Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 高尾太夫の墳墓・碑 <東京>

  ○春慶院
  ○西方寺
  ○西方寺跡
  ○高尾稲荷神社
  ○駒形橋説明碑「君はいま駒形あたりほととぎす」


春慶院 台東区東浅草2-14-1

 高尾太夫の墓があります。
 四面塔の屋根には高尾の紋所「いろは紅葉」がはっきり確認できます。
 右面の蓮の花の左に、遺詠が刻まれています。
 「寒風にもろくもくつる紅葉かな」(下のほうは破損して「かな」なのか「哉」なのか読めません)

    

    

    

<考察>

 ネットでは、「中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」その下に「万治二年己亥」、
 左側に「十二月五日」と同じ記載ばかりです。
 「台東区文化探訪・文化ガイドブック>高尾太夫墓(サイトは終了)の項目、
 あるいは台東区教育委員会の説明板の内容を、皆さん、使い回しているのでしょう。

 関東大震災で戒名の下部分が破滅して読めないはずで、江戸時代、大正時代の書物と現地確認で、
 次のように彫られていると推測します。

 「梵字で「観音勢至」の四文字、その下に梵字で「法伽羅婆阿」の五文字、
 次に「為 転誉妙身 施」、左に「十二月五日」、右に「万治二年己亥」と彫りつけられています。

 考察@

  「万治二年己亥」は戒名の下ではなく、右に彫られている
  現地確認だと「十二月・・」の文字は、「為 転誉妙身・・」の左に刻まれていますが、
  「万治二年己亥」は戒名の下ではなく、右に彫られています。

 考察A

  彫られている文字は「為転誉妙身信女」ではなく「為 転誉妙身 施」である。
  関東大震災の前に出されている「塩原名勝旧跡の伝説」(大正10年)によれば
  「表面には梵字にて「観音勢至」の四文字を書し、其下に「法伽羅婆阿」の五字を、是も梵字にて記し、
  次に「為 転誉妙身 施」と彫付けたるは、正しく供養塔にして、墳墓にあらず」として、
  供養塔説を紹介する他、
  「西方寺の地蔵の石碑は、高尾追善のために建てたる碑なるが如し。
  真の転誉妙身の碑は、春慶院の四面塔の碑こそ、埋骨の碑」との墳墓説も紹介しています。

  江戸時代の京山高尾考、瀬戸問答、大正時代の温泉本では「為 転誉妙身 施」とあり、
  信女とまで刻まれているとの記載はありません。

  実際に現地で確認すると、中央には梵字。碑の下から楷書で「為転誉妙身・・」。
  破滅していて後半が読めないので、「為 転誉妙身 施」なのか「為転誉妙身信女」なのか、
  一番最後の文字が今となってはわかりません。

  震災前の温泉本が、江戸時代の「為 転誉妙身 施」と刻まれているとの説明を
  使い回している可能性もありますが、台東区教育委員会が関東大震災で破滅して
  今となっては読めない部分を思いこみで、戒名をそのまま記載してしまったのではないかと
  推測したくなります。教育委員会ですから、何らかの根拠に基づいて記載していると思いたいので、
  それならそれで結構ですけど。

※台東区のサイトが更新され、「右に「轉誉妙身信女万治三年十二月廿五日」左に「寒風にもろくもくつる紅葉かな」とある。」と修正されました。
 今度は万治二年が三年と誤っています。万治年間の己亥ですから二年が正しいと思います。(更新されたサイト。以前のリンクは削除しました。)

(参考1)
 台東区文化探訪・文化ガイドブック ■高尾太夫墓
「江戸市街の整備と治安風致対策をたてた幕府は、明暦3年(1657)この年の正月にあった「明暦の大火」の後に、日本橋の吉原遊廓を浅草日本堤下に移転させた。いわゆる新吉原の誕生である。泰平の世相に伴い、新吉原は繁盛した。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいわれるが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓という。細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ約1.5メートル、正面に紅葉(カエデ)文様を現わし、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」その下に「万治二年己亥」、左側に「十二月五日」と戒名・忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。
 巷説に、仙台の大名、のちに伊達騒動の悲劇の主人公になった伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。この墓は仙台侯の内命によって建てられたといわれる。
 注記
 万治高尾の墓は、江戸時代から通称「土手の道哲」といわれていた西方寺(豊島区西巣鴨四丁目八番四十三号)にもある。墓石中央に地蔵像を浮き彫りにし、右に「轉誉妙身信女万治三年十二月二十五廿五日」左に「完封(注:寒風の間違いでしょう)にもろくもくつる紅葉かな」とある。震災で戒名の一部と辞世の句の一部を損傷している。
なお、西方寺は大正15年(1926)1月2日浅草(旧浅草聖天町)より現在地に移転した。」

