ほっと湯WEB【静岡】
 
 畑毛温泉/大仙山遊園地

  ○ 畑毛温泉沿革
  ○ 富士見館
  ○ 伊豆畑毛温泉誠山
  ○ 源泉湧出地旧源泉韮山温泉土地開発
  ○ 大仙家
  ○ 閉館宿
    ・角萬旅館 畑毛魚屋温泉旅館 西館 旅館つるみ いづみ荘

  ○ 湯塚稲荷神社

  ○ 若山牧水歌碑
  ○ 若山牧水/畑毛温泉中華亭
  ○ 山櫻の歌「畑毛温泉にて」
  ○ 与謝野鉄幹・晶子
  ○ 廣池千九郎畑毛記念館

  ○ 函南町営温泉スタンド
  ○ 源泉 駒の湯荘

  ○ 柏谷横穴群
  ○ 蛭ヶ小島跡(源頼朝配流の地蹟)/蛭ヶ島の夫婦(頼朝と政子)
  ○ 韮山反射炉/江川太郎左衛門像


畑毛温泉

 <畑毛温泉沿革>

  畑毛温泉は、伊豆半島温泉群の北端入口に位置し、函南町及び伊豆の国市の両市町に跨る集落地内の温泉地です。

  東側には、富士山への眺望に優れた大仙山(標高167.2m)がそびえ、
  西側には、柿沢川が流れ、富士山への眺望景観が得られます。

  畑毛温泉は古くから開けており、伝承では、源頼朝が軍馬の療養を行ったとされているほか、
  江戸時代には「湯塚の湯」という名前で、腫れ物に対する温泉の効能が広く知られていました。

  「箱根熱海温泉道案内」(橋爪貫一編 明10.9)を見ると、湯塚湯が畑毛村字湯塚で湧いています。
  別の資料によると、水田に2源泉とありました。
  また別の資料によると、松屋の浴槽がこの源泉とありました。

  「富士脈温泉案内」(上条勝太郎 伊豆交通社 大正元年)に記載の宿を見ると、
  琴景舎(別邸あり)、中華亭支店(本店は大場駅前)、松屋、七峯館、富士見館の5軒とあります。
  「伊豆温泉案内」(菊池芳園著 岳南社 大正10年)による、当時の畑毛温泉場です(下記画像)。

     
      

 <国民温泉保養地>

  畑毛温泉は、昭和37(1962)年に国民温泉保養地に指定され、平成28(2016)年6月23日に温泉地計画が改訂されました。
  最盛期は12軒の旅館・民宿がありましたが、現在は3軒のみ。
  現状は国民温泉保養地としては、他の保養地に比べると、見劣りします。

  「韮山温泉土地第3号泉畑毛2号」と「大仙湯奈古谷24号」の2源泉があります。

  ・韮山温泉土地 第3号泉 畑毛2号
    30.7℃ 600L 単純温泉(低張性弱アルカリ性低温泉)
    富士見館、伊豆畑毛温泉誠山、大仙家で使用
  
  ・大仙湯奈古谷24号
    33.3℃ 15L ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩温泉(低張性アルカリ性低温泉)
    大仙家で使用

  畑毛温泉周辺には、世界文化遺産に登録された韮山反射炉があるほか、
  国指定の史跡柏谷横穴群、国の重要文化財である江川邸、北条早雲の居城であった韮山城跡、
  源頼朝の配流の地であった蛭ヶ小島跡など、歴史上興味深い史跡があります。 
  ・韮山反射炉  伊豆の国市中260-1
  ・柏谷横穴群  函南町柏谷676柏谷公園
  ・江川邸    伊豆の国市韮山韮山1
  ・韮山城跡   伊豆の国市韮山438-3
  ・蛭ヶ小島跡  伊豆の国市四日町17-1

  ※「畑毛温泉国民保養温泉地計画書(平成28年6月環境省)」及び現地確認から上記まとめました。

    

      


〇熱海街道(静岡県道11号熱海函南線)

