Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
 湯西川の平家落人伝説考察

  


□湯西川の平家落人伝説

湯西川の落人伝説

 一般的に世の中で知られている平家落人伝説ですが、宿によってストーリーや人物が微妙に違っています。
 伝説ですから同じ内容はないので、いくつか紹介します。

<本家伴久>

 日光市・湯西川温泉の開湯は約800年前。壇ノ浦の合戦で破れた平家の落人がこの地に逃れ、
 湯西川に湧く温泉を発見したのが始まりです。
 本家伴久旅館はこの末裔、平家嫡流25代目をあずかる宿でございます。
 本館・露天風呂「藤鞍 (ふじくら) の湯」は、
 平家の武将の乗鞍を隠し、源泉を見つけた湯西川温泉発祥の場所です。
 源氏の追っ手から隠れ偲んだ歴史から、
 いまだに鯉のぼりをあげない事と鶏を飼わない習慣が続いています。

<花と華>

 壇ノ浦の戦いに敗れ、平忠実あるいは平高房は、重盛の6男忠房の子であるとの説明。

<平の高房>

 平家の没落の近いことを知り、都を逃れた平家一族中の肥後の守平貞能は、
 内大臣平重盛の妹妙子姫を奉して宇都宮朝綱を頼り下野の地へ入った。
 しかし、源氏の平家追討の目は厳しく、貞能と妙子姫は釈迦岳に、
 数名の家臣団は川治の里に山居せざるをえなかった。
 川治の地で安らぎの生活をしていた平家一族は五月の節句ののぼりが平家追討使の目に止まる所となり、
 この地を捨てさらに渓谷をさかのぼり、天然の要塞である栗山の地に居をかまえることとなった。
 湯西川の地に篭った家臣団の長が平忠実とも平高房とも言われている。
 彼ら一族は川俣や湯西川に定住し温泉を開き、この地に骨を埋め神として祀られたという。
 この神の祠が湯西川の高房神社であり
 一族の霊を供養する墳丘が川俣や湯西川の平家の家塚であるという。


八幡太郎義家と安倍氏にまつわる落人伝説

 湯西川温泉マニアックス(山口久吉の話。旧栗山村の文化財審議委員会会長)に、
 八幡太郎義家と安倍氏にまつわる落人伝説が記載されています。

 ・釜八幡伝説 
 ・湯西川温泉川戸平の釜八幡神社とネズコ大木 

 山口久吉氏とは、お会いして、少しだけ話したことがあります。
 「お風呂入れますか?」「ごめん、お湯抜いちゃった。」以上。
 3回目ぐらいに、お風呂入れた時に「御所の湯」のこと聞いて、流されたことは知っていて、
 由来を知りたかったんですが、宿題のまま残っています。

○釜八幡神社 釜神八幡伝説(山口氏の記述のあらましです)

 八幡幡太郎義家は奥州の安倍の貞任、宗任を征伐しその残党を追って会津西街道を下って来た。
 川戸平に落ち着いた安倍の落人達は男の子の誕生を祝い、
 端布で作った幟旗を立てて祝宴をしていた夜明けに一番鶏の鳴き声と幟旗で居所を突き止められ、
 八幡太郎の奇襲を受けて降参した。
 雑穀を集めて飯を炊き八幡太郎に献上した。この時の釜を祭祀したという、
 この氏神は釜を祀ることから釜八幡宮と呼び信仰しているという。
 栗山村の文化財 現状調査資料 栗山村文化財保護審議会 釜八幡伝説 

 (山口久吉氏の註:
  八幡太郎の奇襲を受けたのが五月五日の節句の日だったので、当地では、
  一日遅れの五月六日に節句の祝をやっている。
  鯉幟りも立てないし、鶏も飼わない、卵も昔は食べなかったと云う。)

    