(参考2)
 台東区教育委員会(昭和63年3月)説明板
「江戸市街の整備と治安風致対策をたてた幕府は、明暦3年(1657)この年の正月にあった「明暦の大火」ののちに、日本橋の吉原遊廓を浅草日本堤下に移転させた。いわゆる新吉原の誕生である。泰平の世相に伴い、新吉原は繁盛した。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいわれるが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。
 この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓という。
細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。
(高さ約1.5メートル、正面に紅葉(カエデ)文様を現わし、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」その下に「万治二年己亥」、左側に「十二月五日」と戒名・忌日が刻まれている。)
右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。
 巷説に、仙台の大名、のちに伊達騒動の悲劇の主人公になった伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。この墓は仙台侯の内命によって建てられたといわれる。」
※注:( )の表現の部分だけ、現地の教育委員会の説明では記載がありません。

(参考3)
 刻まれている遺詠の記載も色々です。
 「寒風にもろくもくつる紅葉かな」
 「さむ風にもろくもくつる紅葉哉」
 「さむ風にもろくもくづる紅葉哉」

(参考4)
 塩原温泉郷土史研究会のサイトに、江戸吉原三浦屋から、塩原塩釜のアキの生家、母ハルに送られた高尾大夫の遺品について、また、高尾の子孫について、詳細な記載があります。妙雲寺に高尾大夫の遺品縮緬の片袖が秘蔵されています。また、高尾大夫の弟、普門(門太)は画工で、釈迦涅槃像の巨絵画巻物が塩原妙雲寺に秘蔵されています。


○道哲 西方寺 豊島区西巣鴨4-8-43

 吉原の投げ込み寺だった西方寺は移転して、現在は、西巣鴨にあります。
 「高尾太夫の墓」、遊女の墓「童女塚」、「俗称線香畑無縁塔」があります。

【案内石柱(「高尾之墓」)】

 本堂を抜け墓地へ入ると、「高尾之墓」の矢印の入った石柱があります。

【万治高尾之墓】

 矢印にしたがって進むと、「万治高尾之墓」案内板があります。
 台東区の春慶院の項の注から以下引用
 「万治高尾の墓は、江戸時代から通称「土手の道哲」といわれていた西方寺にもある。
 墓石中央に地蔵像を浮き彫りにし、
 右に「轉誉妙身信女万治三年十二月二十五廿五日」
 左に「寒風にもろくもくつる紅葉かな」とある。
 震災で戒名の一部と辞世の句の一部を損傷している。
 西方寺は大正15年(1926)1月2日浅草(旧浅草聖天町)より現在地に移転した。

【高尾塚】

 高尾塚(新吉原竹屋七郎兵衛建立)は、150回忌に作られており(文化6年(1809))
 塩原の高尾塚も150回忌ということで作られています(文化13年(1816)11月)。
 高尾太夫の没年は、【己亥 万治2年 1659年12月5日】【庚子 万治3年 1660年12月25日】の2説。
 「寛永18(1641)年」〜「万治2(1659)年12月5日」「万治3(1660)年12月25日」

      

【サウスポーの招き猫】

 折れてる左手をあげる招き猫が出迎えます(遊女薄雲伝説由来)。
 「遊女薄雲伝説」にちなむ「猫塚」は消失していますが、サウスポーの石の招き猫像があります。
 なじみ客が猫の象を彫らせて薄雲に贈りましたが、これを真似て作られた猫象は、招き猫の元祖とのこと。

【道哲座像】

 道哲の墓の印でしょうね。

【常夜灯】

 彫られた地名や寺号から、西方寺が吉原にあったことがわかります。

      

【俗称線香畑無縁塔】

 遊女のための線香が畑のような光景だったのかもしれません。

【童女塚】

 遊女投げ込み無縁墓の供養塔です。

   


西方寺寺跡 台東区浅草6-36(寺跡は全く痕跡はありません)

 元和8年(1622)年、道哲大徳、浅草聖天町吉原土手附近で遊女が無縁仏として投げ捨てられるのを悲しみ
 道蓮社正誉玄育上人を請じ聖天町に一宇を建立。
 大正4(1915)年春火災焼失。昭和2(1927)年、浅草聖天町より現在地へ移転。

  


