歴史スポット 那珂湊 阿字ヶ浦町/礒崎町/平磯町(別ページ)
○ 湊公園
・与謝野晶子・小山いと子文学碑
・日和山秋月
・い賓閣跡
・湊御殿の松
○ 海門橋
<湊公園について>
(説明板)
「湊公園について
湊公園は水戸藩第二代藩主徳川光圀(黄門様)が元禄十一年(一六九八)に建てた別邸跡です。光圀はこの別邸を謹んで客人を迎えるという意味から「い賓閣」と名付け、歴代藩主の静養や接待のほか、海防の要衝として使われました。い賓閣は、湊御殿・御浜御殿とも称されたことから、この海を臨むこの台地は御殿山、あるいは日和山とも呼ばれます。
園内の枝ぶりがみごとな黒松は、光圀が御殿の庭園に植えるために須磨明石(兵庫県)から取り寄せたものと伝えられ、江戸時代の絵図にも描かれていることから、樹齢は三百年を超えると推定されます。
(中略。元治元(1864年)年の天狗党の乱で焼失。現在は湊公園となっていることなど記載。)
港の見える松の公園として親しまれ、光圀はこの地から見た中秋の名月を「名に高き月をみなとの浦風に雲もあとなくはるるそら哉」と詠んでいます。東に太平洋の海原、南には那珂川の流れと常陸野に続く筑波山が一望できるほか、秋冬の朝夕にははるかに富士山を望むこともできます。」
<みなとの散歩道>
多目的広場の左手奥に日和見山とい賓閣、右手奥の丘に文学碑があります。
与謝野晶子が海門橋を短歌で詠み。小山いと子は小説「海門橋」で海門橋を描いています。
文学碑は海門橋の見える湊公園の高台にあります。
(晶子)
「那珂川の海に入りなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ
晶子」
(小山いと子)
「那珂川の水は青く澄み、飛んでゆくかもめの羽影をさへうつしさうに見える。
橋は静かな影を水に落としてゐるのだ。東の方は白雲の飛びゆく限りは際涯もない太平洋だ。小山いと子」
「碑誌
与謝野晶子は大正八年の秋水戸から湊町に遊び
那珂川の海に入りなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ
大海の波もとゞろと来て鳴らす海門橋の橋ばしらかな
の二首を詠まれその雄大な景観を賞された
小山いと子は昭和6年夏以来再三那珂湊を訪れ
特に海門橋に興を覚え昭和八年その処女作「海門橋」を
その後「海は満つることなし」などを発表された
いま東京杉並に住まわれ女流文学者として健筆をふるわれている
書は特に乞うて先生の真筆を煩わした
昭和五十五年三月
建立 那珂湊市長 薄井三郎
撰 柴田 進
書 宮内勝寿
石工 福地徳四郎」
<「晶子鑑賞」(平野萬里)>
「わだつみの波もとどろと来て鳴らす海門橋の橋柱かな」を選定し解説しています。
「大海」は「わだつみ」と読むようです?。
「おなじ折の歌。那珂川の河口にある橋であらう。いかにも波が来て鳴つてゐるやうな調子である。
そのよさが分りたいなら野に出て秋風を三誦するに限る。」と記述しています。
<与謝野鉄幹・晶子の大洗訪問>
鉄幹・晶子の書簡によると、大正8(1919)年9月8日上野発、同日大洗で1泊・歌会を予定しています。
晶子は海門橋で2句、大洗海岸で5句詠んでいます。
<海門橋>
場所が限られますが、海門橋が見えます。
徳川光圀公はこの地から見た中秋の名月を
「名に高き月をみなとの浦風に雲もあとなくはるるそら哉」と詠んでいます。
(説明板)
「ひたちなか市指定史跡 い賓閣跡
い賓閣は、元禄11年(1698)に徳川光圀(水戸藩第2代藩主)が建てた別荘で、湊御殿、湊別館、お浜御殿とも呼ばれていた。
い賓とは、堯典(中国の書)の「い賓日出‥‥」(□しんで日出づるを導く)ことからとり、い賓閣とは客待所という意味をもっている。
建坪は、約300坪(1,000u)を有する広大なもので、建物は一部分が2階建ての豪壮な造りであったと推定されており、歴代の藩主らによって酒宴や詩歌の会が催された。
また、この高台の後方には、海防見張番(異国船番所)も置かれ、お水主士の人びとが海防にあたっていた。
その後、い賓閣は、元治甲子の乱(1864)で焼失したが、明治30年に湊公園として整備された。
指定日 昭和43年1月16日
設置者 ひたちなか教育委員会」
<い賓閣址 源圀順>
水戸家13代当主徳川圀順の書です。昭和13年建立。