 熱海市と函南町を結ぶ県道で、標高617mの熱海峠を越える旧道と、
 全長1,268mの鷹ノ巣山トンネルを通る新道があります。
 熱海から鷹ノ巣山トンネルを越えて函南町に入りました。

  
 

<正岡子規句碑>  函南町軽井沢90-1軽井沢公民館前

 熱海から鷹ノ巣山トンネルを越えて函南町に入ったので、ロストしていますが、
 熱海峠を越える旧道を行くと、軽井沢公民館前に正岡子規の句碑があります。

 「唐きびのからでたく湯や山の宿」

 正岡子規の紀行文「旅の旅の旅」中の一句。
 明治25年10月15日の夕暮、韮山から熱海に向かった子規は暗くなってこの地で宿を乞いました。
 混んでいるところを無理に頼んで泊めて貰い、宿の小娘のトウモロコシの殻で沸かしてくれた湯に入りました。

 「旅の旅の旅」抜粋
  この風呂に入り給へと勸められて其儘湯あみすれば
  小娘はかひがひしく玉蜀黍の殻を抱へ來りて風呂にくべなどするさま
  ひなびたるものから中々におかし。」
 


富士見館  函南町畑毛226 055-978-3014

 日本温泉協会会員宿。

 入口横に石碑があり、富士見館の歴史が刻まれています。
 明治43年創業、昭和59年10月本館完成。
 明治時代に畑毛温泉にて創業した宿で、今も残っている宿は、富士見館だけです。

 広い駐車場は木造旧館を取り壊した場所です。

 流し台は昔ながらのもの。
 玄関の御幣で祀られた飲泉所らしきものは源泉は落ちていませんでしたが、
 浴室入口右手にも、飲泉所らしきのがありますが、こちらも源泉は落ちていません。

 浴室出口には、「Arvo Part Passio」(音楽のジャケットですね)

    

     

     

     

     

     
 

<駐車場/大仙山案内図>

 大仙山の大きな案内図が掲げられています。

 大仙山山頂までのご案内 
  〇伊豆八景二十五勝
  〇源頼朝の腰掛の岩
  〇仏舎利塔
  〇金毘羅宮・正夢観音堂
   ※大仙山頂までのご案内では、徒歩20分と書かれていますが、現在地から20分では無理。
    大仙山駐車場から正夢観音堂まで10分、正夢観音堂から金毘羅宮の鳥居まで10分かかりました。
    鳥居から反対側の大仙山頂上までは数分。
    案内図に沿った行程は別途記載

     

     
 

<長生きの湯>

 源泉名「韮山温泉土地第3号泉畑毛2号」大正11年に掘削
 源泉注入量:毎分15.8L
 影響を与える項目「加温、循環ろ過、塩素」

 「昭和60年の浴室」
  昭和60年4月撮影の男子浴室写真が浴室入口に飾られています。

 「日帰り入浴の方へお願い」
  脱衣所に掲示されています。

 「伊豆畑毛温泉」
  浴室内に、古い分析が掲げられています。
  「銀粒の遊離炭酸が皮膚を刺激して」とありますが、泡付きは確認できません。

 浴室内は、高温風呂(41.0℃位)、中温風呂(38.0℃)、源泉風呂(34.5℃)と
 温度の異なる3つの浴槽があり、3つともジャグジー仕様です。

 3つの浴槽それぞれで、湯中の窓側から冷たい源泉が常時投入されていました。

 窓の外の庭に、燈籠と郵便ポストが見えます。

   

     

      
 

<高橋松璋さんの言葉>

 靴入れからはじまり、館内中に三代目館主の高橋松璋さんの言葉が貼られています。

 「僕、高橋松璋はPCを使えません!
  ですから、「畑毛温泉を」皆さんの口で宣伝して下さい。
  宜しくお願いします。
  高橋松璋」

 「古い旅行鞄」
  高橋松璋さんの祖父で、初代館主高橋寅吉さんが使用していた
  古い鞄が置かれています。

  2階への階段にも貼ってあり、1階にあった目についたものだけ撮りました。

      

      

     

      