高尾稲荷社 中央区日本橋箱崎町10-7

【高尾稲荷起縁の地】 中央区日本橋箱崎町1-1

 豊海橋(北詰西側)に「高尾稲荷起縁の地」案内板があります。
 高尾稲荷社は元々はここあり、現在地は移転先です。

(説明板)
「高尾稲荷起縁の地
 江戸時代 この地は 徳川家の船手組持場であったが 宝永年間(1708年)の元旦に 下役の神谷喜平次という人が見回り中 川岸に首級が漂着しているのを見つけ 手厚く埋葬した
 当時、万治(1659年)の頃より 吉原の遊女高尾太夫が 仙台侯伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして 隅田川三又の舟中で吊し斬りにされ 河水を紅にそめたといい伝えられ 世人は自然高尾の神霊として崇め唱えるようになった。
 その頃、盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷社の起縁となった 明治の頃 この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があった。その後、現三井倉庫の建設に伴い 社殿は御神体ともども現在地に移された。
  昭和57年11月吉日  箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会
  →100m先右入る」

   

【高尾稲荷神社】 中央区日本橋箱崎町10-7

 豊海橋の案内板から100m進むと、高尾稲荷社があります。
 高尾太夫の実体の神霊(頭蓋骨)を祭神として社の中に安置しているとのことですが、
 旧記の温泉本でも、真偽について、色々と推測されているところ。

    


○(仮社)高尾稲荷神社 中央区日本橋箱崎町11-6

 現在建て替え中で、移転先の仮社です。2022年春に新しい稲荷社が完成予定です、

     

    

<高尾稲荷社の由来>

「高尾稲荷社の由来
 万治二年十二月(西暦一六五九年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。
 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され、大金をつんで身請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。
 その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え、居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
 高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。
 現在、この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊(実物の頭骸骨を祭神として社の中に安置してあります。
 江戸時代より引きつづき、昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く縁日には露店なども出て栄えていた。

懸願と御神徳
 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。
 懸願にあたり、この社より櫛一枚借り受けうけをうけ、朝夕、高尾稲荷大明神と祈り、懸願成就ののち他に櫛一枚そえて奉納する習わしが昔から伝わっております。

 高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
「君は今、駒形あたり時鳥(ほととぎす)」
 辞世の句
「寒風よもろくも朽つる紅葉かな」

  昭和五十一年三月  箱崎北新堀町々会」

 高尾稲荷社は老朽化のため、現在、建替工事期間中の仮社です。二○二二年春に新しい稲荷社が完成」

    

「古今名婦伝 万治高尾」(三代歌川豊国)

「古今名婦伝  梅素亭 玄魚記
 万治高尾
元吉原なる三浦四郎左衛門が家の名妓二代の高雄は下野国下塩原郷塩釜村の産にて父を長助といふ高尾万治三年庚子十二月廿五日江戸にて没す彼古郷にあまたの紀年を送しといへども皆失ひて今は塵ばかりのものもなく只高尾が自筆の源氏伊勢つれづれのたぐひのみ残れりこれは彼在世のとき送るものにて真の筆蹟にうたがひなし彼が俤を今見ることくおほゆるものとぞ 以上京伝か奇跡考
山谷橋の南西方寺道哲に墓あり辞世に
 寒風にもろくも
  くつる紅葉かな」

  

「高尾丸船子之七人集」(三代豊国)役者絵

 役者絵ですが、「三浦屋高尾」(四代目尾上梅幸)が中央の一枚に描かれています。
 簪はいろは紅葉で、着物の絵柄もいろは紅葉があしらえられています。
 
   

「東都名所 永代橋全図」(広重)

 移転前の高尾稲荷社が、「東都名所 永代橋全図」(広重)に描かれています。

  

 幟が立ち、参詣者が訪れている「高尾稲荷」が見えます。

  


駒形橋説明碑「君はいま駒形あたりほととぎす」

【駒形橋西詰にある駒形橋説明碑(東京都)】

(碑文)
「駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
 江戸の巷説に有名な、
  君はいま 駒形あたり ほととぎす
 の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(一九二三年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(一九二七年)に完成した。
 歌人、正岡子規の和歌にも、
  浅草の林もわかず 暮れそめて
   三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
  昭和五十八年三月 東京都」

    

「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」(広重)

 左下に駒形堂と吾妻橋が見えます。
 秩父山中で切出した材木は、筏船に仕立て駒形で荷揚げされました。材木が描かれています。
 上空にはホトトギスが舞っています。
 竹棹の先に赤い旗が掲げられており、小間物屋「百助」の目印です。(「百助化粧品店」浅草2丁目に移転)
 吉原遊客は、猪牙船を一旦降り、ここで手土産を買いました。
 仙台藩主綱宗も、こちらで高尾太夫に渡す手土産を買ったようです。
 「伊達ぎらい吉原中にただ一人」と言われた高尾太夫。
 「君はいま駒形あたりほととぎす」は、そのままもう来ないでとの気持ちがあったのかどうか。

  


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