Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 

 弘法大師の伝説 in 栃木の一部
  
  ○ 猿岩、猿臂の滝  那須塩原市関谷
  ○ 弘法大師の真筆  那須塩原市塩原
  ○ 弘法大師の釣岩  那須塩原市塩原
  ○ 竜化の滝仙人窟  那須塩原市塩原
  ○ 川崎厄除不動尊  那須塩原市塩原
  ○ 爪書き不動    那須塩原市塩原
  ○ 引沼伝説     那須塩原市蟇沼
    ・引沼伝説
    ・川の中の橋のない県道55号
    ・蟇沼とはどんなところ?   
    ・蟇沼の弘法様  ・とや沢の弘法様  ・沼大神宮  ・蟇沼 
    ・蟇沼用水    ・蟇沼用水取水口  ・水路つけかえ記念碑
    ・取水口からのトンネル ・東京電力蛇尾川発電所 ・小規模水力発電所
    ・接骨木街道沿いの蟇沼用水
    ・弘法様への道程
  ○ 独鈷清水     日光市独鈷沢
  ○ 生の泉(弘法の水) 日光市戸中
  ○ 酒の泉      日光市山内
  ○ 逆竹の弘法水   那須塩原市鍋掛
  ○ 弘法大師の碑   大田原市市野沢
  ○ 弘法大師社    那須町湯本
 

 弘法大師が二荒山に来山し、「二荒」を「日光」と改名

  812(弘仁 3)年   弘法大師、自在寺を再興する。(山口久吉氏による)
  814(弘仁 5)年8月 弘法大師が勝道上人の功績を称える碑文(二荒山碑)を著す。
  820(弘仁11)年7月 弘法大師、滝尾・若子両神社を祀る。
  820(弘仁11)年   弘法大師、湯元温泉を訪れ観自在湯を見つけ観世音菩薩を奉る。(以上は日光市HPによる)

  ○ 自在寺 滝尾神社 若子神社



猿岩、猿臂の滝(えんぴのたき)

 猿岩洞の手前、猿岩橋の右側に猿臂の滝(旧名猿沢の滝)、滝の畔に側立して猿岩があります。
 沢の名は「猿倉沢」とあります。
 以前は、旧猿岩橋の痕跡がのこっていましたが、すでに撤去されています。

 説明板があります。
  「時は平安の昔、塩原界隈に大変悪さをする猿の集団がおりました。
  この悪事を耳にした弘法大師は、その法力で猿たちを瞬時のうちに岩にしてしまいました。
  その中でもボス猿の力はすざまじく、
  弘法大師は錫杖(しゃくじょう)をその猿めがけて投げつけました。
  その猿の出血が、猿岩洞の横を流れる猿臂(えんぴ)の滝になったと言われています。」

     

      



弘法大師の真筆

 玉乃屋のご主人が弘法大師の直筆は知っておられますかと聞かれるので、
 「ハイ、知っています」で、話が終わっていました。
 「弘法大師の爪書き不動尊」のことと思いこんでいました。

 ところが、昔の温泉本には、弘法大師が玉乃屋の祖先の家に泊まって、
 懇切な待遇の礼に「真無阿弥陀仏」の6字を与え「承和元年3月15日空海書之」と記した、
 これを「弘法大師の直筆」というと記載がありました。(承和元年は834年)

 玉乃屋のご主人に、再度とりあえず聞いてみると、「お見せします」と!

 大田原城主が、こんなところにこんなものがあるのはもったいないとして
 もっていってしまわれたそうですが、
 不吉なことが続き、元あった場所に戻しなさいとのお告げで、返されたそうです。

 大田原公が保存していた時に、丁寧に扱われ、背紙がつけられ、
 漆塗りの重厚な箱がついて戻ってきたそうです。

 箱は、一部燃えていますが、書の存在感を示すような重厚な立派なものです。
 松屋などに泊まった方々が拝みたいと、昔は貸し出したこともあったとのことでした。

 大田原公は書の価値を認識されていたのでしょう。
 田代家では、全部燃えてしまった中で、これだけは所々燃えながらも守ったそうです。
 箱には「天和2」の文字。天和年間は1681〜1683年なので、1682年秋に戻されたのでしょう。
 (天和2年の秋だとすれば、大田原典清が城主です。)
 
     



弘法大師の釣岩 

 弘法大師の釣岩はご存じですかと聞かれたので、今回は勘違いないよう具体的に返事します。
 「弘法大師が法力でつり上げられた天狗岩ですか」と答えると、
 「天狗岩は釣岩ではない!」とのこと。

