元湯
○ 塩原高尾の民謡詩碑
○ 元泉館【高尾の湯】
○ 大出館 女性内湯「高尾の湯」
畑下
○ 普門淵
塩の湯
○ 高尾太夫異説異耳
○ 高尾太夫が売っていた塩原の石
門前
○ 妙雲寺【高尾太夫墓】
古町
○ 高尾観音御宝蔵
しあわせ館
○ いろは紅葉 名妓塩原高尾太夫伝
高尾太夫の墳墓・碑(東京)
著作権の切れた昔本に掲載されていた楓川楼内湯旅館所蔵鉄斉の作二代目高尾の像です。
「楓川楼」は古町の温泉宿でした。現在もどこかで保管されているのかどうかわかりません。
高尾太夫は元湯で生まれました。
<元湯で生まれた 塩原高尾 紅葉も七滝 化粧石 漾太郎>
この碑は、元湯の3軒の旅館のご主人が中心となって平成3年6月21日に建立されたもの。
元泉館の高尾の湯(源泉名「高尾の湯」)の露天風呂からは赤川対岸に高尾太夫の詩碑が見えます。黄色丸印。
塩原温泉古式湯まつり(2017)では、激しい雨が多かったので、
もしや黒くなってないかな〜、期待通り黒かったです。
女将さん曰く「最近雨が多かったからねぇ。」
入浴後、見に行こうとするも、橋がありません。
女将さん「何度も流されたので、もう橋はかけないことにしたのよ、立派な碑を作ったんだけどねぇ」とのこと。
幻のスポットとなってしまいました。
<いちど二どきて 高尾の湯 三たび見かわす 玉の肌 漾太郎>
元泉館「高尾の湯」入口左の漾太郎氏筆の木板です。
温泉情緒が増します。
高尾の湯は、エメラルドグリーン、緑っぽい白濁、白濁、まれに黒湯。時間帯や天候で湯の色は色々。
源泉「高尾の湯」が、内湯、露天風呂に使われています。
○大出館 女性内湯「高尾の湯」
女性内湯に「高尾の湯」があります。女湯で写真撮れないので、パンフレットを撮影。
箒川が畑下の吊り橋の先で崖にあたり、大きく流れを変え、碧水となり淀んでいるところが「普門淵」。
普門は高尾太夫の弟で、画匠でした。
普門の釈迦涅槃像の巨絵画巻物が妙雲寺に秘蔵されています。
普門淵の由来としては、酔って淵に落ちて死んだ説と、自ら身を投げた説があります。
伝説の1
酒に酔えば人をののしり、意の欲するところにまかせて規則にはめがたい男で、
ある夕、乱酔し崖を過ぎて、誤ってこの渕に落ちて死んでしまった。寛永4年のこと。
伝説その2
妙雲寺の住職が、普門に涅槃像を描くことを再三頼んでいたのに、角屋という茶屋の女にうつつをぬかし、
筆をとらないので、住職が女に交渉してしばらく身をかくさせた。
そして普門におまえが堕落して筆をとることさえしないから、女は渕に身を投げたと嘘やら真実をとりまぜて
話すと、普門は後悔し一夜で涅槃の像を描き終え、渕に身を投じた。
後に角屋の女が出て来て普門を慕ってやはりこの淵に身を投じた。
(塩原温泉まちめぐりツアーに参加した時に聞いた話では、普門がいれあげた茶屋の角屋は、
今の湧花庵のところだったそうです。案内人は塩原を知り尽くしているので頭下がります。)
昔の塩原の案内本では、どれもその1の説が最初に紹介されています。
1枚目 普門淵 2枚目 湧花庵内湯から普門淵を望む 3枚目 山ゆりの吊橋から普門淵を望む
高尾太夫は、3歳(5歳説もあり)の時に湯本村から塩釜に引っ越してきます。
○高尾塚 那須塩原市塩原283-2(ホテル明賀屋駐車場内)
「1650年代に活躍した元湯出身の高尾太夫を供養するために立てられた石碑です。
2坪の地に石を二重に積み、その上に石碑(高さ100cm、30cm四方)が乗っています。
石碑には正面に「高尾塚」の3文字、他の3面には高尾太夫についての漢詩文が刻まれています。」
(那須塩原市サイト説明より引用)
「高尾塚」はホテル明賀屋(休館)の駐車場にあり、管理しているのは彩つむぎの女将さん。
高尾太夫について詳しそうです。
「小仙郷:塩原温泉紀勝」(明治32)の高尾塚の記述で、高尾の2句が紹介されていますが、
述懐 <誰やたれ誰れかは今日の夫ならん定めなき世に定めなき身は>
辞世 <寒風に もろくもくつる 紅葉かな>
述懐のほうは初めて見る句で、出典はなんでしょう?
