Discover 栃木 温泉文化遺産(温泉文化史)
 
  第1章 若山牧水と草履
  第2章 若山牧水と栃木の歌碑
  第3章 高塩背山

 高塩背山

    峡間
  「峡間」(高塩背山 静光社出版部 昭和2)より引用

   さくら市ミュージアム
    喜連川の文芸 自然歌人 高塩背山ー若山牧水とゆかりの人々ー
    会期:2020年2月15日(土曜日)〜3月15日(日曜日)


喜連川神社  さくら市喜連川4491

     

双歌碑記念碑>

(碑文)
「高塩背山(明治十五年〜昭和三十一年)は本名、正庸。この地に生まれた。明治三十五年前橋中学校を病気で中退後、父祖伝来の喜連川神社神職を継承、かたわら小学校教員をしていたが、二十四歳の頃から作歌をこころざし、一時尾上柴舟に師事して歌と書の指導を受けた。その当時から若山牧水ほか多くの青年歌人と知り、文通。明治43年牧水の「創作」に参加、以後創作社の中軸として名を知られる。
 牧水と背山との親交は深く、牧水はその生涯において三回背山宅を訪ねて宿泊しているが、その第一回目は大正四年七月十九日で、宿った翌朝に「時をおき・・・」の歌を詠んだ。この作は牧水の酒の歌では代表的な名歌のひとつである。
 背山はこれという旅もせず、常に郷土の自然を対象に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を作り続けたが、昭和三十一年五月三十一日に七十四歳で病没した。歌集には「峽間」「移りゆく自然」の二著がある。
 このすぐれた近代歌人二人の足跡をここに誌し、永遠に記念するためにこの双歌碑を建て、郷土の誇りとするものである。
  平成元年四月  喜連川町長 塩野昌美」

 若山牧水は、大正4年7月19日、大正11年11月3日、大正14年9月と、3回訪れています。
 「旅とふる郷(第三編 野州行)」(若山牧水 新潮社 大正5)中、野州行の中で、停車場、喜連川として、
 大正4年訪問時について、喜連川の様子が記されています。

    

双歌碑>

 「時をおき老樹の雫おつるごと
  しづけき酒は朝にこそあれ
  高塩背山兄の許に宿れる翌朝 大正四年夏 牧水」

 「かぜとよむ桜若葉のあひだより
  のこれる花のちるはさびしき 背山」

     


牧水思慕の歌碑 お丸山公園

<牧水思慕>

(碑文)
「牧水思慕
  ひぐらしのいそぎてなけばゆくりなく思ひぞいづる君の旅姿 背山」

 若山牧水七年忌のときの歌
 若山牧水(一八八五〜一九二八)は旅の歌、酒の歌で親しまれている国民的大歌人であるが、背山とは心を許した友であった。二人は若いとき相識り、その友情は終生変わることがなかった。牧水は喜連川に三度来訪し、背山宅に泊った。牧水が背山について詠んだ歌は十九首、その紀行文「喜連川」は名文である。背山が牧水に関して詠んだ歌は九十首に及ぶ。」

     

 碑には、若山牧水の日光中禅寺湖の写真(大正11年10月)が刻印されていますね。

  

(碑文)
「高塩背山(一八八二〜一九五六)
 喜連川が生んだ自然歌人。生涯、喜連川の自然と人生を清明な心で歌いつづけ、歌集「峽間」「移りゆく自然」など四千五百余の歌を残した。栃木県を代表する歌人の一人で、中央歌壇にその名を留めた。
 歌と書は尾上芝舟に師事、若山牧水とは兄と弟ともいうべき親しい間柄であった。背山の残した厖大な歌の数は、喜連川町にとって、明治、大正、昭和の風物詩とも文化史ともいうべき内容を含んでいる。
 いまここに、背山の業績を記念し、この遊歩道を「文学の道」と名づけ、数個の背山の歌碑を建立した。歌の選と文は高塩幸雄、書はこの町の植木盛、石彫は小島昇に委嘱した。
  平成二年三月吉日  喜連川町長 塩野昌美」
 ※高塩幸雄さんは、高塩背山の息子です。

   

塩野昌美氏之像>

 参考までに、喜連川もとゆ温泉(さくら市第一温泉浴場)にある塩野昌美氏之像です。

   


○お丸山公園

 文学の道に高塩背山の文学碑が数基あると前記の碑に説明があります。

   

 お丸山の頂上に行くには、車道、文学の道、シャトルエレベーター(廃止)、九十九折りの道とあり、
 頂上部は、桜の時期以外、未だに立ち入り禁止ですが、歩道の2ルートは復旧しています。
 文学の道は、迂回するので、短距離の九十九折りへ。