○伝説外の追記の話

 伝説の他、以下の内容の追記があります。
 寛治元年(1087)前九年の役、後三年の役 勝利の後、源八幡太郎義家が下野の領地拡大を進める。
 義家は、二荒山領内には兵を進めていない。
 これは二荒山は古来より源氏の信仰の地であり親族同族の為である。
 落延びた安倍一行は、二荒山湯西川寺領に一時匿われた。
 この一行は安倍貞任の近親者で、二荒山座主または湯西川寺領主との何等かの親交が在った者達と考えられる。
 二荒山湯西川寺領に残党ありと知った源八幡太郎義家は、八幡太郎伝説の様な奇襲はせず、
 源氏の信仰の親族同族地である為慎重に行動した。
 義家側は二荒山側に真意を確かめ、両者の間で交渉、契約が交わされ指示により、
 安倍氏側から意思表示として、戦の命兵糧用の鍋であるこの野戦釜を八幡釜と称し、
 川戸の釜八幡神社に奉納した。
 この事の年代は不詳だが、推定では寛治元年(1087)の凱旋後から
 寛治7年(1093)塩原家忠地頭任命の間としています。

 「釜八幡伝説は、当地にもう一つ在る落人伝説のモデルになっていると思われ、話の内容がよく似ている。」
 「古文書は歴史の証人である」「伝説は歴史ではない」(山口氏の言)


□那須では鶏を飼わない

「下野那須温泉之栞」という温泉本に興味深い記述がありました。

 梶原景時の高館城攻めは伝説の域ではありますが、
 明治の「名勝旧跡案内」(栃木県発行)の高館城の項目でも記載されています。

 那須では「鶏を飼うと火に祟る」として、温泉神社の氏子連は、決して鶏を飼わず今に及んでおり、
 鶏肉にせよ、玉子にせよ、白河か黒磯から購入するのだそうです。

 那須では風強く、雪も強く、瓦屋根ではもたないので、板屋根に板ひさし、大石を乗せた屋作りで、
 火が出れば全村灰燼になりかねません。

 平家に味方をした那須太郎光隆と弟が那須に潜むと鎌倉方が知るところとなり、
 梶原景時は頼朝にこれを討たんとすすめ、梶原景時・景季が文治2(1186)年に3千騎を率いて出動します。
 梶原景時・景季は、高館城を落とすべく、風の夜に数千羽の鶏の脚に火をくくりつけて放ち
 忽ち火災がおこってさしもの城も陥ちたとのこと。

 資隆は隠居館の福原城に移り、高舘城に隠れていた与一の兄たちは、信濃国諏訪に走ります。

 那須家の尊信する温泉神社の氏子連は、この時から決して鶏を飼わず今に及んだとのことです。


□考察

○ 有名になった湯西川の平家落人

 湯西川の平家落人が有名になったのは、この地に嫁いで女将となられた方のご尽力です。
 「しもつけのくに湯西川」という本も出されています。

○ 明治時代の伝承

 明治時代の鉱泉誌には、湯西川温泉、川俣温泉、日光澤温泉は平家落人の関連が記載されています。
 日光澤温泉も平家落人関連と記載されているのは、
 日光澤温泉は、川俣温泉で管理(冬は閉鎖して川俣に引き上げていた)していたからです。
 蛇足ですが、平家納豆で有名なこいしや食品の小池久男元社長は加仁湯の社長の息子さんです(未確認情報)。
 加仁湯でもこいしや食品を扱っているのはこのような経緯です。
 「日光山志」(江戸時代)では、小松性が平家余類(残党のこと)との伝承とのこと。
 加仁湯の社長は、小松さんですね。

○ 平忠実とは?

 平忠実なる人物は、歴史上出てきません。
 ようやく平忠実の記述を見つけたのが、「療養本位温泉案内 東日本篇」(温泉調査会編 白揚社 昭14)。
 以下記述しています。
 「湯西川の伴久旅館の先祖は、平忠実といい、永享年間、50余名の部下と共に此地に落着いたもので、
  今は21代目に当り、分家百余戸、一村挙って親類のようなもので、・・・」
 永享年間は、1429年〜1441年です。温泉調査会が、どんな調査したのか不思議。
  
 慈眼寺墓地にある「伴家家系之図 25代当主 株コ久ホテル社長 伴久一建之」によれば、
 「平忠実 正平六年 源泉を発見(湯西川)」
 正平6年は、1351年です。
 伴久ホテルの話は、平忠実公が正平6年、湯の涌き出るところならば子孫誰かは掘り起こすこと必定なりと、
 愛用の藤鞍、物の具、金の延棒などを埋め、その後も湧湯の事を洩らさず一族と共に隠生活を続けた。
 天正元年、第11代伴対馬守の代に至ったある日、雪の積もらぬ個所を川辺に見やれば
 川底より湯が涌き出ているのを発見した。

