【賽の河原】
・賽の河原地蔵尊
【塩の湯】
・塩の湯道 延命地蔵尊
【須巻】
・川崎厄除大師
【上塩原】
・引久保百観音堂
【中塩原】
・戦場(せんば)の戦い
離れ室城 塩原要害城跡 要害の滝 八郎館跡
・戦場阿弥陀堂
・箒根神社
【新湯】
・大師堂
・源泉七福尊
・地蔵堂/十王堂
・円谷寺墓地/如活禅師供養塔
賽の河原(小夜の河原)に、野立石がありますが、賽の河原地蔵尊もそこにありました。
小夜の河原(賽の河原)のお地蔵さんは、天狗岩崩落防止工事による、解体移築で道路の上に祀られています。
塩の湯へ向かう道に、延命地蔵尊。
新しい碑は、塩釜9班が平成12年建立。
参道から川崎厄除大師に向かいます。
富士山園地に到着すると、方向指示盤。最後の階段を上りここも富士山園地。
不動尊は避雷針がついています。
参道ではない遊歩道を降りていくと、須巻温泉周遊道〜と刻まれている祈念碑があります。
大正9年と刻まれていて、川崎厄除大師がない時代でも賑わっていたことが伺えます。
側面に、改修費200円東京市橋本善吉殿 100円下塩原青年団 寄付
妙運寺近くの不動坂に剣不動尊があります。剣が数多く奉納されています。
国道400号の古町の追沢にかかる「紅葉橋」に、粟島神社。
粟嶋大明神の石碑があります。
<あわしま信仰>
婦人病、安産、子授け、裁縫の上達など、女性に関し霊験ある神として信仰されたのがあわしま信仰です。
天保年間(1830〜1843)に淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、
淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がりました。
(ウィキペディア等を参照した)
栃木のあわしま信仰について、どこかで読んだ記憶があります。
「幕岩村正八幡宮略縁起」によると、康平元年(1058)、源頼義と嫡子の義家が前九年の役に、
奥州安部貞任征伐のため、この八幡宮に立ち寄り戦勝祈願をして社殿を再興したとされる。
治承4年(1180)に源頼政一族が、神前に鎧兜を奉納、文治3年(1187)には源有綱(源義経腹心の武将)が訪れ
八幡宮に参拝したと伝えられる。その後、源有綱は塩原八幡宮の側神として祀られ、
地域の人々に尊敬され、塩原領主や藩主により代々守られ、村内安全、五穀豊穣の神様として崇敬される。」
(那須塩原市HP)
<逆杉>
樹齢800年と伝承されてきたところ、最新の調査で樹齢1500年と推定。
<大栃>/<気の大杉>
大栃が枯れて切り株が残ります。
逆杉に次いで古い「気」の大杉があります。
<一夜竹>
源義家にかかる伝承があります。
<二宮尊徳翁の顕彰碑>
二宮尊徳は、奥塩原新湯を訪れています。
逆杉を育てた長寿の若水湧水。
鏡池の真ん中に、若水神社。
鳥居をくぐると、若水お滝があり、その横は、石樋を伝って水が流れてきています。
滝のすぐ上に逆杉不動尊。
<有綱神社>
源有綱にかかる伝承があります。
源有綱は、建久元(1190)年に、小田ケ市(こたがいち)(御他界地)にて生涯を閉じたと
塩原では伝えられています。
平成5(1993)年、小田ケ市の大塚家の墓地に、源有綱の供養塔が建立されています。
<源三窟>
万治2年2月の大地震で、洞窟が崩れ落ち、弓矢、靱、鎖帷子、食器などその他諸々が埋もれます。
武器類だけは掘り出すことができます。
洞守は、古遺物が土化しているのは遺憾として、明治45年5月から10日をかけて掘ります。
今は洞の長さ40mほどですが、崩壊前は八町(873m)あったと、昔の塩原温泉案内本に記載があります。
源三窟の照明変更
洞内の照明がハロゲン球(25灯)からLED(40灯)に変更され、
17、18度だった洞内温度は10度前後下がったそうです(下野新聞)。
狭間城跡(塩原1157)の所有者は「笹沼敏孝」氏、同じ方が所有ですね。