 下のほうの岩だそうです。これまた間違って認識していました。
 昔本を当たってみると、天狗岩、野立石の他に、弘法の釣岩の記載があります。

 天狗岩の下に「退馬橋」(旧名:延命橋。馬がこの場所にくると奇岩に驚き退く)があり、
 橋の下の石がごろごろしているところが賽の河原で、橋の左の小夜の河原に野立石。

 橋の右側7間許に「弘法の釣岩」「釣岩の洞」があるとの記載がありました。
 数人が座れるほどの洞。
 明治初期までは、洞窟は乞食の別荘地だったが、岩が下がってきて34尺凹んだとの由。
 このため洞窟には立ち入れなくなったと記されています。

 釣岩の左の上に「顔石」という巨石があるとも記載されています。
 説明板もないので、釣岩はどれだかわかりません。

 賽の河原にあった賽の河原地蔵尊は、道路沿いの壁面の階段をあがったところに
 「賽の河原地蔵尊」「子育て地蔵尊」「天狗岩不動尊」が集められ祀られています。

    



○竜化の滝「仙人窟」

 昔本に記載のとおり、玉乃屋が龍化の滝の「瀑守」だそうです。
 昔は龍化の滝に小屋を設けて、山で採ったものなどを売る店を出していたそうです。
 コンクリートの鑑瀑台がつくられたときに、小屋は撤去されたそうです。
 昔本には、滝の上の滝壺の脇に「仙人窟」という洞穴があると記されています。
 修験者が梵天として祈祷に用いる弊束を納めて南無阿弥陀仏と唱えたことに由来し、
 奥行3間、幅5間の大穴とのこと。
 弘法大師がここで17日間祈祷されたと玉乃屋で伝えられていると記載されています。

   



爪書き不動 

 不動の湯の先にあります。
 弘法大師が岩に爪で彫った不動と伝えられています。
 福渡温泉「福和会」の案内板には「爪書き不動」と存在感を示していますが、
 不動の湯ほどには、見向きもされていないと思います。

 なお、「子宝明神」は岩の湯の上にあります。

     

   
 

<不動の湯>

    
 

<不動沢左岸の湯>

 不動沢左岸に温泉が湧いています。湯気が出ていて手をつっこむと熱い。
 あたりは茶色に変色しています。
 不動の湯の源泉地と推測される場所です。

     

     
 



引沼伝説(蟇沼)>

 塩原の温泉本に「引沼伝説」の記載があります。

 「柏山の麓に引沼という山里があり、弘法大師が農家で水一杯を所望いたされたが
 その桶に今馬が飲んだ残りの濁水があるから、それを飲めよとて、
 弘法大師怒りて、この村里には、一滴の水も与えぬと、衣の袖を地面に打ち払った。
 この里を流れる蛇尾川には、今に水なしと言う。」

 弘法大師は、水や温泉を湧出させた弘法水伝説が多いなか、
 水を与えてもらえず怒って川の水を涸らした伝説も各地にあるようです。

 さて、蟇沼に伝わる弘法様伝説は塩原温泉で伝わる伝説と正反対のものです。
 「昔、弘法様が蛇尾川ぞいをあがってきて、途中で、水を一杯よんでくれねかといったら、
 どこの村でも忙しい人がいて、どこでも水をよんでくれなかった。
 蟇沼へきてお願いをしたら水をごちそうになった。
 帰りがけに弘法様が、この村では水がいいか、お湯がいいかと言うので、
 水は焚けばお湯になるからと、水に不自由のないように弘法様に水をお願いしたらしい。
 それで蟇沼では水に不自由しなくなった。」
 (郡司美善さんが語る弘法様の伝説 大野氏記述より)

   
 

川の中の橋のない県道55号> 旧黒磯市笹沼

 那須野ヶ原は複数の川の複数扇状地で地下水面が深く、一部の河川は伏流して水無川となっています。
 蛇尾川(さびがわ)も那須野ヶ原では伏流の水無川です。
 その蛇尾川に橋のない川を横切る県道55号があります。
 川の中の道路からは上流の県道30号にかかる橋が見えます。

    



蟇沼とはどんなところ?>

 蟇沼は、塩原の道の駅の裏手方面に進んだところにある集落で、
 塩原温泉では「蟇沼もちつき」(市文化財)が年2回行われています。
 蟇沼のことを色々と知ると、もちつきも見たくなりました。
 栃木百名山「安戸山」があり、地域活性化を目的に2009年から開山式が道の駅で行われています。
 また「蟇沼用水」取水口があり、蟇沼用水は蟇沼の昔の集落の上部を流れていきます。