 一方で、平忠実は、平忠房の子としており、温泉を発見した平忠実と同一人物であれば、
 1351年当時、170歳ぐらいですね。温泉調査会が記している発見が永享年間だと、260歳。
 子孫に同名の平忠実がおられたと理解しましょうか。
 一方で、本家伴久では、平忠房と平忠実は同一人物で、平忠房=平忠実が温泉を発見したとしています。

 伴家23代は伴久一郎氏(栃木県塩谷郡郡議会議員)ですが、本家伴久旅館の25代伴玉枝社長と、
 伴久ホテルの25代伴久一社長とで、伴久一郎氏という同じルーツなのに伝承が違っています。
 伝承なので、違っていてもさほど気にはなりません。

 あと理解できないのは、温泉調査会が伴久旅館は昭和14年現在で、21代目としていますが、
 大正5年当時、伴久一郎氏は第23代と顕彰碑に刻まれています。

    
  
○ 平貞能一行は、壇ノ浦の合戦時にはすでに塩原にいた。

 平家一門都落ちの際、平頼盛は寝返って京に戻りますが、
 平家一門が西に落ちる中、平貞能は東に向かいました。
 貞能一行は、壇ノ浦の合戦時には塩原にいます。
 平家物語では貞能がなぜ敵地の東に向かったのかわからないとあります。
 ましてや壇ノ浦で破れた残党が敵の本拠地である関東に向かうのは尋常ではありません。

○ 忠房も壇ノ浦に参戦していない。

 5男師盛は一の谷の戦いで敗走中に14歳で死亡(年齢は諸説あり)、
 6男忠房はそれより若いでしょう。
 忠房は壇ノ浦の前に陣を抜け出し、壇ノ浦の合戦には参加していません。
 壇ノ浦後に鎌倉に出頭して京への帰路、頼朝の命により斬首されます。
 平忠実=忠房ではないでしょう、平忠実=忠房の子説も、小学生の忠房が親というのも?

○ 平貞能の家臣たちは城主になっている。

 平貞能の家臣たちは、妙雲禅尼の死後、貞能が塩原を離れる際に、ついていかず(つれていかず)、
 後に、田野城主(関谷館)、山田城主となっています。

○ 源平の戦いは、家紋ではなく、白旗と赤旗で戦った。

 家紋が定着したのは戦国時代からで、戦場で敵味方を見分けるための「マーク」として使われます。
 平安時代に貴族が牛車などにマークをつけて所有者がわかるようにしたのが家紋の発祥です。
 名前を記載する代わりですね、実際に家紋とは呼ばず「身印」と呼ばれています。
 源平の戦いは、家紋はなく、マークは白旗と赤旗でした。運動会の白組、赤組の起源です。

 草津温泉には、源氏の白旗に因んだ「白旗の湯」があります。
 平家の赤旗に因んだ赤旗の湯はないですね。

○ 鯉のぼりをあげる習慣は江戸時代から

 鯉のぼりをあげる習慣は江戸時代からはじまりました。
 中国の「登竜門」の鯉の故事によります。子どもの立身出世を願う親の思いがこめられ揚げ始められました。
 鯉のぼりを揚げるのは町人の文化でした。武家は、端午の節句には家紋の幟や吹き流し、鍾馗(しょうき)の幟を上げました。

○ 山口久吉氏(旧栗山村の文化財審議委員会会長)の話

 「湯西川温泉マニアックス」によると
 湯西川では鶏権現様を祀る氏神信仰から、氏子は鶏を飼わなかったし、卵も食べなかったそうです。
 湯西川は米がとれない地域のため、年貢は大豆で納めました。
 時代の推移とともに雑穀類を栽培しなくなったために、鶏の餌がなくなり鶏が飼えなくなり、
 鶏を飼っている家がなくなってしまいました。
 以前は黒色の羽毛の純日本鶏を家ごとに飼っており、鶏の黒い尻毛は、昔から行われてきた獅子舞の、
 獅子頭につけて頭を形づくっていました。
 黒色の長い毛ほど貴重がられたそうです。
 白色レグホンのほうが産卵率が良いので白い毛の鶏に変わり、そのため獅子頭も町のほうの養鶏家から
 黒い毛を買うようになったそうです。