徳川光圀公が須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せ、い賓閣の庭に植えた黒松です。
現在12株が残っています。
<宮原庄助翁像>
○天満宮 ひたちなか市湊中央1-2-1
湊公園に向かう途中右手にあります。大きな鳥居で思わず写真を撮りました。
海門橋は那珂川の最下流に架かり、那珂湊と大洗を結ぶ赤い橋です。
与謝野晶子の歌にも詠まれています。
橋の真中にキラキラドリームベルという鐘があります。
<巌船一里塚ロードパーク> 大洗町磯浜町8037
海門橋の大洗側にあります。
<開門橋諸元標>
<茨城船甚句之碑>
<ながれ/茨城県硫黄島戦没者之碑>
公園内には、水戸藩の江戸小石川邸の山上から移設された「山上門」や、
県指定の史跡・水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が建設した反射炉の跡があります。
(説明板)
「山上門 ひたちなか市指定建造物
平成四年六月二十五日指定
ひたちなか市栄町一丁目十番
この門は、水戸藩江戸小石川邸(現在の東京都文京区小石川町)正門右側の門で、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門である。小石川邸の建物はこの門のはかは全て失われており、今日残存する邸唯一の建築物である。名前の由来は、後に小石川邸内の山上に移築されたことによるという。
幕末動乱期には佐久間象山(兵学者)、横井小楠(政治家)、西郷隆盛(政治家)、江川英龍(兵学者)、橋本左内(思想家)ら幕末・維新史上重要な役割を担った諸藩の志士たちもこの門をくぐり、小石川邸に出入りしたといわれる。
形態的には薬医門である。薬医門は本柱と控柱を結ぶ梁の中間に束をおき切妻屋根をのせた門で、江戸時代後期の典型的な屋敷門である。
昭和十一年に那珂湊出身の深作貞治氏が、当時の陸軍省から払い下げを受け、那珂湊の当地に移築し保存したもので、昭和三十二年に那珂湊市へ寄贈されている。
ひたちなか市教育委員会」
<山上門建設之由来>
「山上門」の由来を記した碑です。
この碑も深作貞治によって建てられました。昭和十二年六月建碑。
<田中町下組水天宮>
山上門下の左手に小さな石祠の水天宮があります。
<慰霊堂について>
元治甲子の乱の戦死者追悼の慰霊堂が取り壊され祠が設けられています。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が、海防の要を唱えて領内各地に砲台を築くため、
大砲鋳造を目的として建設したのが反射炉(大型の金属溶解炉)です。
安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年に2号炉(東炉)が完成しました。
使用された耐火煉瓦は約4万枚といわれています。
元治元年(1864年)の元治甲子の乱で破壊され、昭和12年に現在の模型が、ほぼ原形どおりに復元されました。
(参考) 韮山反射炉はこちらで記載
<那珂湊反射炉跡>
(説明板)
「茨城県指定史跡 那珂湊反射炉跡
幕末、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が、海防の要を唱えて領内各地に砲台を築くため、大砲鋳造を目的として当吾妻台に建設したのが反射炉(大型の金属溶解炉)である。
建設にあたっては、薩摩藩士竹下矩方、三春藩士熊田宗弘、南部藩士大島高任らの協力を得て、那珂湊の大工飛田与七や瓦職人福井仙吉が尽力した。
安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年に2号炉(東炉)が完成した。高さ約15m、使用された耐火煉瓦は約4万枚といわれている。
元治元年(1864年)の元治甲子の乱で破壊され、昭和12年に現在の模型が、ほぼ原形どおりに復元された。
指定日 平成16年11月25日
設置者 ひたちなか市教育委員会」
<護国 東郷平八郎>
反射炉復元記念碑が2基の反射炉の中央にあります。
東郷平八郎の題字です。深作貞治によって昭和十二(1937)年八月に建立。
<反射鑪遺址碑>
「反射鑪遺址碑 侯爵徳川圀順題額」「大正五年十二月」
反射炉建設を担った湊村の大工・飛田与七の子孫らの発起になる碑です。
<煉瓦焼成釜(復元模型)>
耐火煉瓦を焼いた窯も復元されています。