 「塩原温泉 女将もちつき祭」(蟇沼もちつき)
  蟇沼もちつき唄保存会が協力されています。
  もちつきなんか見ても。。。で、見に行ったことなかったのですが、
  6人でつくもちつきは、もちつき唄と太鼓に調子をあわせてど迫力でした。
  那須塩原市の文化財に指定されているだけあります。

      



蟇沼の弘法様>

 沼大神宮(後述)の北側の林の中に、ひっそりと弘法様が座っておられます。
 お顔の表情がおっとりとした石像で、水をめぐんでくれなかったので怒ったとは思えない表情です。

 蛇尾川は旧蟇沼集落に至る手前で伏流するため、
 伝説にある弘法様が怒って衣の袖を地面に打ち払って水無川にした場所はここでしょう。
 現在の蟇沼集落は洪水に耐えかねて高台の上の原に移っており、
 沼大神宮や弘法様の場所から、蟇沼大橋の下流あたりが、昔の蟇沼集落です。

    



とや沢の弘法様>

 現在の蟇沼集落は高台にあがっているので、旧集落では使用できた蟇沼用水が使えません。
 そのため安戸山を流れる「とやさわ」から水を引いています。
 その水源にも弘法様が祀られています。

 弘法様は水源のとや沢に向かって座っておられ、にこやかな表情豊かな石像です。
 弘法様の手前に石の祠が2つあります。
 新しい祠の側面は明治十○年旧三月七日とあります。
 古い祠は文字は読みとれません。新しいのでさえ明治10年ですからかなり古そうです。

    



沼大神宮>

 沼大神宮について、大野氏の記述を引用します。
  「昔、蟇沼の人々は、蛇尾川の流れる沼下の低い所に住んで、田畑を作って暮らしていました。
  その近くには引沼と呼ばれる沼があり、ひでりの時は涸れることなく満々と水をたたえ、
  霖雨になると、水が引いていってしまうという不思議な沼で、引沼と呼ばれました。
  引沼のほとりに祀られていたのが水の神、罔象女神(ミズハノメガミ)を祭神とする
  沼大神宮という神社です。
  沼大神は、蟇沼用水の水神として信仰され、下流の横林や石林の農民たちが、
  沼の水をかきまわし、雨乞いの念仏を行いました。
  沼には大蛇が住んでいると伝えられていました。
  引沼は、大洪水で流されてしまったと伝えられており、沼はなくなってしまいましたが、
  今も沼のあったほとりの近くに沼大神が祀られています。」

       



<お堂と石碑4基>

 薬師如来が祀られているお堂があります。
 横に「天保15年」の石碑が2基。お堂の反対側にさらに石碑が2基あります。

     

  



蟇沼>

 蟇沼(蟇蛙が多く集まったことから引沼から蟇沼)は流されてなくなっていますが、
 その地に地主さんが「釣堀ひきぬま」という釣堀を主体としたレジャー施設を開設されました。
 今では廃業となっています。

    
    (廃業4年後の状況)



蟇沼用水>

 蟇沼用水は蟇沼・折戸・上横林・横林・接骨木の5ヶ村の飲水として
 慶長年間(1596〜1615年)に開削されました。

 明和8年(1771)
  大田原城下まで延長されて御用堀とも呼ばれるようになりました。
 天明年間(1781〜1789)
  取入口を拡張するなど大田原藩の維持管理のもとに明治を迎えます。
 明治18年(1885)
  那須西原地区への飲用水及び農業用水の確保を行うため、旧取入口が築造されます。
 明治24年(1891)
  大改修を行い水田かんがい用水の確保がなされました。
 明治33年(1900)
  それまでの取水口の位置では水の引けない地区が出てきたため、
  現在の取水口の約10m上流に、蛇尾川の右岸の絶壁をくり抜き
  二つの素掘りトンネルの取入口が造られます。
 大正7年(1918)
  手動式巻上機付水門となります。
 昭和44年(1969)3月
  移設改修されました。
 昭和54年(1979)には、取水口・水路が改修され、頭首工ができています。

 (以下を参照した。
  【農林水産省】大田原城の御用水 蟇沼用水旧取入口
  【栃木県の土木遺産】蟇沼用水(取入口)
  【土木学会栃木会】栃木県の土木遺産 蟇沼用水取水口



蟇沼用水取水口>

 右から明治33年(2つの素掘トンネル)、大正7年(手動式水門)、昭和54年(蟇沼頭首工)
 新旧取水口が並んでいるのは圧巻です。那須塩原市の史跡に指定されています。

    