地元民専用で一般入浴不可。当番日誌にはしっかりと「高尾の湯」と書かれています。
同じく塩釜にある、地元民専用で一般入浴不可の共同湯。
高尾太夫は紅葉を好みました。京都高尾にあるモミジを服章に用いていました。
高尾の紋所「いろは紅葉」に由来かと。
塩釜に住んでいた高尾太夫は、塩の湯で、あるいは、塩の湯から塩釜の蒸湯に来る湯治客に化
石(貝石と思う)を売っていた話が具体的で、これを採用したい気持ち。
高尾太夫は異説異耳多く「塩原名勝旧跡の伝説」では伝説が15個も紹介されています。
浄瑠璃が伝説になってしまい伊達候も迷惑であろうといった話や、勘違いが伝説になっている話も多いようです。
高尾の幼名でさえ、「志乃」「アキ」「あさ」「みよ」と、旧記では様々な名前で、とまどいます。
色々な説をまとめてみます。どれからも身売りだったことがうかがえます。
○その1
母ハルが再婚し、弟の門太が生まれ、高尾の家は貧しく、明賀屋の主人と妙雲寺住職の計らいで、
明賀屋に湯治に来ていた三浦屋が「あき」を引き取る事になった。
○その2
養父の長助、久しく病む。「あさ」を身売りし薬料とす。
○その3
水戸から温泉に逗留に来ていた人が「みよ」を見て、養女にもらい水戸へ連れ帰った。
高尾がみまかり、三浦屋より形見の硯箱、櫛笥、鏡台、鏡、小袖一かさね、
高尾が写したる草子類などが届けられる。
水戸の人は、住所を偽っており、「みよ」が高尾になるほどの玉種と見込み、親の弱みにつけこみ、
買って江戸へつれてきて、三浦屋へ売った。
○その4
新吉原三浦屋の主人が、明賀屋に投宿し、毎日塩釜を訪れ蒸湯に入浴していたところ
子どもたちが遊ぶ中に絶世の美貌の「あさ」を見いだす。
「栴檀は双葉より芳し」の諺を目の当たりにして、身の代金僅かに七両を償って連れ帰る。
○その5
高尾は、宿泊客に石(化石)を売りに来ている子どもだった。
塩の湯の明賀屋に吉原三浦屋夫婦と番頭の3名が投宿していたところ、
番頭が石を売りにきている娘が天津天女の再来かと疑われるほどであることに心づき、夫婦に話をする。
夫婦は番頭から話を聞き、石を売る「しの」を部屋に招いて石を買う。
その後も石を買い続け、学問と遊芸を身につければ、小野小町や楊貴妃に匹敵いやそれ以上になるだろうと確信。
親との交渉はすんなりまとまり、やがて江戸に連れ帰る。
その後、吉原の三浦屋の花魁として一世を風靡したのが万治高尾太夫です。
その後も、あまりにも諸説あるので省略します。
弟の門太は画家となり普門と称し、普門淵に名が残り、妙雲寺に涅槃像の絵が秘蔵されています。
「探勝行脚」(須藤鐘一著 三徳社 大正10年)にこんな記載があります。
<塩釜で木の葉や貝殻などの化石を売っている小さな店があり、化石はどこから出るのか聞くと、
「此の向の山奥から出るのでございますが、近頃は大分掘り荒らしてしまいましたので、
あまり出なくなりました。>
「貝石沢」は、鹿股川上流にある貝の化石が群集しているところです。
塩の湯の先、遊歩道入口の横にある消防団の小屋の左側から渓流へ下り、河原を下流に少し戻ると、
鹿股川と貝石沢の合流点です。
高村光太郎・智恵子は、柏屋旅館に泊まり、ここで写真をとっています。
高尾太夫が塩釜に住んでいた幼少の頃、家計は苦しく、貝石沢で化石を集めては、
塩釜の蒸湯の入浴者や、塩の湯の明賀屋の宿泊者に売っていたようです。
他にも、知られている木の葉化石以外に、箒川へ下戸倉沢が合流する少し上に、
大黒岩化石層群(市「天然記念物」)があります。
塩原では貝石が句碑の台石とか、旅館に置かれていたりします。
画像1枚目は明賀屋露天風呂、2枚目は貝石沢が合流したところ、3枚目は不動の足湯に利用されている貝石。
<いろは紅葉は 塩原高尾 笑顔かよわす 紋所>
<寒風に もろくもくつる 紅葉かな>
妙雲寺の高尾太夫墓碑の傍に<いろは紅葉は〜>の碑があります。
高尾太夫墓の玉垣の親柱に<寒風に〜>と刻まれています。
立入禁止のため、墓の前まで直接行くことはできません。カメラでズームして確認。
塩原商工会のリンクが切れているサイトに高尾太夫の墓の正面からの画像があります。
高尾太夫の墓は春慶院にあり、三浦屋から高尾太夫の母に送られた遺品に遺骨はないので、
分骨はされていないでしょう。
妙雲寺は、高尾太夫の遺品や弟の普門の絵を秘蔵しており、毎年法要も行っているゆかりのある寺です。
グリーンバレー休業とともに閉館した「高尾観音御宝蔵 しあわせ館」の建物が残っています。
出版祝いに集まった時の写真が、塩原もの語り館に展示されています。
後ろの緞帳の寄付者名もすごいのですけれどもね。