高原新田宿 〜塩原元湯から、そして川治の高原へ〜
○高原磁石石「文久三年下ル」
○高原磁石石(鬼怒川公園駅)
○高原新田宿 塩原元湯から、そして川治温泉の高原へ
○旧高原新田宿(鶏頂開拓)
○鶏頂山神社(里宮) 川治温泉の高原
○鶏頂山神社一の鳥居
○骨接地蔵 川治温泉の高原
○川治の源泉 川治温泉の高原
○川治温泉の高原づくし
栃木県には磁石石が3カ所あります。いろは坂、鬼怒川公園駅前、高原新田。
高原新田の磁石石には「文久三年下ル」と刻まれており、歴史的価値から史跡に指定されています。
「文久三年下ル」と石に刻まれた文字がはっきりと読み取れます。
文久3年(1863年)、栃久保新道が開通し、高原峠往還は廃道、高原新田宿は廃宿となります。
塩原湯元が地震で壊滅し、高原新田に移った人々は、今度は廃宿で生計の糧がなくなり、
高原を下り、その地を高原と名付けました。
川治温泉における高原の飛び地は、高原新田村のこのような経緯があり、多くの痕跡が残ります(別途記述)。
「文久三年下ル」ここから川治に高原を下り、その地を高原と名付けました。
行き方
高原新田宿は、日塩もみじラインの脇にあり、現在の鶏頂開拓です。
磁石石は、事前に場所を知っておかないと、たどり着けません。
地元の人に聞いてもわからない。知っているのは高原問屋敷跡の家の人だけ。
旧高原問屋屋敷跡から西に向かい、墓地を通り過ぎ、突き当たりの柵から外に出ます。
柵の外に出てからは、電話線(川治温泉に至る)に沿って水平に進むと、
松(目印となる)が見え、そこに日光市史跡の標板があります。急坂に出たら行き過ぎ。
辺りは、大きな巨石がゴロゴロありますが、日光市史跡の標板の傍らの巨石が磁石石です。
鹿が侵入しないよう、柵を開けたら閉めましょう。
高原の磁石石が、鬼怒川公園駅前の道路を渡った歩道の一角にもあります。
磁石石は、落雷に伴う大電流によって強い磁気を帯びたもの。
高原新田宿にはいくつもあったとのことで、相当の雷の多さです。
いろは坂下り「中の茶屋」跡にも巨石「磁石石」があります。
鬼怒川公園駅前にある磁石石は、高原新田宿にいくつもあった磁石石のひとつを
昭和37年12月10日駅開業時に運んできたもの。
電車から降りてくるお客さんのお金を吸い取ろうと縁起をかついだものです。
この石に触ると宝くじに当たるとか金運に恵まれるとか。
川治共同源泉の湧出地の住所は、川治ではなく、高原となっています。
塩原元湯→高原新田宿(現在の鶏頂開拓)→川治温泉の歴史をたどります。
これらの場所は密接に関連しています。
[塩原元湯が壊滅し高原へ]
江戸時代の大地震で、塩原元湯は壊滅し、庄屋ほか住民の一部は高原新田に移ります。
湯泉寺も塩原元湯から高原に移ります。
[生計の糧を失い川治へ]
文久3年(1863年)に、五十里村〜藤原村間を高原峠を通らずに、現在の川治温泉を経由する
新道(栃久保新道)を幕府が開削しました。
高原峠往還は廃道となり、高原新田村の住民は生計の糧を失います。
高原新田村を藤原村字栃久保へ移転するため8軒に合計100両が手当され、
翌元治元年(1864)3月には移転を完了することとなりました。
(栃木県寄託文書「旧高松國三郎家文書【解題】」を参照しました。)
[高原の飛び地]
川治温泉の住所を見ると、3つの住所に分かれます。
・日光市藤原(ホテルニュー川治等)
・日光市川治温泉高原(川治ふれあい公園等)
・日光市川治温泉川治(薬師の湯等)
川治温泉の柏屋から登隆館までの一画が高原となっています。
高原荘(跡地は川治ふれあい公園)は、高原の名前をそのままの宿名でした。
共同浴場源泉を使用するのは、登隆館、柏屋、川治ふれあい公園足湯(旧高原荘)と、高原の宿です。
薬師の湯も共同浴場源泉を使用していますが、
昔の川治の湯の露天風呂はリブマックスリゾート川治から階段を下りたところにあり、
川治温泉の中心地は、近江屋(→川治温泉ホテル→蘭綾→リブマックスリゾート川治)でした。
昭和初期の岩窟風呂(川治温泉ふれあい広場展示)
薬師の湯の源泉と、骨接地蔵も高原の飛び地です。
川治温泉の鶏頂山神社(里宮)(日光市川治温泉高原39番)も高原の飛び地です。
鶏頂山神社は、高原新田の守社でした。高原新田の住人は川治高原に降りた後、里宮を創建しました。
高原新田村から下りてきた住民が移り住んだところ、高原の住民が祭った場所、
高原の住民が関係した源泉は、高原の地名になっています。
市町村合併で新日光市になって新住所になった後、川治では地元の要望を受け住所表記が見直されました。
歴史への思い入れが今でも強く残っています。
川治温泉高原は、歴史的に塩原元湯とつながっています。
○塩原元湯と高原、川治
寛永15年(1638年)
塩原湯本で高尾大夫生まれる。
承応元年(1652年)
大地震で塩原湯本の源泉湯口の一部がふさがる。
承応3年(1654年)