○ 湯西川の獅子舞

 湯西川の獅子舞は、日光市の文化財に指定されていますが、その説明では、
 温泉の守護神として湯殿山大観現をお祀りした頃から、獅子舞が行われるようになったものらしいとあります。

 塩原平家獅子舞は、栃木県の文化財に指定されています。
 栃木県の文化財の説明によると、
 「平貞能は一行は、平重盛公の遺骨を奉持し、その妻得子や姥らとともに妙雲寺に居を移し、
 重盛公の守本尊であった釈迦牟尼仏像を安置して一門の冥福を祈り、かつて栄光をもたらした獅子舞を
 その霊前に奉納しました。この獅子舞が現在まで伝えられたと言われています。」

○ 武具甲冑は平安時代のものではない。

 天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めの際には、
 日光山衆徒は北条氏に加担、出兵し、秀吉の怒りをかうこととなり、
 日光山寺領湯西川十乗房は、焼き討ち・没収となり、湯西川村は一村ことごとく焼亡しています。
 湯西川村の記録がすべて燃えてなくなっているぐらいですから、
 僧兵が秀吉に敵対できないよう、湯西川村は武装解除され、
 武具甲冑は秀吉に燃やされたと考えるのが筋と思います。
 旅館等に展示している武具甲冑は、いつの時代のものか情報がありません。
 秀吉の焼き討ちのあった1590年以降のもので、
 甲冑に平安時代作成の記録が残っているものは存在していないのでは?
 「日光山志」(江戸時代)によると、
 「家蔵とする古文書古器などもなければ、其来由も定かならず。」とし、
 江戸時代には、平安時代の武具甲冑は存在していなかったことになります。

黄金伝説について

 川治や平家塚に黄金伝説があります。
 川治は黄金橋(色は青ですが!)まで作っています。
 川俣の平家塚は、見ると目が腐り、触ると手が腐り、登ると足が腐るとの伝説があり怪しいです。
 盗掘にあっているそうで、黄金はないのでしょうが、腐りまくり伝説のため
 調査をしようにも、畏れ多いとのことで川俣の住民の了解を得られず
 調査はできずにこれまで経過しているようです。

 ※薬師堂
  目にご利益があるとされる薬師堂に、湯西川の薬師堂、川俣の薬師堂、芹沢の薬師堂がありますが、
  芹沢の薬師堂は、ご本尊を見ると、目がつぶれるという伝説があります。
  そのため、厨子は開帳しないことになっています。
  川俣の平家塚も見ると目がつぶれる、触ると手がくさるなどといった伝説です。
  人を近づけない昔の人為的な意志を感じます。

 妙雲寺の平家塚なんかも、平貞能一行が住んでいただけに監視体制十分で怪しそうです。
 伝説があるにしては、塩原では形となるものに金をかけていません。
 金使いが目立つと鎌倉方に怪しまれるのを恐れたと考えると納得いきます。

 川俣湖の愛宕山に、バス停は川俣平家塚ですが大将塚があります。
 教育委員会でもよくわかっておらず「大将塚と呼ばれる墳丘(行人塚か?)」(案内板)と記載されています。

     
   湯西川の平家塚              川俣の平家塚         塩原の平家塚      川俣湖の平家塚(大将塚)


〇湯西川 六地蔵逆修供養塔 慈光寺内

 ウィキペディアの六地蔵供養塔の説明を見ると、
 その内容は供養塔に陰刻された内容及び慈光寺の歴史と異なるものです。
 ウィキペディアで間違いがまかり通っていることが不思議です。
 ウィキペディアの説明↓
 「1549年(天文18年)伴対島守忠光が先祖を祀る六地蔵供養塔を湯西川温泉慈光寺内に建立。」

 湯西川温泉マニアックス「湯西川の歴史」(山口久吉)では、
 慈光寺の六地蔵供養塔について、丁寧かつ詳細に解説しています。
 長いので、適宜ピックアップし、現地確認を折り込み、六地蔵供養塔についてまとめます。

(まとめ)

