○ 血後が淵伝説
○ 三条宗近の刀
○ 血子神社
○ 稚児が淵の釜石
○ 弘法大師の真筆
○ 弘法大師の釣岩
○ 竜化の滝の瀑守
○ 福渡共同引湯
○ 乃木将軍
○ 大地主
※玉乃屋は廃業しました。残念です。
「稚児が淵」には、淵に身を投げた「稚児が淵」の伝説がありますが、
昔の温泉本によると、「他にありし事実を、この淵に応用して伝えたもの」と言う人もあり、
「血後が淵」の伝説を紹介しています。その概要は以下のとおりです。
(その1)
この淵に住む龍人が、福渡の田代家に伝わる宝刀三条小鍛治宗近を奪おうとして、
姫に化けてもくろみますが、宗近が額に刺さり手傷を受け、
淵を7日間血で染めたため、「血後が淵」と唱えたとのこと。
宝刀宗近は、万人風呂の側に鎮座する浅間神社(せんげんじんじゃ)に納められていたが、
後に田代家では持ち帰り秘蔵しているとのこと。
(その2)
塩原商工会で紹介している伝説では、龍人ではなく大蛇が宗近の刀を欲しがったとしています。
福渡の玉乃屋旅館の田代五郎氏の家に伝わる話で、
福渡温泉神社の境内には氏の先祖が建てた「血ヶ神社」の祠がお祭りしてあるとしています。
http://shiobara.shokokai-tochigi.or.jp/chiiki/burari/rekishi/daijya.htm
(その3)
他の温泉本(塩原温泉誌明治44年)では、河神が児に化けていたとしています。
河神が児と化して、釜石の上で遊んでいたら、刀を携え来たる者がおり、
河神はこれを奪おうとして傷を負い、7昼夜血水面となり、血後の淵としています。
(その4)
玉乃屋旅館のご主人が聞き及んでいる話しは、竜が姫に化けて刀をほしがったとのことですが、
女将さんが聞き及んでいる話は、竜が姫に化けた話ではなく、
知的障害の子どもが釜石の上で遊んでいて、刀をほしがった話とのことです。
玉乃屋でさえ、伝わっている話が複数あります。
複数ある伝説で、共通して出てくるのは、<三条宗近(刀工宗近は京三条に住む)の刀>です。
足利将軍家の秘刀だった「三日月宗近」(宗近作の国宝)と、
源頼政が近衛天皇より賜った太刀「獅子王」(作者不詳の重文)は、
東京国立博物館に収蔵されています。
国宝「三日月宗近」を生んだ宗近の刀を、玉乃屋旅館が秘蔵していたとの伝えです。
和泉屋か玉乃屋が、源頼政の子孫あるいは一族だとしたら、宗近の刀を持っていたとしても
不思議ではないですが、本物だったらとんでもない刀でしょう。
伝説では、宗近の刀は富士山の浅間神社(万人風呂の脇)に奉納され、
その後、浅間神社から福渡神社に移されます。
玉乃屋さんによると、浅間神社はもうないとのこと。
近隣の方も、神社は山津波で潰れたと言っていました。
江戸時代の燈籠のみ残ります。
福渡神社の祠の中に刀が板に固定されていたのを、お年寄りの方々は昔見たことがあるとのこと。
しかしながら、刀は、行方不明です。
(私)「宗近の刀はあるんですか?(ないよね)」
(主)「あぁ、あれですね」
(私)「え!?あるの?!」
(主)無念の表情で「ないんです。」
源頼正との関係を聞くと、過去帳も燃えて、先祖もわからないとのこと。
残っているのは、宗近に関わる血後が淵の話だけしか伝わっていないとのことでした。
<玉乃屋伝説>
「ちごが淵の釜石という大岩に、奥深い洞窟があり、そこに龍が住んでいました。
その龍が、玉乃屋の先祖から宗近の刀をほしがって、姫に化けて手にいれようととしたが手傷を負い、
淵を7日7晩血で染めました。それゆれ血後が淵と名がついたと伝わっています。」
玉乃屋に伝わっている話は、昔の温泉本記載の龍の話でした。
玉乃屋の女将曰く、「血ヶ神社」ではなく「血子神社」はありますよ、行けばわかります。
「え?」福渡温泉神社は何度も行って探したけど、行ってもわかりませんでした。
再探索すると、側面「血子神社」と記載された祠がありました。
裏面「大正十年9月19日 田代弁治建之」と記されています。
玉乃屋の女将さんがお供えを行っているそうです。
近くに、田代近三の名が記された馬頭観音がありまして、
明治38年発行の塩原を詳細に記述した「塩原温泉誌」を編纂された方の名前で、
玉乃屋のご主人によると弁治じいさんと同じ時代だと牧野屋の館主さんとのこと。
鳥居には、同じ時代の丸屋の館主、大塚倉吉の名が記されています、大きな文字です。
<稚児が淵の釜石>探し
JRバスは車内アナウンスで、潜竜峡のところで稚児が淵を説明しているようですが、これは明らかに間違い。
布滝から下流のはずですが案内板もなく、淵が続いており、どこが稚児が淵で、釜石はどこ?