大地震で源泉湯口がふさがり、生計の全てを失った6戸が高原新田(現鶏頂開拓)に居を構える。
万治2年(1659年)
大地震で裏山崩壊、主力源泉の帯刀湯源泉ふさがる。湯本は壊滅状態となる。
寛文5年(1665年)
庄屋外5家族も高原新田に移る。下総から転入してきた香取一族とともに高原道を開削。
延宝3年(1675年)
湯泉寺が高原に移る。
天和3年(1683年)
日光大地震で湯本壊滅。住民は新湯に移動。
五十里湖出現。会津西街道遮断、山越えとなる。
享保8年(1723年)
海抜け。川治の湯の発見。
文久3年(1863年)
新道開削により、高原峠往還は廃道、高原新田村廃村となる。
高原の住民8軒に補償が手当され、翌年3月までに、現在の川治におりる。
高原新田の磁石石に、後年、文久3年下ると陰刻する。
(※旧藤原町のホームページが存在していた時の記載、栃木県記録、塩原郷土史研究会の記載を
突き合わせて整理した。)
川治温泉からの平方山自然遊歩道は、昔の川治古道(会津脇街道)で、
遊歩道の終点の駐車場から高原新田へ会津脇街道は続きます。
NTTの電話ケーブルの支柱も高原新田へ続きます。
日塩もみじライン使って高原新田へ。磁石石で、NTTの電話ケーブルに、こんにちは。
会津西街道を行けるところまで、きぬがわ高原CCまで行きました。
○十九夜塔
享保9年建立。日光市の文化財解説の写真を見ると、
腕が欠けかなり損傷していた十九夜塔もお地蔵さんも修復されています。
修復後、別の場所に移されています。十九夜塔も山を下りた?
確認し行ったら、元の場所にそのままの姿で十九夜塔はあります。
日光市の文化財「旧高原新田村の十九夜塔」(日光市藤原)享保9年建立。
同じ物が2つあるということ?
高原問屋屋敷跡。日光市教育委員会の説明看板があります。
湯泉寺墓地跡には、多くの墓碑があります。
○磁石石
高原新田宿と、鬼怒川公園駅前に置かれています。(記述済)
きぬがわ高原カントリークラブへ向かう途中左側にあります。
塩原湯元が壊滅した万治大地震の翌年、万治3年(1660)建立の法華題目塔道標。日光市史跡。
「南無妙法蓮華経 左会津道 右塩原道」
奉納の手水の渕には、鶏があしわわれています。
○その他
灯篭や、庚申供養塔、破産したスキー場
鳥居をくぐり階段を上ると鶏頂山神社。
神社から振り返ると、温泉街がよく見えます。特に、高原を住所とする宿々が正面に見えます。
神社の住所は高原の飛び地。高原の住民が関係している場所は、みんな高原の飛び地。
高原新田宿(現 鶏頂開拓)と川治温泉を繋いだ川治古道(会津脇街道)は、
高原新田から降りてきて、鶏頂山神社を経由し、終点は登隆館と川治ふれあい公園(高原荘跡)の間。
国道121号の野沢橋の脇に栃久保新道の旧野沢橋があり、その袂に鶏頂山神社一の鳥居があります。
かつては、竜王峡近辺の方々の参拝道でした。
今は、破産したスキー場の脇にある鳥居から登り、その鳥居が一の鳥居として認識されているようです。
野沢は虹見の滝で鬼怒川に合流、上流には太閤下ろしの滝があります。
川治温泉発祥の近く、川べりの崖にある地蔵様。
昔は旅館に泊まるお金の無い人々が近在の民家に泊まり、地蔵の下の露天風呂に入り湯治をしていました。
温泉の効果で歩けるようになり、持参した杖などをお地蔵さまに奉納した場所として有名でした。
住所が:日光市川治温泉高原46
ここの住所は本来は川治で、骨接地蔵の上にある川治仙閣堂の住所は川治温泉川治です。
高原は飛び地ですが、骨接地蔵と川治共同浴場源泉の湧出地はさらにその飛び地の住所です。
(参考)
川治仙閣堂 川治温泉の川治
川治温泉男鹿川遊歩道の一角にあるお堂。古くはこのお堂の下に温泉が湧き出ていたとのこと。
骨接地蔵の横の急な階段を遊歩道から登ります。
骨接地蔵の真上にあるこちらの住所は、日光市川治温泉川治278。
(参考)
川治温泉神社 川治温泉の川治
寿庵(旧東山閣)の露天風呂から見える太い竹林が見事ですが、その竹林に川治温泉神社があります。
昔は街道沿にあったとのこと。
そのままあがっていくと浅間山(せんげんやま)の頂上に至ります。途中祠があります。
川治温泉は、川治と高原の自治会がそれぞれありますが、住所が川治なので、川治系かな。
こちらの住所は、日光市川治温泉川治173
寿庵の露天風呂から、温泉神社の屋根がちょっとだけ見えます。
寿庵で使用している川治共同源泉は、一柳閣・界川治でも使用。寿庵の湯舟は小さく、湧出地に近いので、ここの湯は鮮度良し。
元湯白井屋も共同源泉使用ですが、宿泊しないと入れないので、未体験。
共同浴場源泉だけ、住所が川治ではなく、高原の飛地なのです。
この高原の源泉を使用しているのが、薬師の湯と、高原の宿(柏屋、登隆館、高原荘=撤去)です。
<川治1号、2号>
こちらで記述
高原の湯を、高原の宿で、高原新田宿からの川治古道(会津脇街道)を下りた目の前!