 六地蔵逆修供養塔は、戦に行く自分を、
 亡くなってからでは供養出来ないので、六道を以って先に供養する、
 また、自分たちより若くして亡くなった者を供養する逆修の供養塔とのこと。
 慈光寺の供養塔には、『天文十八年巳酉季三月吉日』(1549)、『六地蔵奉為逆修善退也』の陰刻があり、
 戦国時代の戦に参加する日光山の将や兵僧達とその関係者が建てたものとしています。

 為逆修の文字が明瞭に読み取れます。
 また、善退と刻まれ、殺生を行う戦に出兵する僧兵達の供養塔ではないだろうかとしています。

 上西川(湯西川)は平安時代より源氏の領土、支配権にあり、
 数ある戦にここ日光山領から僧兵を対平家に出兵した記録が残る土地とのこと。

 天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めの際には、
 日光山衆徒は北条氏に加担、出兵し、秀吉の怒りをかうこととなり、
 日光山寺領湯西川十乗房は、焼き討ち・没収となり、湯西川村は一村ことごとく焼亡しています。

 慈光寺は、慶長12(1607)年に、焼亡した沢口向の寺と川戸平の寺を一寺として現在地に建てられました。
 この両寺は、秀吉の怒りをかった日光山寺領湯西川十乗房です。
 六地蔵供養塔は、湯西川十乗房の寺領内に天文2(1549)年に建てられましたが、
 秀吉の焼き討ちにあい寺は焼亡し、現在地の慈光寺が建てらた場所に移転されたものです。

 関東大震災で燃えた石碑は、ヒビが入ったり、文字が一部損壊して読めないものがありますが、
 この六地蔵供養塔は、文字が明瞭に読むことができ保存状態が極めて良いです。
 1590年、沢口にあった寺が焼き討ちにあった時、大事にされて、隠して燃えなかったものと思います。

     

    

○六地蔵供養塔

野尻薬師堂> 日光市日向579 

 野尻六地蔵供養塔は、栗山地区で最も古く、「天文二年丁酉八月日廿三日」(1533年)銘。
 栗山郷遊城院の寺領内に建てられた供養塔で、
 湯西川郷十乗房のように秀吉に焼き討ちはされず、領地没収で、断絶・移転はありません。
 川治ダム建設により現在地へ移転再建されています。

 日光市文化財として1基指定されているので、これだけかと思ったら、
 六地蔵供養塔が4基もあり、壮観でした。
 一番古いのが天文二年〜と刻まれています。
 湯西川の六地蔵供養塔と同じつくりで、石工は同じ人かと思えるほど。

 他は安政四年五月吉日、安政四年(一番下が読めない、村平南?)、
 年が刻まれていない六地蔵の、計3基。文化財指定分を含め、合計4基です。
  
 天文2年六地蔵供養塔(日光市文化財)
     

 その他の六地蔵(日光市文化財指定なし)
      

     

<他地域の六地蔵>

 六地蔵はよく見た気がしますが、思い出したものを挙げると、

 ・燈籠形六地蔵石幢 塩原新湯 温泉神社
  永正15年(1518)4月吉日、願主昌泉が悪疫流行を治めるために旧湯本村温泉神社に奉納。
  「為一切聖霊色願主昌泉永正十五年四月吉日敬白」銘。

 ・六地蔵供養塔 上三依野仏群
  解説板は、ありふれた説明しかないです。

 ・六地蔵供養塔 中塩原 戦場阿弥陀堂
  気になって撮っていた供養塔ですが、地蔵が摩滅しているほどで、文字が読めず。

 ・六面憧ー六地蔵尊 上塩原 旧尾頭道石仏群
  宝永7年(1710)の六地蔵尊です。

 ・六地蔵 市貝町(旧赤羽村)
  明治17年12月再建と刻まれており、新しいです。

      


□黄金伝説フィクション ー諸行無常「平貞能」ー

 ここで、平家落人に関する黄金伝説について勝手かつ大胆なフィクションを造ってみました。

 黄金を預かっていたのは平貞能で、平家再興のためではなく、
 弔いを中心に、末裔の生活や安全を含めて全部使ったと推測します。
 貞能は各地に寺を建てた伝説がありますが、資金源があってこそのことと思います。