伊豆畑毛温泉誠山  函南町畑毛244-4 055-978-3661

 2018年2月1日に新たに「伊豆畑毛温泉誠山」がオープンしています。
 旧高橋別館(明治21年創業「琴景舎(高橋館)」の別館)だった宿。
 日帰り入浴は、2時間 580円 土日祝680円 7:00-23:00

     


源泉湧出地  函南町畑毛沖城ヶ下256-4

 源泉「韮山温泉土地第3号泉畑毛2号」の湧出地です。

 韮山別荘団が大正11年に掘削した源泉。

 畑毛温泉の国民保養温泉地計画書によると、
 揚湯ポンプや配管等は、老朽化が進んでいるため、数年内での更新を検討していくとしています。

    


かつての源泉  函南町畑毛278

 大仙山入口を進んでいくと、左手に、かつての源泉櫓があります。
 タンクの下の石室になにか見えます。2像祀っていました。

     
 
    


韮山温泉土地開発株式会社  函南町畑毛244

 「韮山温泉土地第3号泉畑毛2号」の分析書申請者は、韮山温泉土地開発株式会社となっており、現地の様子です。
 廃屋しかありませんでしたけど?

     


大仙家  伊豆の国市奈古谷655 055-979-7000 日帰不可

 吉野作造由来の由緒ある宿です。宿のホームページに詳細が記されています。

 与謝野鉄幹・晶子は大正11(1922)年2月9日〜11日、畑毛温泉栄家(大正10年創業:現在の大仙家)に、
 平野万里、石井柏亭、高木藤太郎、只躰(誰かな?)と宿泊しています。

     
 

<駐車場に源泉>

  

<吉野作造>

 


湯塚稲荷神社  函南町畑毛199

 辰巳家(和菓子)から、石川啄木の歌碑へ向かう途中の右手に、湯塚稲荷神社があります。

     

    


閉館宿】

〇角萬旅館  伊豆の国市奈古谷664-1

 2006年5月25日に閉館。
 不動産会社が管理しています。2億円で売却に出ています。
 日本温泉協会のサイトに残骸が残っています。

     

<かつての角萬旅館>(残骸拾い)

      

      
 

○畑毛魚屋温泉旅館  伊豆の国市奈古谷702-1 

 取り壊され、住宅地の一画となっています。

  
 

○西館  伊豆の国市奈古谷669-1 055-978-3093

 宿の看板ははずされ、閉館しています。生活されています。

  
 

○旅館つるみ  函南町畑毛258 055-978-3375 日帰不可 裏に源泉

 閉館しているような閉まりかたでした。
 函南町や観光協会のサイトには記載されているので、たまたま閉館していたのかもです。

    
 

○いづみ荘  函南町畑毛227-2

 石川啄木が宿泊した宿ですが、更地となり、啄木の歌碑もなくなり、新しい住宅が建っています。

  


若山牧水歌碑  函南町畑毛177畑毛排水機場
 
 柿沢川沿いに畑毛排水機場があり、その脇に若山牧水の歌碑があります。
 昭和63(1988)年10月、牧水没後60年に歌碑が建立されています。
 歌碑の上に、富士山が見えます。

 『長湯して飽かぬこの湯のぬるき湯にひたりて安きこころなりけり 牧水 旅人書』
 『昭和六十三年十月吉日 函南町文化協会建之』

 『紹介文
  若山牧水は、畑毛の湯と自然を愛し大正十一年九月滞在して、二十七首の歌を詠む。
  畑毛温泉観光協会は、この優れた自然の保全と良好な環境整備を施し、湯けむりと
  景観の美を活かし、安らぎと豊かな情操を育くむ観光拠点とすべく、村おこし観光元年にちなみ、
  この地をいこいの場と、活用をはかる。
  函南町文化協会もまた、牧水没後六十年を機に文化に貢献した故人を顕彰し、
  明日の文化発展の証しに、その代表作を選び、この碑を建立する。
                        昭和六十三年十月吉日』

     

     
 

若山牧水/畑毛温泉中華亭>

 若山牧水は、大正11(1922)年9月23日から畑毛温泉中華亭に3日ほど宿泊しました。
 画像は、「伊豆温泉案内」(菊池芳園著 岳南社 大正10年)に掲載の中華亭の広告です。