  

<秋の歌 背山>

 左の道と、右の道の分岐点に、背山の「秋の歌」の文学碑に遭遇。

   

斉藤定吉翁頌徳碑>

 お丸山公園の始まりは、昭和10年、地元出身の財界人、斉藤定吉氏(名誉市民)が、
 この地を喜連川町に寄付してからです。
 「お丸山公園碑」と「斉藤定吉翁頌徳碑」に遭遇。

   

雨情橋>

 一の堀にかかる橋「一の堀橋(雨情橋)」です。
 現地には雨情橋の記載はありませんが、以前の案内図だと雨情橋です。
 ニの堀にかかる「背山橋」は土砂崩壊してありません。
 雨情橋の手前に、背山の文学碑に遭遇。

    

    

 さくら市ミュージアムの高塩背山の企画展で得た情報によると、
 「この山の谷深からず若草のうえにさくらの散りたまる見ゆ 背山」
 昭和11(1936)年5月に建てられた第1歌碑となります。

    

<文学の道>

 平成2(1990)年3月、喜連川町(現さくら市)が造った遊歩道「文学の道」に、
 背山の歌碑が6基建てられ、8首の歌が刻まれています。
 歌の選定は、背山子息の高山幸雄が行っています。
 昭和11(1936)年に建てられたお丸山公園の第1歌碑と、
 平成元(1989)年に建てられた喜連川神社の第2歌碑を合わせると、8基の碑があります。

 山頂からシャトルエレベーター乗り場まで、文学の道を降りながら確認。
 読売新聞が建てた碑をカウントすると計8基で数が合うのですが、もしかして1基ロストしているかも。

     

     

   


高塩背山の墓

 旧奥州街道の途中から分岐して、階段を登っていくと、高塩背山の墓があります。

 分岐の説明板
 「歌人 高塩背山
    明治15(1882)年〜昭和31(1956)年
  さくら市を代表する歌人、高塩背山は本名を高塩正庸。代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、
 教員を勤めた時期もあったが、生涯の大方を祖父伝来の神職をまっとうした。
  24歳の頃から作歌を志し、一時、尾上紫舟に師事して、歌と書の指導を受けた。
 才能を開花させてからは、郷土の自然を題材に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を終生作り続けた。
  中央歌壇への投稿を通じ、若山牧水と交友が生まれ、明治43年には牧水の「創作」に参加、
 主軸歌人の一人として活躍をした。長く続く親交の中で、牧水は3度、喜連川の背山をたずね、
 酒と短歌を交えたひとときを過ごしている。
 その時牧水が詠んだ歌は背山の歌と並び喜連川神社に歌碑として建っている。
  代表歌集「狭間」「移りゆく自然」にあるように、郷土の風景を慈しみ74歳で没した歌人は、
 永眠の地を愛した喜連川の街並みが見える高台にしたかったのではないだろうか。

  山上より町を
  我が街を埋めつくして流れゐる
  朝の濃霧を丘の上ゆ見つ
  うち渡す峡間の町の夕けむり
  若葉の上にたなびきながるる

    

    

<高塩家墓>

 背山(本名:正庸)は二十代の神官、幸雄氏は背山の息子で二十一代。
 一番真新しい高塩幸雄氏の墓も。
 背山の墓がどれだかわからず、
 喜連川神社におられたボランティアガイドに後ほど聞いてみるも、
 喜連川は色々とお墓いっぱいありますからと、ガイドもわからないとのことでした。

     

     

   

<背山の墓>

 さくら市ミュージアムの背山の企画展で、背山の墓が確定できたので、再墓参。

    

 墓碑表は高塩正庸と本名が刻まれ、裏には「高塩正庸号背山」、歌も刻まれています。
 背山墓の手前に、次男の高塩幸雄さんの墓があります(平成9年3月)。長男は早世されています。

     

   

 六女千代さんが高塩家の背山の生家を守っていましたが、
 墓誌によると平成26年11月に亡くなられています。
 背山のお墓の手前には、次男の高塩幸雄さんのお墓があります。

 ・高塩幸雄
  大正3(1914)年8月〜平成9年(1997)3月23日。高塩背山の次男。長男は早世しています。
  昭和18年株式会社主婦の友社入社。昭和45年同社出版局長、昭和52年同社専務取締役。
  背山亡き後、喜連川神社の宮司を引き継ぎ、「高塩背山歌集」、
  「背山の歌」、「若山牧水と喜連川」など背山関連書籍を出版しています。

    


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