着実に描かれています。
<芭蕉句碑>
田山花袋によると、裏見の瀧の入口に、芭蕉句碑があったが、
水害後に訪れた時は、あったはずの場所に芭蕉句碑がなくなっていたと書いています。
「渓の入口にあった芭蕉の「しばらくは瀧にこもるや夏のはじめ」といふ句碑
も何處に行ったかあたりには見當らなかった。」
「あら山の瀑のほとりに唯一人すめる少女子さびしからずや」と、
自分が詠んだ句を紹介しています。
今も、芭蕉句碑は裏見の滝にありませんが、安良沢小学校に芭蕉句碑があります。
<芭蕉句碑> 安良沢小学校 正面玄関向かって右 日光市久次良町1777
「志はらくは 滝にこもるや 夏の初」
国道120号から裏見の滝へ行く道の反対側の道を行くと安良沢小学校があり、
校舎の前に、芭蕉が裏見の滝を訪れた時の句碑があります。
この道をさらに進むと大日堂跡です。
解説板
「松尾芭蕉句碑 四
志はらくは 滝にこもるや 夏の初
芭蕉翁 おくの細道
うらみたきの吟」
松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳人。伊賀上野の生まれ。
名は、宗房。桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号をもつ。
元禄2年(1689年)日光裏見の滝へ立寄った時の句。
「夏」とは、夏行・夏安居・夏篭などの略で、僧の修行のことをいう。
碑は、小杉放菴の書で、昭和31年5月、安良沢小学校創立記念に
日光市と関係町内が建立。
日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市」
※日光文学碑散策路 芭蕉のみち
裏見の滝から荒沢不動尊、安良沢小学校前の句碑、大日堂跡の芭蕉句碑、
日光植物園を巡る散策コース
表面 裏面
<道標 裏見滝道> 日光市久次良町
「右 荒澤裏見滝道」と刻まれた道標です。左は中禅寺湖道の文字。
大きな庚申塔の台石も道標です。「右 川又 荒沢 左
中禅寺 足尾」と刻まれています。
<白糸瀧が素麺瀧として描かれている>
「日光名勝十二景うち四景 3 滝尾素麺瀧」(明治14年) 画像
「日光山十景 9 素麺滝」(明治19年) 画像
「日光山名所之内 素麺之瀧」(渓斎英泉) 画像
上記2つの画は、滝尾にある白糸の瀧が素麺瀧として描かれています。
渓斎英泉の浮世絵は、JTの解説では龍頭の瀧としていますが、
石地蔵が描かれていて、白糸の瀧にも左岸下ですが石地蔵があります。
白糸の瀧かなと思えますし、本来の素麺瀧とも思えるし断定できません。
「日光山名蹟誌」(井上茂兵衛明23.5)では、白糸の瀧が「そふめんタキ」と記されています。
<明治時代の誤り>
明治時代は、白糸の瀧が素麺の瀧であると一般的に認識されていたようですが、
いつくかの日光案内本では、それは誤りとしています。
(例)
「新撰日光山誌」(小堀源三郎編 万象堂 明15.8)では、
「含満の南に在り」「滝尾の白糸瀧を素麺瀧と唱えて
十景の中に加ふるは大なる誤なり」としています。
(例)
「日光名勝案内記」(島村忠次郎編 鈴木角太郎発行 明32.5)の白糸瀧の説明では、
「世人誤りて素麺瀧と唱ふれども素麺瀧は他にあり。」
<江戸時代も>
日光山志の瀧尾瀑布の説明では、
「白糸瀧とも唱ふ。〜 此瀧を素麺瀧といふは誤なり。素麺瀧は含満の南にあり。
爰の山谷を素麺谿といふ由ものに見えたり。」
「下墅國日光山之圖」(承応2(1653)年)には、瀧尾に「そふめん谷」があります。
これは正確な表記と思います。
江戸時代も白糸瀧を素麺瀧と一般的に認識されていたようです。
別所の説明に日光責の道具が並んでいるとの記載や、
ここら一体が素麺谷であることなどが記されているので、
素麺谷にある滝を、素麺瀧と認識しても自然かなとも思います。
でも、弘法大師由来の白糸の滝が、
満願寺の一僧侶によって滝の名前が変わるのはよろしくないでしょう。
そうめん谷にある白糸の滝の名前は変わらず、周辺の滝は素麺の滝となっているのも頷けます。
塩原古町温泉の御所の湯が元は鹿の湯だったのが、喜連川公が入浴して御所の湯となりましたが、
後に宇都宮公が入浴しても、御座の湯と名前は変わらず、そのまま御所の湯でした。
よりご威光の大きい方の名前が踏襲されるということかと思います。
<素麺瀧>
「日光山地図」によると、素麺滝は、含満渕の南に描かれています。
鳴虫山の北の麓、ヤキバ沢にある素麺の瀧が紹介されている画です。
「日本之名勝」(瀬川光行 編 史伝編纂所 明33.12)
「素麺瀧は、鳴虫山の北の麓にあり、」と記載されているので、
白糸の滝と取り違えてはいない写真と思います(白糸の滝に見えますが。。。)
「日光山名所案内記」(井上茂兵衛 編 光陽堂 明29.5)
白糸の滝及び素麺滝とも紹介しているので、取り違えていない画と思います。
日光山志では、
「含満の南に在り。瀧の傍に石地蔵を安置。此山谷を素麺谿と曰ふ」
鳴虫山の本来の名前は「大懺法嶽(たいせんほうがたけ)」。
後ろの山が「小懺法嶽(しょうせんほうがたけ)」
ここの谷も、素麺谷なんですね。石地蔵が描かれています。
鳴虫山、二宮山、松立山、冬峯は、行者業行の地だったので、
そうめん事件の現場は、ここだった可能性や、何らかの関係があるかと思います。
素麺瀧は、他には荒沢素麺瀧があります。裏見の滝の手前にあります。
また、清滝寺には、そうめん地蔵があります。
修験道に関係するところに、なぜこんなに素麺瀧、素麺谷、そうめん地蔵があるのかな。
山伏が無理に勧めるそうめんを、そうめん地蔵が平らげるという話です。
日光の強飯式のルーツとなっています。
説明板
「将軍地蔵
源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇のため進めません。
宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、
勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
室町時代のころ、ここから日光山に修行に行ったお坊さんが
意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられ気絶しました。
別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。
お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。
これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。
戦国時代に那須勢が攻めてきて焼打ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり
奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となり、
遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。」
<ヤキバ沢へ>
鳴虫山への登山道は掲示が出ていますが、ヤキバ沢へは、掲示のない道を入ります。
ヤキバ沢にかかる橋を渡って、日光宇都宮道路をくぐって、道路からヤキバ沢の土手にあがります。
途中、東京電力の看板が転がっていました。
東京電力の保養林のようです。
【鳴虫山歩道】
参考までに、こちらは鳴虫山歩道
<最初は堰堤が続く>
大谷川へ流れ込む下流方面は、堰堤が3つ、これを過ぎると石地蔵。
<石地蔵>
素麺滝始まりの手前、ヤキバ沢右岸に、石地蔵があり、昔の名勝の雰囲気が残っていました。
<1段目>
ヤキバ沢は渓流の様相を示しだし、小さな滝というか段差が続きます。
どれが1段目か?
<2段目、3段目>
2段目は、右岸から水量の少ない滝が落ちてきている滝。
鳴虫山の北の麓に流れるヤキバ沢の素麺滝は、4段の滝。
ここまで見て、その先は自分の技量では無理そうなので、引き返しました。