 昔の絵葉書を見ると、中華亭→山荘中花亭旅館→いづみ荘となっています。
 (電話番号が大場7番と同じことから、そのように推定)
 いづみ荘は平成16(2004)年、高齢者のデイサービス施設となり、その後、解体更地、分譲地となって家が建っています。

 いづみ荘にあった、和歌山牧水の歌碑
 『人の来ぬ夜半をよろこびわが浸るいでゆあふれて音たつるかも 牧水』『大正十一年 いづみ荘にて』

 2014年9月のグーグルストリートビューでは、碑がありました。
 2018年7月のグーグルストリートビューでは、更地となり、碑がなくなっています。
 2019年現地確認では、歌碑はなくなり住宅が建っていました。

 若山牧水は、この後10月14日から「みなかみ紀行」の旅に出かけています。

   
 

山櫻の歌「畑毛温泉にて」>

 「山櫻の歌」(若山牧水 新潮社 大正12年)に、畑毛温泉について、27首の歌が収められています。

   

 「畑毛温泉にて
 〇人の来ぬ夜半をよろこびわが浸る温泉あふれて音たつるかも
 〇わが肌のぬくみといくらもかはらざるぬるきいで湯は澄みて湛へつ
 〇夜ふけて入るがならひとなりし湯のぬるきもそぞろ安けくてよし
 〇長湯して飽かぬこの湯のぬるき湯にひたりて安きこころなりけり
 〇つぎつぎに出でし欠伸もいでずなりて心は澄みぬ夜半の湯槽に
  夜のふけをぬるきこの湯にひたりつつ出でかねてをればこほろぎ聞ゆ
 〇田づらより低き湯殿にひびきくる夜半の田面のこほろぎのこゑ
 〇温泉村湯げむり立てり露に伏す田づらの稲の白きあしたを
  庭さきの稲田におつるわが宿のいで湯のけむり露とむすべり
  うちわたす箱根山なみ山の背のまろきにかかるあかつきの雲
  めづらしき今朝の寒さよおもはざる方には富士の高く冴えゐて
  垂穂田の稲田のさきの低山にくろずみ深き楢櫟の木
  あるとなきかすけき蕾山茶花にふふめるを今朝見つけたりけり
 〇澤につづく此処の小庭にうつくしき翡翠が来て柘榴にぞをる
  なにげなく聞きゐし雨のいとどしく降りひびくかも酒尽くるころを(深夜獨酌)
 〇蚊帳ごしの灯をみてをれば暁を聞え来るなり遠寺の鐘
 〇物音もなきあかつきの静もりにひびきてながきとほ寺の鐘
  ゆくりなく聞く遠寺の鐘の音にをさなきこころ湧きてかなしも
 〇をちこちに百舌鳥啼きかはし垂穂田の田づらは露に伏し白みたり
 〇湯の尻の沼のへりなる荻むらに今朝おく露はしとどなるかも
 〇わが俥濡れてぞ通る里道の道ばたの草の露のしげきに
  めづらしく俥が通る里みちにみのり伏したり秋草の穂は
  山の根の里道をゆくわが俥走るとせねば啼く鳥きこゆ
  今朝晴るる秋のよわき日水に射してかすかなるかも浮草の花
  浮草の花ひとつ浮びかがやきて水泥は深し水づくその葉に
  ながめゐて眼ぞまどふなる草むらの露草の花の花のしげきに
  ひこばえの木槿たけ低し露草の咲きさかる中に花をひらきて

 ※「自選歌集 野原の郭公」(若山牧水 改造社 大正14年)では十三首が自選されています。
  ○が十三首の自選です。


与謝野鉄幹・晶子

 与謝野鉄幹・晶子は大正11(1922)年2月9日〜11日、畑毛温泉栄家(大正10年創業:現在の大仙家)に、
 平野万里、石井柏亭、高木藤太郎、只躰(誰かな?)と宿泊しています。
 出典は、寛・晶子書簡より。書簡の中では栄屋とあり、栄家でしょう。
 (同年9月には、石川啄木が中華亭に宿泊しています。)