高原づくしの【登隆館】
かなりくたびれている宿とは思います。しかしですよ、聞いてください!
湯舟の「外!」に溢れているお湯に驚嘆・驚愕です。
排湯管はつまっていません、凄い勢いで音をたててお湯を吸い込んでいます。
排湯が追いつかないのです。
桶を浮かべればぐるぐる廻りながら踊ることでしょう。
なにこれ!湯のせり上がり!
湯舟の底から湯が出ているのに、湯量が多く、湯面を突き破って盛り上がってくる。
湯舟に波紋が拡がっていきます。感動さえ覚えます。
薬師の湯、柏屋と同じ源泉であるはずなのに、かすかな硫黄臭。
湯量豊富、お湯がフレッシュ、お湯の質も上等です。
ただひたすら川治の湯を味わうのであれば、高原に思いを寄せて登隆館!
高原の湯を、高原の宿で、【湯けむりの里 柏屋】
源泉「共同浴場源泉」(湧出地:高原)は、「加温、循環、塩素」なので、お湯期待は禁物。
一柳閣に入湯時に上から見た柏屋。鬼怒川と男鹿川の合流地点に位置し、絶好のロケーション。
岩組の露天風呂からは、
・鬼怒川と男鹿川が見事にY字!となって合流
・野岩鉄道の鉄橋もよく見える(タイミング良ければ列車も見える)
・黄金橋がよく見える(埋蔵金伝説にちなんだ黄金橋ではありますが、橋の色は青!)
これらが、目の前に、ひとつの光景として映ります。
○四季の森「足湯」
柏屋の敷地内大庭園「四季の森」に四季の森「足湯」があります(2010年8月オープン)。
黄金橋を渡り、あじさい公園から眺めると、絶妙のロケーションの足湯です。
四季の森は、柏屋さんが川治温泉の庭として一般開放しているものです。
柏屋の日帰入浴受付は、平日のみに変更になっているので、利用できない時はこちらで。
薬師の湯の住所は川治温泉川治ですが、高原の源泉を使用。
周りから丸見えなのは、景観が良い証拠と思います。
薬師橋がよく見える、黄金橋も見えます。
柏屋の露天風呂が見える、一柳閣の露天風呂も見えます。
徒歩だと温泉街の中心地から薬師橋を渡ってすぐ、
車だと温泉街を通り過ぎ、看板の分岐を進んで蛇行道を降り薬師堂を過ぎると駐車場。
薬師の湯の駐車場に向かう途中、坂を下りきったところにあります。
元々は、五十里ダムの下流域に建立されていましたが、
2013年7月の豪雨の為土砂崩れにあい、新たな地として、温泉汲み場の横に建立されました。
五十里洪水の後、五十里男鹿川河岸を通りがかった妊婦が
岩の洞窟で無事元気な子を出産し、村に帰宅できたことに由来します。
<双体道祖神>
温泉汲み場の傍に、子孫繁栄を祈る意味があると言われる双体の道祖神があります。
ついでに子孫繁栄のおなで石と金精神について言及します。
○「おなで石」「金精神の祠」 日光市川治温泉川治17 日光市川治温泉川治22 松井様宅内
<おなで石>
戦後すぐに起きた鬼怒川の氾濫のあと、上流の川岸で発見された女陰形の自然石を、
松井土産物店の店主が店の前のこの場所に移して祀ったもの。
子宝を授かるために石をなでたところからおなで石と呼ばれます。
<金精神の祠>
おなで石の後ろには、数多くの金精神が奉納されています。
こちらのほうが目立つので、おなで石と勘違いする人、多そうです。
<鶏頂山神社(里宮) 子安神社/子宝神社の脇の金精神>
高原にも、金精神は祀られています。
高原荘は、2006年4月に閉館、取り壊され、川治ふれあい公園が2010年3月27日にオープン。
足湯が2つ「むすびの湯」「かわじいの湯」。
元湯 高原荘→更地
川治ふれあい公園
(説明板)
「ここ川治温泉郷が鬼怒川と男鹿川が合流する地点に位置することにちなみ、
出会いや縁結び、子孫繁栄の願いをこめ、それぞれの石(右が鬼怒川、左が男鹿川)を
抱き合わせた自然石の道祖神です。」