たちばな家で日帰り入浴。露天はかけ流し。
宿の裏手「引久保百観音堂」に寄りたいので、車をそのまま停めてよいかお聞きすると
女将さん「中見るなら鍵貸すよ、駐車場のところからそのまま行けるから」とのことで、
予想外の展開、観音堂の木札がついた錠前の鍵を渡され、感激しました。
南京錠を鍵であけて、拝観しました。ありがとうございました。
拝観料込み入浴500円は格安です。
<引久保百観音堂>
「文明14年(1482)、塩原城主橘伊勢守により戦場の戦いで討死した家臣たちの供養のため
1間4面の堂が建立された。寛政5年(1793)には、引久保観音堂を村人が再興。
堂内の須弥壇は、3つの間に仕切られ、それぞれ坂東三十三観音・西国三十三観音・秩父三十四観音として
計100躯が祀られ、一堂に安置したこの堂を、引久保百観音と呼び、今日に至っている。
阿弥陀・薬師・釈迦如来の三尊は、各間の本尊として間の中央に安置されている。」(那須塩原市HP)
文明七年(1475)畑下の離れ室城を根城とする君島信濃守と、
中塩原の要害城を根城とする橘伊勢守・塩原氏との間で「戦場(せんば)の戦い」がありました。
破れた君島信濃守は茗荷沢に移り、子孫は明賀屋本館や彩つむぎを営まれています。
橘伊勢守は戦死者の供養のため「引久保観音堂」を建立します。
観音様がずらりと並んで壮観です。
戦場(せんば)を見下ろす松の井荘では、自家源泉を「松の木平
戦場(せんば)源泉」と命名しています。
石垣が残っています。
<塩原要害城跡> 那須塩原市上塩原1002
1178年(治承2年)、領主の塩原八郎家忠がこの地に塩原(要害)城を築きます。
家忠がもてなした武将の多いこと。
箒川にかかる宮島の吊り橋を渡り、善知鳥(うとう)沢川にかかる要害の吊り橋を渡り
要害公園にたどりつきます。
目の前は、地層むき出しで、要害から落ちてくる「要害の滝」があります。
ここはあまり知られていない蛍の名所でもあります。
塩原八郎家忠が要害城を築き移る前の居館が、八郎ヶ原の八郎館です。
八郎ケ原放牧場内に、八郎館跡地がありますが、許可を得ないと入れないので居館跡は未確認。
戦場阿弥陀堂に、石碑色々あり。
六地蔵供養塔があります。摩滅している地蔵もあり、
下部に文字が刻まれていますが、判読できず。
「嘉吉年間(1441?1443)、塩原城主君島信濃守の寄進により建立されたといわれる。
君島信濃守はこの地を治め、嶽山箒根神社の霊神(豊城入彦命)の分神をここに遷宮し、
地域の農山振興に尽力したといわれる。」(那須塩原市HP)
狢の湯の手前に大師堂があります。
湯荘白樺の露天風呂が七福の湯です。
お堂の前に置かれた石板によると、
「十王堂 和尚塚地蔵 子育地蔵 万治二年・・・」
塩原温泉郷土史研究会によると、
「元湯から地蔵堂と十王堂を新湯に移動、地蔵様と閻魔王神像等を一つに合祀、
新湯地蔵堂として噴火口近くに建立。」と記しています。
地蔵堂として、和尚塚地蔵、子育地蔵が祀られ
十王堂として、閻魔王像等が祀られていることとなります。
日蓮上人像が上段真ん中にあります。
日蓮上人は、文永2年(1265)、会津に向かう途上、宇都宮侯のすすめで、
中風の療養のため那須温泉と塩原湯本で入湯されました。
那須から塩原へ、そして藤原宿に至り、村の長、星次郎助宅に逗留しました。
<元湯の地蔵堂/十王堂>
「塩渓紀勝」(奥蘭田)に記載されている元湯古図を見ると、
温泉大権現の脇に地蔵堂の文字があります。
十王堂は、湯地場の川向かいの権現山/湯殿山の麓、赤川の上滝の下に十王堂の文字があります。
元湯に湯殿山があるのが興味深いところです。
元湯から日塩もみじラインへ向かう道にはいって260mほどで、
右手に上滝観瀑台への階段があります。
階段上がってすぐ「上滝観瀑台」があります。
<赤川渓谷線歩道>
赤川渓谷線歩道を行くと、権現山/湯殿山に突入します。