 与謝野鉄幹と晶子は、書簡の中で以下の歌を記しています。

 『湯の上の糸より細き小波も圓くもつれて楽めるかな 寛』
 『湯口より遠くひかれて温泉は女の熱を失へるかな 晶子』

 晶子の歌は、草の夢に掲載されたものと、微妙に表現が違います。
 『湯口より遠く引かれて温泉は女の熱を失ひしかな』(草の夢)

 「草の夢」(大正11(1922)年)には、畑毛山温泉について、与謝野晶子の歌が27首、収められています。
 「森林太郎先生へ捧ぐ」と森鴎外への献辞があり、平野万里が序文を書いています。

 平野万里の序文には、
 「春の休みには畑毛温泉へ行った。之は私のすすめたものであったが、予期に反した。
  しかし帰りに廻った静浦はその失望を幾分癒した。」

 畑毛温泉には、平野万里は失望したようですが、与謝野鉄幹・晶子はそうでもなかったようです。

 「草の夢
  (以下畑毛温泉にて)
  湯口より遠く引かれて温泉は女の熱を失ひしかな
  浴室の石の床をば湯のぬるく這ひたる伊豆の如月の宿
  身一つを静かに浸す浴槽より湯流る心ほとばしるらん
  夕月と富士の雪より射る光霧にみだるる田方の郡
  伊豆の山すべて愁ひて潤むなり富士より早く春は知れども
  しら玉の富士を仄かにうつしたる足柄山の頂の雪
  山国の月見てありぬわが心いつあはれにも改まりけん
  雲ほども進まぬ馬車にわが乗りて伊豆の沼田を巡る春かな
  伊豆と云ふ温泉の国をゆきもどりすれば心も春風となる
  王朝の保元の蔦のからみたる坦庵の家おのれの心
  坦庵の邸の前の溝川に幌をうつしてわれを待つ馬車
  反射炉を二町離れて紅梅と乳牛を見る馬車の客かな
  牛ありぬ韮山川の芹の色すでに山より青き浅瀬に
  真白なる富士を削りてわれに媚ぶ春の畑毛の温泉の靄
  靄上り天城の嶺のふくらみぬ下の百山皆とろけ去り
  山の洞茂れるままの枯歯菜をつたひて落つる二月の雫
  断ち残し六尺ばかり横穴の山にあるごと忘られぬかな
  土穴の門に向ひて青を伸ぶいと新しき夢を見る麦
  二月来ぬ足柄おろし伊豆の野の藁によの尖を海へ傾け
  蛙鳴く藁によが蓋をしたれども雪解の水のやはらかに沁み
  足柄の山を後に浴む身を残れる春の雪かとぞ思ふ
  わが身をば絹の綿もてつながせて浴槽にありぬ春の夜の人
  愁ひては布さらすごとわが身をば山の泉にひたすならはし
  微風や珊瑚の色の紐たれし寛衣の人と温泉の靄
  わが前へ浮漂ひて富士の来ぬうす黄を雲の染むる夕ぐれ
  浴槽より小波つくり急ぐなり月の世界へ行く湯のやうに
  都をば出でし前夜の雨の音をりふし聞ゆ旅の心に


廣池千九郎畑毛記念館  函南町畑毛225-2 055-978-3078

 廣池千九郎博士は、療養のため畑毛温泉をたびたび訪れました。

   


函南町営温泉スタンド  函南町柏谷145-1

 日枝神社の正面に、函南町営温泉スタンドがあります。
 50リットル80円 100リットル150円 200リットル300円
 現金用とプリペイド用と2台あります。

 源泉名「柏谷温泉 柏谷1号」

 この源泉は、「湯〜トピアかんなみ」(函南町柏谷259 055-970-0001)で使用されています。

     

      

   


源泉 駒の湯荘  伊豆の国市奈古谷1882-1 055-949-0309

 畑毛温泉から南下し、案内看板で左折して1kmで「源泉 駒の湯荘」。
 案内看板から畑毛温泉方面を見ると、富士山がよく見えます。

   
 