水路つけかえ記念碑>

 蟇沼の弘法様の横に、蟇沼用水路つけかえ工事の状況を伝える記念碑(明治34年3月建立)があります。
 土木学会関東支部栃木会のサイトでは、勘違いされて蟇沼頭首工にある新しい碑の写真が掲載されています。
 勘違いされるのも当然かなと思います。

 明治の記念碑は、新しい記念碑が位置する蟇沼頭首工近辺に建立されてはいません。
 取水口からはだいぶ離れた「弘法様の横にわざわざ建立」されているのです。
 水にかかわる弘法伝説を蟇沼集落の方々は意識されていたのがうかがえます。

     
    ×間違い                   ○正しい



取水口からのトンネル>

 取水口から岩盤をくり抜いたトンネルを通り、蟇沼用水が姿を現します。
 ここから先には進めないので、取水口を眺めるには
 蟇沼大橋を渡り川の対岸の荻平へ行くこととなります。

    



東京電力の蛇尾川発電所>

 トンネルをくぐり抜けてきた蟇沼用水は、蛇尾川発電所の横を通ります。
 小蛇尾川の上流から地下水路で引っ張ってきて、安戸山の斜面を落差約300mの圧巻の鉄管。
 高落差で少量の水で大きな出力を出す発電所です。
 ここの放水は蟇沼用水に合流しますが、合流分はそのまま蛇尾川へ放水されています。

    



小規模水力発電所>

 沼大神宮の脇から県道30号を横切るまでに、
 蟇沼用水は小規模水力発電所(蟇沼第一・第二発電所)で利用されます。

    



接骨木街道沿いの蟇沼用水>

 接骨木街道沿いの蟇沼用水

   



弘法様への道程>

 蟇沼へのルートは、
 「道の駅から行く」
 「県道30号から、やしお温泉案内看板(廃業)から蟇沼用水に沿っていく」(看板は撤去されている)
 「蟇沼大橋を渡って行く」

 道の駅からのルートは、
 道の駅から、安戸山登山道を目指します。
 畑の中に「安戸山」の木の道標があります。ここを左折。
 次に「安戸山」の石の道標があります。ここを左折。
 右に神社、左に蟇沼地区簡易水道施設のところに出ます。山神の石碑や通水記念碑があります。
 直進していくと左からの道に合流、少し進むと「とや沢」に出ます。丸木橋を渡ります。
 沢を渡ると道は2つに分かれ、右は安戸山へ、左は水道施設水源へ。
 左の沢沿の道に入るとすぐ右手に祠と弘法様が鎮座されています。簡易水道から10分ほど。
 安戸山は昭和天皇が大正12年に登られており御野立所碑があります。

      

      



独鈷清水 日光市独鈷沢175

 三衣に伝わる「独鈷清水」が、一般的な全国各地に伝わる弘法水伝説です。
 「独鈷沢」の地名の発祥となった「独鈷清水」です。
 何の掲示もなく、訪れる人もほとんどいないと思います。

 <独鈷沢の伝説>

  弘法大師が、ある民家に入って水を所望すると、
  機を織っていた乙女は、橋を下って、2、3町ある谷間に降りて、水をすくってきました。
  この志に、何が不足か聞くと、水が不足しているとその乙女が申し上げると、
  弘法大師は、独鈷の先で、地を穿ち、水を噴出させました。
  それ以来、この地はいたるところ、水に潤沢となったとの伝説があります。
  「塩原名勝旧跡の伝説」塩渓探勝会編 大正10 より引用

      



生の泉(弘法の水) 日光市戸中

 栗山館の裏に、「生の泉(弘法の水)」があります。
 戸中集落一同の由来説明板があります。
 湧水の量は多くはありません。

    
 



逆竹の弘法水 那須塩原市鍋掛

 鍋掛から湯街道を北上し、湯街道の西の山際に続く田んぼの中に、逆竹と呼ばれる所があります。
 逆竹から流れ出す弘法水(弘法大師伝説)は、清川となって鍋掛の生活水として使われていました。
 鍋掛十文字の清川地蔵尊の横を流れる清川をたどり、
 鍋掛小学校の北へ続くよどみの先に、湧出地がありました。
 ここが逆竹の弘法水なのか確信は持てませんでした。

    



弘法大師の碑 大田原市市野沢
 
 「葦に添う 市野沢辺の ほたる哉」

    



弘法大師社 那須町湯本

 案内板
 「安政5年(西暦1858年)の山津波後、数十年過ぎたある日
  湯治に来ていた客が湯川の岸を散歩中に、河原の中で木彫りの
  大師像を見つけました。
  その像を畏敬し、当時の里人と浴客により、この地に社を建立し
  子孫繁栄と湯治客の病気快癒を祈願いたした社です。
                    那須町商工会湯本支部」

    


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