明治の温泉案内本を何冊か見ていくと、
・左靱は稚児が淵のところにあると記載。
・稚児が淵は、潜竜峡の上にある潜龍瀑(箒川発電所取水堰となって消滅)の上と記載。
・「布滝と稚児が淵」と称する写真を見ると、布滝下流一帯が写っている。
さらに場所を絞り込みます。
「布滝」の下? 寒凄橋「抛雪の滝」の下? 澄鮮橋「蛟鬚(きゅうす)の滝」の下?
橋と滝の場所が特定できました。
「澄鮮橋に相対して稚児が淵。橋の下に蛟鬚瀑(きゅうすのたき)、旧名を立岩沢という。」
(蛟鬚とは竜のように巻いたひげの意味。きゅうの字が出ないので、暫定で「蛟」を当てておいた)
蛟鬚瀑は、冬でも橋の上からよく見ないとわかりにくいので、気に留められない滝です。
「稚児が淵の中央に2個の岩石が並立して、あたかも釜の状をなすので、
大岩を釜石と呼ぶ」
澄鮮橋から蛟鬚瀑が流れ込んだ淵が、ピンポイントの稚児が淵。
釜石をさがします。
ありました。2つの平らな、高さの異なる大岩が並び、岩陰は水しぶきがあがっていません。
水面が、水しぶきの白と、岩陰の青のコントラストが明瞭です。
1枚目「布滝と下流」 2枚目「寒凄橋・抛雪の滝の下の淵」 3枚目「稚児ヶ淵」 4枚目「箒川発電所取水堰」
(参考)
「魚止めの滝」
潜竜峡下流が「魚止めの滝」(別名:龍門の滝)。大網の川風呂の上流。
さらに上流が潜竜瀑(旧名:区々竜の滝・覆流瀑)。箒川発電所取水堰となって消滅。
「大網温泉 魚留瀧」石標
「大網温泉 魚留瀧 明治43年5月湯守佐藤〜 発起人大和屋」
碑を建てたのは湯守佐藤とあるので、当時の宿のオーナーですね。
左靭の石標は、明治43年3月建立。同時期です。
「大網温泉 魚留瀧」石標の階段を下りると、湯守田中や野天風呂
「明治17年道路開通の当時、役人の勧めにより、古町なる米屋に内湯を設けたるを、内湯の始めなりとす。
(なお米屋は絶家にて消滅し現存せず)(途中略)爾来各館競ふて内湯を設くるに至れり、
殊に袖ヶ澤には、近頃萬人風呂と称せる内湯の広きものが出来たり。」(大正十年、塩原温泉案内書)
・明治17年 古町の米屋が内湯を設けたのが始まり。
・明治19年 福渡共同引湯により、福渡の各旅館に内湯が設けられます。
<福渡共同引湯>
福渡の旅館に内湯が設けられたのは塩原道開通2年後の明治19年(1886)です。
これを実現したのが当時「玉屋」(田代辨治)館主の息子、田代氏(玉乃屋(廃業)館主の父)です。
田代氏は、ダムの測量士として全国のダムを巡っておられました。
その知見を生かし、塩釜から福渡への引き湯のため測量を行いました。
塩釜から福渡まで桶を担いで湯温の変化を調べ検討した結果、引き湯できると判断し、
酒2升で塩釜から温泉の権利を買います。
(酒2升の話は塩原温泉観光マイスターの流れ星さんからも聞いていました)
木管で福渡まで引き湯して6戸の宿(分家や分館を含めないと6戸なのか)に
各5口の給湯により内湯を設けたとのことです。
現在、各旅館1口とか2口と減らしているそうですが、玉乃屋は3口を維持しているとのことです。
※注 「山水名勝避暑案内」(大浜六郎著 弘学館書店
明治44)によると、当時の福渡の旅館は、
「玉屋」(田代辨治)、「和泉屋」(田代太平)、「叶屋」(磯タケ)、「吉野屋」(磯平吉)、
「満寿屋」(白井吉右衛門)、「牧野屋」(田代近三)、「阪口屋」(田代金平)、
「松屋」(田代茂一)、「丸屋」(大塚倉吉)の9軒
(現役宿)松楓楼松屋 和泉屋旅館
丸屋旅館 恵山荘
(廃業旅館)坂口屋旅館 玉乃屋旅館 叶屋旅館
(廃業旅館)山形屋旅館 露天風呂・喫茶鹿角
「玉屋」館主の「田代辨治」氏は、乃木将軍とも親交があり、玉屋に乃木将軍も泊まっています。
書簡があったとのことですが、すべて燃えてしまったとのこと。
玉屋の田代辨治氏は名士だったので、玉屋は中央で活躍する方々が多く泊まりました。
一方、和泉屋や満寿屋(当時は福渡)は文豪が多く泊まっています。
塩原スケート場は、町の発展のためにと土地を提供されたそうです(現在グリーンビレッジ)。
夕の原のブレスのところも田代家の土地だったそうです。
三島県令の別荘に土地を提供し、御用邸の拡充の際にも提供されたそうです。
福渡の田代タイヤあたりは昔は畑で、ここら辺の畑も玉乃屋の土地だったそうです。
龍化の滝から福渡まで、広大な土地を所有されていました。
田代家は、みんな自分のところが本家だと思っているとのことですが
玉乃屋が一番木が太いからここが本家と女将さんは大女将さんから聞かされていたとのこと。
ご主人も、和泉屋など土地持っていないから、土地を一番もっているうちが本家だと
思うんですが、どうでもいいことです、とのことでした。