<駒の湯荘の歴史>

 畑毛温泉にて、明治21年に琴景舎が創業。昭和6年に屋号を高橋館へと変更。
 新たに源泉を掘削し「駒の湯 源泉荘」が昭和52年7月にオープン。
 畑毛の高橋館は「駒の湯本家」と屋号変更。その後、駒の湯本家は閉館し現存しません。
 畑毛の高橋館の別館、「高橋別館」も閉館し、2018年2月1日に「伊豆畑毛温泉誠山」がオープンしています。

 その「駒の湯 源泉荘」も、2017年9月4日閉館、
 2017年11月28日、新たなオーナーにより日帰り温泉施設「源泉 駒の湯荘」オープン。
 

<しし岩>

 昭和47(1972)年に温泉掘削の調査中に発見されたという「しし岩」があります。
 しし岩の裏には、手湯・足湯の跡。

     
 

<1号源泉櫓>

 宿の道路反対側に1号源泉櫓がありますが、現在使用源泉は3号泉がメインのようです。

     
 

<祠/古碑>

 駐車場には祠。祠の横には、寛政6年8月銘の古碑があります。

     
 

<ぬる湯>

 源泉名「駒の湯3号泉 奈古谷16号」と「駒の湯1号泉」の混合。
 (駒の湯HPには、2源泉混合とありますが、分析書は3号泉を掲示)
 浴室入ってすぐ右手に飲泉所があります。
 高温浴槽は加温あり、両端の浴槽が加温なしのかけ流し。
 かけ流しの良い湯でした。
 撮影はご遠慮くださいの掲示があったので、浴室内の画像はなし、パンフレットを撮影しました。
 ポイントカード作りましたが、15回利用で1日券として利用できますが、有効期限が6か月なので、無理。
 近所に住んでいたら達成可能なんですけどね。

     

     

     

    

     


柏谷横穴群  函南町柏谷676柏谷公園

 与謝野晶子が、
 「断ち残し六尺ばかり横穴の山にあるごと忘られぬかな」と歌っています。

     

     

     


蛭ヶ小島跡  伊豆の国市四日町17-1蛭ヶ島公園

 平治の乱に敗れた源頼朝は、伊豆の蛭ケ小島に配流され、1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、
 1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされます。
 (伊豆の国市観光協会「源頼朝公配流の地」を参照しました)

<遺跡 頼朝公配流の池 蛭ヶ小島>碑

 公園入り口に「遺跡 頼朝公配流の池 蛭ヶ小島」碑があります。

  
 

<蛭ヶ島(源頼朝配流の地蹟)>案内板

 案内板の説明を引用します。

(案内板)
「蛭ヶ島(源頼朝配流の地蹟)
 このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。
 狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。
 永歴元年(一一六○)十四才でこの地に流された頼朝は、治承四年(一一八○)三十四才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流二十年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約一.五粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(一一七七)頃までの約十七年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。
 当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政二年(一七九○)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治二十六年に建立したものである。  伊豆の国市」

  
 

<蛭島碑記> 韮山町文化財

 江戸時代の末に伊豆の地誌「豆州志稿」を著わした秋山富南が、
 この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(伊豆の国市指定文化財)があります。

  
 

<秋山富南の頌徳碑>石碑

 豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立。

  
 

蛭ヶ島の夫婦(ふたり)>像

 平成16(2004)年3月18日に除幕。
 富士山に向かって頼朝と政子が寄り添って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」があります。

     
 

<蛭ヶ島茶屋>

 無料休憩所があります。

  


韮山反射炉/江川太郎左衛門像  伊豆の国市中260-1

 韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)が建造した、日本最初の溶鉱炉が韮山反射炉。
 大砲を鋳造するために造られたもので、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」にも登録。

 与謝野晶子が「反射炉を二町離れて紅梅と乳牛を見る馬車の客かな」と反射炉を歌っています。

     

     

    

 (参考) 那珂湊反射炉については、こちらで記載


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