 平重盛は、日宋貿易を担う中、中国の育王山と皇帝に黄金3千両ほどを寄進し、
 その篤志に対しいろいろと送献を賜っています。

 平重盛が中国に黄金を寄進した経緯は、重盛が貞能に相談し、奥州の黄金を贈ろうとなり
 貞能と繋がりのある博多の船頭妙典にこれを指示しました(平家物語「金渡」)。

 奥州の金と日宋貿易は、重盛・貞能によって担われていました。
 黄金の出所は、平重盛の知行苑(荘園)である金の産地である気仙の玉山金山です。

 貞能が重盛家の金庫を預かっていたとすれば、妙雲禅尼と得律禅尼を伴って東に向かう際、
 重盛公ゆかりの品々を帯同し、先立つものは金、黄金も所持していたはずでしょう。
 貞能にとっては、重盛公ゆかりの品々は、黄金の寄進に対して送献されたものであり、
 貞能もこの件に奔走し、中国からの送献に、重盛がたいそう喜んだことも目の当たりにしており
 重盛公ゆかりの品々は、重盛の遺志そのものであり、黄金よりはるかに大切なものだったと思います。

 平家物語の都落ちの章によると、貞能は軍勢を宗盛に返し、手勢30騎を伴って重盛の墓に
 行っています。貞能の東へ向かった一行は30世帯以内と推測されます。
 所帯が大きいと目立つし不審をかうので、頼朝の許可を得るためにも、
 塩原の貞能一行とその他に別れたのかもしれません。

 貞能の家臣で、名前が残っているのは、後の田野城主(関谷館)、後の山田城主の2家臣であり、
 この2家臣も妙雲禅尼が亡くなるまで塩原に滞在しています。

 貞能は、主な家臣は塩原の自分の手元に置いていたと考えます。
 塩原には、平家獅子舞という無形文化財が現代まで継承されており、
 人の営みが形となって受け継がれ残っているのは塩原だけです。

 さて、貞能は、源頼朝が許可した宇都宮朝綱預かりの身であり、
 宇都宮の領地をおおっぴらに離れられないはずです。
 貞能が創建した益子の安養寺は、宇都宮領なのでセーフでしょう。
 事実、頼朝許可後の伝説以外の公の記録には、貞能のその後の動向は不明です。

 1194年、貞能は弔い供養を施し塩原を離れた同じ年に、安善寺を創建し、ここに居を構えました。
 安善寺創建の2年前の1192年に、宇都宮朝綱は大羽に隠居しています。
 貞能と宇都宮朝綱は、現在の益子町内のご近所さん。
 宇都宮朝綱が隠居した地に、妙雲禅尼が死去してすぐに貞能が引っ越してきたことになります。

 塩原温泉郷土史研究会の調べによると、平貞能一行は、かつて平将門の支配地であった常陸大掾を頼り、
 小松寺に平重盛の念持仏といわれる如意輪観音像を安置し、
 裏山の高台に平重盛の遺骨を埋葬し、病弱の得律禅尼を小松寺にお願いし、
 妙雲禅尼を伴い宇都宮朝綱をたより下野国にはいったとあります。
 小松寺を訪れたのは、1183年か1184年となります。
  
 重盛公の遺骨が小松寺に埋葬されていますが、ここは宇都宮領ではありませんが、宇都宮領と接している地です。
 宇都宮朝綱をたよる前提で、宇都宮領から一歩出た、小松寺(現在の県道51号経由だと安善寺まで28km、妙雲寺 までは75km)に埋葬したのも一因かとも考えられるのではないかと思います。

 貞能は、奥州の金と博多の中国からの輸入品の輸送を担当する厩を管轄していました。
 各地を行脚するに際しては、厩を管轄していた経歴が役立ったことでしょう。
 立場上、記録に残るような目立つ行動はせず、妙雲禅尼や得律禅尼の警護を家臣に任せ、
 わずかな手勢を伴って、ひそかに各地を行脚しては、弔いをしたり、寺を起こしたり、
 重盛家ゆかりの人がいると聞けば訪れて支援したり、伝説は残したけれども、
 黄金は使って残していないと推測します。

 重盛公の墓所がある小松寺の唐門は、大掾義幹による寄進とされていますが
 金の出所は、貞能ではないでしょうか。
 黄金をたくさん持っているのが鎌倉に知れたら大変な事態となるので、貞能が寄進した形をとらず
 大掾義幹に黄金を託して、小松寺を整備した可能性も否定できないと考えます。

 大掾義幹がいくら平家一門といえど、手の込んだ高価な唐門をポンと寄進できるとは思えません。
 重盛公は信仰篤く黄金をそのために使っており、番頭だった貞能は、重盛公の遺志を継ぐはずで、
 将来の平家再興のためとっておくなんてことは考えもせず、
 菩提弔い等のため、使い切って、残っていないどころか、足りなくなったと考えるのも筋かと思います。

 仙台の西方寺に定義伝説があり、近くには重盛の荘園であった玉山金山があります。
 金山のある気仙郡では西方寺への信仰が篤いようですし、
 貞能は、東北で密かに資金を補っていたと考えることもできそうです。

 貞能の家臣の墓標が西方寺にありますが、妙雲寺、安善寺、小松寺にはありません。
 貞能は、宇都宮朝綱預かりの身であり、おおっぴらに宇都宮の領地を離れられません。
 貞能の家臣も宇都宮領から離れられないはずで、
 貞能の死後、名前の残っている家臣は、宇都宮家にかかえられています。
 
 そう考えると、貞能の家臣の墓標が西方寺にあるのは驚きです。
 玉山金山近辺を生活の拠点とする家臣を密かに配していたからに違いないと推測します。
 鎌倉方に知られたら一大事の危険を冒してまで家臣を置く理由とは、玉山金山からの資金確保でしょう。
 西方寺では、隠棲したと伝わるほど、貞能の訪問頻度が高かった、滞在日数が長かったに違いありません。
 
 西方寺では貞能を定義と名前をかえて隠棲したとの伝説ですが、
 名前をかえてまで隠棲する理由はなんでしょうか。
 宇都宮朝綱預かりの貞能が宇都宮の領地を離れて仙台にいると鎌倉方に知れたら一大事ですし、
 玉山金山との関連を鎌倉方に推測されたらそれこそアウト!でしょう。
 自分の身ばかりか、宇都宮家の存亡にもかかわる一大事になってしまいます。
 貞能が名前をかえて隠棲した伝説が残っているのは仙台だけであり、
 仙台に家臣を配して、訪問頻繁なことは、鎌倉方には最も知られてはならなかったと推測します。
 身を隠すため名前をかえたとの西方寺での伝説には説得力(ロマン)があります。
 各地の伝説に整合性がつかないのは、鎌倉方を意識しての偽装があるからと思ったりします。


□年表

 1183 平家都落ち、貞能は同行せず(平家物語)
 不明 小松寺に重盛公の遺骨を埋葬。重盛夫人を小松寺にたのむ。貞能と妙雲禅尼は下野国に向かう。
 1184 貞能一行塩原に草庵を結ぶ(那須塩原市のHPに記載)
 1184 3月一ノ谷の戦い
 1185 4月壇ノ浦の戦い
 1185 7月7日源頼朝は平貞能を宇都宮朝綱の預かりとすることを許可(吾妻鏡に記載)
 1192 宇都宮朝綱、大羽に隠居
 1194 妙雲禅尼死去。貞能、弔い供養を施し塩原を離れる。家来は塩谷にとどまる。
 1194 貞能、安善寺を創建。
 1198 貞能、建久9年7月7日、60歳で死去。家臣が弔う。西方寺に貞能の家臣の墓標もある。(説1西方寺)
    貞能、建久9年2月13日、89歳で死去。(説2小松寺)
 1199 源頼朝死去
 1204 宇都宮朝綱死去83才
 1219 重盛夫人、承久元年9月11日、69歳で死去。(説 小松寺)
 1234 貞能、文暦元年92才で大往生。(説3安善寺)

 ※ 貞能の家臣は、妙雲禅尼が亡くなるまで塩原にいました。
  貞能は小松寺の重盛夫人をひとりにさせるはずはないと思うのですが
  小松寺には家臣の話が出てこないのが不思議です(宇都宮領ではないことが関係していると推測)。
   貞能の墓は、栃木の安善寺、茨城の小松寺、宮城の西方寺にあり、どれが本命かはわかりません。
   すべて本命かも。
  (安善寺が本命で、貞能の遺志で小松寺に分骨、家臣の希望で西方寺にも分骨か遺品と想像)


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